どういうことかと言うと、今の世の中、本物の政治家なんていないように見える。
権力と金を食いものにし、政治という制度を己の保身のために利用し、我が身の利益しか考えられない政治屋ばかりが、死にかけた国土を横行している。
そのやり方は、傷付き疲れ果てた震災地や本土の犠牲に今も甘んじる沖縄の人々のこころを容赦なく打ち砕き、怒りに震えながら立ち竦む現場をヒーロー気分でただ横切るだけである。
それは国や社会の話。

私の小さな社会は、私を中心に回っている……、というと語弊があるが、愛すべき歌たちの多いさだのまっさんの詩を借りれば「私の人生の中では、誰もが皆主人公」なのである。
しかし、周りがあっての中心であることを忘れてはいけない。
目に見えない空気に取り囲まれているから、意識するにせよ、しないにせよ、生かされているのだ。
それでも、中心で回る駒は、その摩擦によっていつか必ず止まる。
それも真実。

焼肉屋に限らないが、商売と言えども、そこには必ずその人なりの哲学と経済観念がある。
政治と同じく、両方の兼ね合いが大切なのだ。
一方を立てれは他方が倒れるわけにはいかない。
その両立に苦心するのは何処も同じ。
でも先の政治家みたいにはなりたくないだけなのだ。
人間をやめたくはないから。
ではどうするか。

photo:01



photo:02



photo:03


いずれも箕作山

生活のために商売をやめるわけにはいかないから、儲けなければならない。
「三方よし」よろしく、肉の目方も気にしなければ成り立たないだろう。
私の認識するその概念は、本来の捉え方の順番が前後するかも知れないが、まず第一に、作り出す商品なりサービスが社会に対してもよく、次に消費者に価値を認めていただいた上で代償を頂き、最後に我が身が潤う。
ここで終わってしまえば何々屋だ。
屋台に背骨となる柱を立て家を建てなければ、まともに住めない。
潤んだ分を少しだけ私腹に入れたら、再び社会、消費者に還元する。
出来る限りそれまで以上に。
この図式が理想的なのだが、世の中そんなに上手く甘く出来ていないから皆悩むのだ。
どこかで歯車が狂い、空気に触れ、摩擦が起こり、駒が断末魔に大袈裟に揺れながら喘ぐ。
そんなとき、世間が変わらないのなら、自分でもう一度駒の芯から外側へと一本筋の通った紐をきつめに巻いて、丁度よい角度で世間に放り投げればよい。
ほら、動力を巻き直した駒は、世界の中心でブレることなく、再び回り続けることだろう。

それが、焼肉屋ではなく、焼肉家になるということ。
世間と同じように、小さな焼き肉家の世界も決して浅く、狭くはない。
摩擦はあっても、回し直せる素直な手がある限り、理想を追い求めることは不可能ではない。
どころか、それがすべてと言ってよい。

「あんた、早うしい。顔洗うて、準備しな、もう朝ごはん出来るで」
店の定休日の朝、そんなことを書きながら考えていると、我が家の大蔵大臣が、今朝はやけに優し気な口調でつぶやいた。
何か魂胆でも……叫び

そんな気が小さいことに恐れ慄いているから、うまく生きられないのだって。
休みの今日は、遅れたままの大学の勉強をしよう。
贅沢なものだ。
駒遊びはここまで。

photo:04

瓦屋寺


青空を見上げて嘘の付けない方はクリックをお願いします!

   ダウンダウン

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 東近江情報へ
にほんブログ村

どうもありがとうございますビックリマーク