まだ夜の帳が台風一過を疑い、空に引っかかったままの平日の夕暮時。

引き戸を開けると、マスターが笑顔で迎え入れてくれた。
入口すぐ横の座敷に案内される。
上がり口の古い畳が擦り切れめくれていた。

テーブルにつき、色褪せた壁に目をやっていると、カミさんが「大きな蚊!どこ?どこ?どこ行った!?」と悲鳴を上げた。
彼女の背中に逃げ隠れた蚊に目を凝らすも、そのまま出て来ず、見失ってしまった。
「すみません!キンチョールないですか?」
と立ち上がって厨房に声をかけるが、ないですと困った顔のマスターは座敷に上がり、素早く蚊を見つけると、パチンと手を叩いた。
が、失敗。
「襖開けて置いてくれたら勝手に何処かにゆくやろう」と私。
その後、蚊の存在を忘れるほど美味しい料理が運ばれて来るとは知らなかった私たちは、テーブルに所狭しと並べられた5、6部ほどのメニュー表の品書きの多さに目が点になった。

お好み焼きだけでも30数種、トッピングやネギ焼き、もんじゃ焼き、一品、魚介類、麺類、飯類、デザートなどを入れたら、優に百種類以上あるだろう。
流石に迷うというより、目を通しているだけで、夜の帳が緞帳に変わって降りて来そうで、いつものようにスタンダードな物から頼むことにする。

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お好み焼きのスジコンネギ焼きは目の前の鉄板で、焼きそばはこちらで焼きましょうかと親切に聞いてくれた。
頷く私たちに程よく運ばれて来た焼きそばを口に入れた瞬間、思わず唸った。
麺のコシがただものではない。
硬いわけではないが、噛みしめるたびにそばが逆襲してくるというか弾力がある。
口の中で弾ける。
大き目に切られた豚肉に、ネギや玉ねぎ、シャキシャキのもやしもたっぷりと入っている。
麺に踊らされて鉄板に移された具材も弾け飛んでいるみたいだ。
味付けもくど過ぎず、あっさりし過ぎず、塩加減は薄いのに、濃厚な味がするのは、高級な麺の為せる仕業と言う他ない。
焼きそばの概念が打ち壊されて、新たな可能性を見い出す思いがした。
「美味しいですねぇ」
その声を聞いたと同時にマスターの顔がほころび、「ありがとうございます!」と、本当に嬉しそうに頭を下げた。
「そばも手作りなんです」
自信たっぷりに話すその仕草は、決して傲慢さを感じさせるそれではなく、美味しい物を客に食べさせたいという最も大切な情熱が伝わって来た。

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先に出てきた豚キムチも、きちんと発酵させた酸味と深味が効いていて、私たちの好みに合った。
酒の肴にはもったいないほどだ。
そのまま何も飲まないで、味わうべきである。

肝心のお好み焼きのスジコンネギ焼きは、たまたまなのか、作り立ての醤油ベースがまだ湯気を放ち、焼き上がったところにかけて頬張ると、これまたでかいすじ肉と甘いキャベツが、粉もの特有の粉っぽさなど微塵も感じさせずに、まっすぐに胃袋に収まってくる。
血となり肉となるって感覚だ。

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店は古い。
しかもお世辞にも清潔感が漂っているとは言い難い。
だから味がある。
まるで食い道楽大阪の小汚い暖簾を潜った時の感動を思い起こした。
しかし、誤解してはいけない。
精算の際に、レジーの壁に目をやると、誇らし気に飾られた一枚の額がある。
そこには衛生管理の行き届いた店であることを証明する表彰状が光り輝いていた。
帰り際まで笑顔を絶やさないマスターや、慣れぬレジーをそのマスターに横で教わりながらキーを懸命に打ち終わったバイトの女の子の天使の微笑みも、すっかり降り切った外の帳までを明るく照らしていた。


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