真の世界を探して

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山の頂上からつい先日登ったばかりの別の山を眺める時の不思議な感覚よ。

頭上に青空、向こうの山との間には隔てるものなど何もなく、ただ涼風が吹き渡っている。

それが一体何からどこから来るものなのか胸の奥、こそばゆい思いだった。

つまり、「あっち」と「こっち」。

物事をいつも両極に切り離して考え見ようとする癖のある人間である。

「生と死」「幸せと不幸せ」「白と黒」「光と闇」「喜びと悲しみ」「愛と憎しみ」などなど、何もかも中立はなく、反目し合っている。

そうしてその中に自分の解釈を勝手に挟み込み、その事象や自分の置かれた立場などを理解しようとするのだ。

なるほど、分別、分けるからこそ分かると言うのか。

この世はカオス。
何もかもが混沌としているから分断し、切除し、部分部分を取り出しては真実を見極めようと分析し、全体を慮るしか方法がないかのように見える。

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しかし、山の話に戻ると、今日登った山から離れて明日違う山に登ると、ここだった前者があっちになり、後者がこっちに代わる。

要するに「あっち」も「こっち」も元々はないってこと。

変わらぬ一つの自然がそこには存在しているのにも関わらず、人の分別や恣意的な認識に逆に無分別に無意識に従い「あっち」になったり「こっち」になったりしている。

表面上の自我認識と無意識層のさらに奥にある仏教で説かれるところの「あらやしき」、その本来の真我でこそ真理は解き明かせるのであろう。

この身体やこの元来あやふやな認識を離れた真の世界では「あっち」も「こっち」もなく、相対的にではなく絶対的な空間があるはずである。

荘子のかつての言葉が千鈞の重みを持って彷徨える人の心に迫り来る。

「人が分別という差別を捨て去るとき、人ははじめて本当の自然を知ることができる」


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写真は月曜日に登った繖山からの景観