1mm happiness



■basic data■


名前:八木駿祐(やぎしゅんすけ)
生年月日:1989年12月5日 23歳
所属:関西学院大学総合政策学部5回生(休学中)



■Questiuons■



1、今やってること


○バイト
学費・生活費・カメラ代・渡航費を稼ぐため、マクドナルドでマネージャーとして、だいたい週6日・8~10時間働いている。


○ブライダルカメラマン

派遣社員として最近採用されたばかりで、今はまだ実力試しをされている状態。

コンデジで撮れる写真じゃ物足りず、2010年7月にヤフオクで中古のものを買って一眼デビューをした。それ以来、伝えるためのツールとしてカメラを使っている。
「100行書いても伝わらないメッセージを、1枚の写真に込められるのかもしれない」って思っているけれど、僕はやっぱり文章で伝えたい。写真はインスピレーションに訴えることはできるけど、それだけじゃなく事実を正確に伝えるならディスクリプションは必要だと思うから。


○ジャーナリストとしての活動


◆アフリカ(ウガンダ、ケニア、ザンビア、ソマリア)と中東(パレスチナ、リビア)

現地に足を運び、現状を知り、記事を書いたり、写真を撮ったりしている。
2月末からウガンダ、3月にカンボジア、8月にソマリランドに行きます。


◆大阪・釜ヶ崎
中高生の頃から、ニュースでよくホームレス問題を見ていて、日雇い労働者の町があることを知って驚いた。ちょうどその時におっちゃんが襲撃される事件や暴動が起こったこともあって、何不自由なく生活していて学校に通っている僕と同じ国にこんな人たちがいることに対して、疑問を持っていた。
ちょうど後輩が特定非営利活動法人Homedoor を起業していたから、今はそこにお世話になって色々教わったりしている。最近はカメラマンとしてHomedoorの活動に同行させてもらっている。


毎年、釜ヶ崎では200人もの人が凍死や餓死で亡くなっている。
これは相当深刻な問題だけど、行政には手を施す余裕が無い。
だから、自分たち市民が声を上げていくなど、次のフェーズが必要なのではと思う。
決して行政だけが悪いわけでも、おっちゃんらだけが悪いわけでもない。
こういう状況が生まれた背景にある社会のひずみについて多くの人がもっと知っていけるように、どんどん現地に足を運んで、時間を掛けて伝える活動をしていきたい。


◆宮城県 気仙沼大島

震災の復興支援活動として、友人のじゅんちゃん(黒田淳一 )が写真教室を開いている。
元々は、尊敬するフォト・ジャーナリストの安田菜津紀さんがやっていた活動で、twitterを通じてじゅんちゃんもこの活動をしていることを知り、一度同行させてもらった。

写真教室では、テーマを決めた上で、小学生の子どもたちにデジカメを渡して写真を撮ってもらっている。
その背景には、彼らに、表現の幅を増やしてほしいって思いがある。


カタチの上での復興は少しずつ進んできているけど、心の復興はまだまだ進んでいない。
震災の傷は癒えていないのに、それらを口に出すことは簡単ではない。
でも、写真の中に、あるいは写真という別の表現のツールを身に付けていくうちに、言いにくいことがポロッと出てくる瞬間も生まれるかもしれない。
そんなことを、現地の先生は願っているそうだ。

僕個人としては、「子どもたちがどういう風に島のことを見ているのか」や「震災が起こって彼らの中で何が変わったのか」を知りたいなと思っている。
じゅんちゃんは3月で卒業してしまうから、じゅんちゃんの思いを引き継いでいきたい。


高2のときに友達が伝染病で亡くなってから、自分の中に問題意識が生まれた。
何で現場に立って関わろうとしているかというと、問題を解決できるのは現場で動いているアクターだけだし、言葉にするのは簡単だけど行動に移すのは難しいから。
実際に活動している人の写真を見てもらって、「自分に何ができるだろう?」って少しでも自分事にして考えられるきっかけを与えたい。
そのために、自分に出来ることや、続けられると思うことはやっていきたい。



2、大学生活


○CLUB GEORDIE(クラブ・ジョーディー)の活動


CLUB GEORDIE は、草の根レベルの国際交流・国際協力支援の推進を目的とした団体。
僕ら自身が海外に行って家や学校を建てたり孤児院を支援したりするのではなく、海外で様々な問題が起こっているってことをもっと市民の皆さんに知ってもらって、日々の生活の中で、「自分たちにできることは何だろう」と考えてもらえるための啓発活動をやっていた。
小・中・高校生に授業の時間をもらって開発教育も行っていた。「自分と同い年の世界の子はどんな生活をしているか」「リサイクルすると何がどう変わるのか」などなど。
ここでは、2回生で幹部の一員をやって、3回生で代表を務めた。


僕はすごくコミュニケーションに無機質で、言葉を選ばずはっきり意見を言ったり否定から入るところがあったりしたから、先輩にも同回生にもとにかく嫌われてた。「死ね」って面と向かって言ってもらったこともある。
でも、団体内外で人間関係にすごく悩んだ結果、「じゃあ、とりあえず自分が良い人になったら良い訳やんな、何が悪いか分からへんけど」って思うようになって、団体で好かれている人やミーティングで潤滑油的な存在をする人のミーティングでの振る舞いや普段の様子を観察してノートにとることを始めた。そして、その中で気付いたことやわかってきたことを取り入れて活かしていった結果、だいぶ人間関係が改善されていった。


○政策・情報学生交流会


この交流会 は、全国から政策系の学部に所属している学生が集って社会問題について議論したり、チューターの問題意識に共感した人が分科会と呼ばれるゼミのようなものに分かれて、よりコアな話をしたりするもの。

1年生の夏に初参加してチューターの先輩に憧れ、「自分もチューターになりたい」と思うようになった。「まずは交流会そのものをもっと知ろう」と思い、1年の冬にスタッフとして参加。スタッフとして二度目の参加だった第30回のときに、自分自身すごく不完全燃焼だった。それにすごく好きだった当時の代表と副代表が、懇親会で「もっとこうしたかった」って泣いているのを見て、「次期スタッフに、スタッフ経験者が他にも出そうにないなあ…しゃあないし、僕がやるか。彼らの思いも引継ぎたいし。」と思って第31回の代表に立候補した。


このときはCLUB GEORDIEの代表もやりつつ、もちろんマクドでも週6で働いてたから、かなりの過労状態だった。
ある日の朝、起きて姿見を見たら顔面が削れてた。枕を見るとタオルが敷いてあって、そこに血が付いてた。
深夜2時に交流会のSkypeミーティングが終わり、「アイス欲しいなあ。おにぎり欲しいなあ。カップラーメン食いたいなあ。」って思いながらチャリでコンビニに行ったところまでしか記憶が無い。どうやら、チャリンコでヘッドスライディングしてたみたい。
けど、テーブルの上を見たら、おにぎりを包んでたビニールとアイスバーと汁までちゃんと飲んだカップラーメンがあって、おなかいっぱいの僕がいた。
そんな状態でもしっかり食事はしていたみたい。


我に返って叫んだら、その声に気付いた下宿先のおばちゃんが出てきたんだけど、僕の顔を見てびっくりしすぎて腰を抜かしちゃった。
結局、麻酔を18本も打つ全治2か月の大けがを負った。顔面半分ガーゼでブラック・ジャックみたいで。毛根が削られたのか、おかげでヒゲが生えてこない。


○カンボジアへの渡航


大学3年の9月にフォト・ジャーナリストの安田菜津紀さん のスタディーツアーに参加した。
ある日、京都で開催されてた菜津紀さんの写真展の告知を見て、ちょうど京都にある実家に帰る用があったから、暇つぶしとして行ったんだけど、彼女の撮った写真にすごく惹かれた。
それで菜津紀さんと話をしていると「今度スタツアあるんだ。」って言われて、その場で「行きます」って即答した。
カンボジアに行きたかったからというよりも、「菜津紀さんがなぜずっとカンボジアに通っているのか、カンボジアに惹かれているのかを知りたかった」って思いと、「一緒に行くことで、こんな写真を撮れる菜津紀さんの視点を通して、カンボジアを知りたかった」ってのが強かった。
実際に行ってみたら、行ったことのあったアフリカとは雰囲気も何もかも全然違って新鮮だったし、菜津紀さんの思いにも触れられてすごく楽しかった。


その写真展のときに、ずっと尊敬していたジャーナリストの佐藤慧さん にも出会うことが出来た。
僕の死んだ友達はザンビア人で、佐藤慧さんはザンビアで活動をしているジャーナリストだったこともあって、1年生の頃からずっと慧さんのブログを読んでいたから、すごく感動した。翌年の3月には、その縁もありザンビアへも行くことができた。


○世界一周


カンボジアへのスタツアから帰国後、一応就活を始めてセミナーに足を運んだりしてみたけど、ピンとこなかった。
それに、「自分が行ったことのあるケニア・ウガンダ・カンボジアだけでもこんなに違うんだから、他の国にはもっと見たことのないものや知らない問題があるんじゃないか。もっと世界の色んなところを見てみたいなあ。」って思いが強くなって、就活を辞めて、二年間休学して世界一周に行くことを決断した。
「自分でお金を工面すること」「大学は卒業すること」「就職すること」「生きて帰ってくること」を条件に親に許可をもらった。


最初は、1年間でバイトしてお金を貯めてもう1年で一周に行こうと思ってたけど、白地図を買ってきて行きたい国を挙げて旅の計画を立ててたら、全部周るためには500日間以上掛かることがわかった。
「これじゃあ1年間では足りない、かといって半年でこんな額は貯められない」と思ってどうしようか悩んでいたちょうどそのとき、間寛平さんが協賛金でアースマラソンをやってはることを思い出して、協賛金を集めるということを思い付いた。


そこで、自分がなぜ世界一周をしたいのかを企画書に落としたら、「もっと世界の現状を知りたい」という気持ちに加えて、「僕が国際協力のロールモデルと言える人に会って、情報を集めて、まとめて一覧化出来るようにすれば、国際協力に関心がある学生がキャリアについて考える時に参考にできるんじゃないか」って思うようになった。僕自身がいざ就職について考えるってなったときに、国際協力系の仕事をどうやって探したらいいのかわからず困ったし、これって色んな人が知りたいことなんじゃないのかなと思ったから。

これに関しては、思うところもあって。色々話を聞いてきたし、それを発信もしたけど、分かったのは「情報があろうがなかろうが、動く人は動く。」ということ。無意味とは言わないけど、そんなに意味がなかったとは思う。


結局、企業様3社から協賛金をいただき、個人の方から総額130万円、そして母校の先生が後輩に声を掛けてくれてお金の援助をしていただいたおかげで、世界一周のための資金が集まった。

2011年6月3日に日本を出発し、2012年9月22日に帰国するまで約500日間で中南米以外の50か国を周った。



3、好きな言葉


「常に全力であれ。今を大切に生きろ。」


高3の夏に、最後の大会を目前にしてガンで亡くなったサッカー部の恩師がずっと言ってはった言葉。鬼より厳しいと思ったし、ぼくも吐いても走っていた。余命三ヶ月と言われてから、約一年近くグラウンドに立っていた。その気迫、生きる力強さ、全てが凄かった。感謝してもしきられない、先生。



4、人生のターニングポイント



○高2のときに友達が伝染病で亡くなったこと


高校2年生の9月~3月まで7か月間イギリスに留学をしてた。そのときに同じカレッジのサッカー部だったザンビア人の友達がマラリアで亡くなってしまった。

それから自分の中で問題意識が芽生え、「伝染病」や「アフリカ」「国際協力」に興味を持つようになった。
「伝染病を無くしたい」「医学じゃない観点から、伝染病を予防する方法を学びたい」と言っていたところ先生に薦められたのが関学の総合政策学部だったため、そこに進学した。


○大学2年のときにアフリカに行ったこと


入学してからもアフリカのことについて勉強はしていたものの、所詮机上の空論って感じでよくわからないままだった。
2回生のある日、教授を質問に攻めにしていたら「質問ばかりで面倒だから、一回とりあえずアフリカ行ってこい」って言われて、一人でアフリカに行くことを決意。1か月間ケニアとウガンダを周った。
教授に紹介してもらった総政の先輩に連れてってもらって孤児院を見学したり、NPO法人テラ=ルネッサンスにコンタクトを取って、現地の活動を見させてもらったりした。


アフリカに行って学んだことは、「現場を見ることの大切さ」。
現場に行くことではじめて、そこで活動している人のリアルな話が聞けるし、現地のニーズがわかると思う。

アフリカに行ってから、CLUB GEORDIEで伝える活動をするときも、ネットの情報やCM の受け売りじゃなく、自分の口で問題を語れるようになった。

この経験をして、「国際協力やアフリカに関わる仕事をしたい」と思う気持ちが強くなった。


○世界一周中にパレスチナ・リビア・ソマリランドへ行ったこと


パレスチナにデモの取材に行ったとき、アッラーに祈り、イスラエルに対して反乱するパレスチナ人の姿を見て、魂の叫びを初めて目の当たりにした気がした。



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※村をイスラエル軍が襲撃した後の様子。



それまでは、「なんでこんなに争うんだろう?」って疑問に思ってたし、「どっちが悪いんだろう?」って考えてたけど、足を運んでみて、「どちらも正義なんだ」と感じた。


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「パレスチナデモ、催涙弾、抑えきれない衝動」




デモの最中、イスラエル兵がパレスチナ人の15歳の子どもを逮捕する場面を見て、すごくショックを受けた。


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※15歳の男の子が逮捕される瞬間。



「写真を撮って伝えたところで目の前で起こったことは変わらないし、逮捕された少年は返ってこない…自分はカメラを持って、何をやってるんだろう。何が伝えるだ…」って思い始めて、ジャーナリストやカメラマンとしてデモに参加してる自分に、絶望的な無力感を感じた。
「現地で起こっていることを伝えたい」と思ったそもそもの旅の目的を疑い出して、悩み続けることになった。


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そのパレスチナに入る前にトルコで、一切連絡が取れなくなってた留学時代のリビア人の友人に再会することができた。
当時戦争中だったリビアの現状を聞いていると、そのほとんどが日本のニュースでは報道されてなかったことで、「自分は全然知れてなかったな」「伝えるって何なんだろう?」って思いながらパレスチナに入ったから、余計考えてしまったんだと思う。


アフリカにあるソマリランドでの出来事も印象に残ってる。
ソマリランドは国として承認されていない。ほとんど現状を知られない国。
貧困や格差の存在はもちろん、教育インフラすらも整っていない。
けれど、そこには国を変えようと頑張ってる人たちがたくさんいた。


20年くらい前までソマリランドでは紛争が起こってたから、巻き込まれるのを避けるためにロンドンやアメリカに難民として避難した人がたくさんいる。
僕がソマリランドでお世話になった人もそのうちの一人で、彼は2歳でソマリランドを出て難民としてイギリスに行き、ロンドン大学で博士号を取って、大使館に入り、祖国に帰ってきたという。
「ロンドンに居た方が明らかに文化的な生活が出来るのに、なんで帰って来たの?」って聞くと、「ロンドンは僕を育ててくれた国だけど、僕の国ではない。ソマリランドはお金も無いし、治安も悪いし、避難ことに対してずっとここに住んでた人たちからひがまれることもあるけれど、自分の国はここしかない。お金のためじゃなくて祖国のために、僕は働きたいし、生きたいんだ。」って彼は話してくれた。


「ジャーナリストなんて絶対ならへん!」って思ってたし、伝えることに意味なんてあるのか疑問を持ってたけど、この旅をしていく中で考えが変わった。
たとえば誰ひとりソマリランドを伝える人がいなくても、現地で孤軍奮闘して頑張ってる彼らがいるわけで。
知られなかったら問題にすらならないことに光を当てて、伝えていける人になりたい。
無力に近い微力にすぎないけど、もっと多くの人にこのことについて知ってもらうきっかけを与えたいって思うようになった。


旅をするよりも、一回帰国して、お金を貯めて、早く現地にジャ―ナリストとして戻ってくることの方が自分にとって大切だと思うようになったから、予定より3か月早く日本に帰国した。



5、モチベーション


やりたいことや、やると決めたことはつべこべ言わずやるしかないと思っているから、モチベーションの上がり下がり自体がない。

僕はずっと、やりたくないことはやらずに生きてきてるからね。やりたくないことも、やりたいことをやるために必要ならやる。それ以外は必要ない。人生短いから。
やりたいことなら続けられるし、頑張ってるなんて感じないはず。必要なことだからやってる、それだけ。



6、好きなエンターテイメント


○本


「ワセダ三畳青春記」/高野秀行

作者で辺境ライターである高野さんは、8年間大学に通った経歴があって、「真人間になりたくない」って言っていたような変わった人。
ありえないことが淡々と書かれすぎているため、読んでて飽きない。


○映画


・「Into the Wild」
・「Blood Diamond」
・「Motorcycle Diaries」


○ドキュメンタリー


・「Invisible Children」
アメリカの学生が作った、ウガンダの少年兵を取り上げたもの。



7、趣味


○お菓子作り
甘いものが好きで、紅茶には砂糖を10杯入れるくらいに極度の甘党。
炊飯器やオーブンを使って、クッキーとかケーキを作ることもある。
プライベートでは、「引きこもり」って言ってもいいぐらいのインドア派だから、クッキーが焼けてる匂いを嗅ぎながら、本読んだり掃除したり洗濯したりする時間がすごく好き。



8、尊敬する人や憧れの人


○尊敬する人
・亡くなったザンビア人の友人
・安田菜津紀さん
・佐藤慧さん
・サッカー部の先生
・母親


○憧れの人
・BON JOVI
・David Beckham



9、未来について


ゴールは無いと思っていて、一介のジャーナリストとしてずっとやっていこうと思うけど、まだまだ僕は若造なわけで。
そりゃ、戦争を止めたいし、無慈悲に殺されている人を救いたいと思うけど、それを100%叶えることは無理な話で。
それでもやっぱり、伝えていきたいと思う。


あまりにも、声をあげているのに、みんなに気付かれない声が多い。
定められた運命に抗おうとしてる人たちを見て、もっとこの人たちのことを僕たちは知る必要があると思った。その声が拾われない限り、結局彼らは大きな力に巻き込まれるだろうし、それが紛争となってしまっているから。


「伝えることによって、僕らが声を上げることによって、止められる争いはあるんじゃないかな」「伝えていくことで変えられるものがあるんじゃないかな」って、信じている自分がいる。


結婚したいし、子どもも欲しい。
僕自身が家族からそんなに愛情を受けていないから、余計に、サザエさん一家のような、家族みんなにとって「帰れる場所」である家族の姿に憧れる。



今の僕は、駆け出してもいない準備段階にいるから、まだ死ねない。


自分がお世話になった人が、世界中の国や地域にいる。
その人たちに、恩を返していきたいし、僕が関わることで何かが生めるような仕事をしたい。


お金とかは生活できて取材できる分があれば、それ以上は要らないから、自分が幸せだと思える中で、好きな人と楽しく生きていけたらいいな。




【About you】♯078 八木駿祐
Facebook→Shunsuke Yagi

Twitter→@ShunsukeYagi
Ameblo→「社会を変える」に出逢う旅~The First Step to the World~



■My note■


友達の中に駿祐さんのことをよく知ってる子がいたり、私の高校時代の部活の先輩が同じ団体で活動されてたことがあったり、名前の一字が同じ字だったりと、何かと駿祐さんとは共通するものがあったものの、実際に駿祐さんとは一度挨拶を交わしたことがある程度だった。
先日、お誕生日祝いのメッセージをFacebookで送った際に、「たまにブログ読んでるよー」と言ってくれたことがうれしくて、今回お願いしてインタビューをさせていただいた。

会う前、私は勝手に駿祐さんがすごく白黒ハッキリしてる無口な人なんじゃないかという印象を抱いてた。
それに、駿祐さんはそれこそ「大学生の活性化」を目的にして発信を行っている正規の団体からもインタビューを依頼されるような方であり、自らもブログで「伝える」活動を行っており伝えることへのこだわりを強く持っているであろうため、「インタビューになるだろうか?」と私は一人で勝手にハードルを上げて緊張していた。


でも、待ち合わせ場所で出会って、駿祐さんの声を聞いた瞬間、私の緊張の九割五分はどこかへ行ってしまった。
温かい声のトーンから、駿祐さんの優しさや人柄が伝わってきたからだ。
最初から気さくに話してくれたため、自然とインタビューへうつることができた。

私は、どんなに悲しいニュースや悲惨な現実が伝わってきても、なかなか自分事に考えられない人間だ。
だから、駿祐さんがなぜそんなに問題意識を持って行動し続けられるのかが不思議だった。
けれど、動き続けることは今の彼にとってあまりに自然なことで、やはり彼のルーツこそが、彼が行動し続ける永遠に変わらぬ理由だった。


駿祐さんは、追っかける。
どこまでも追っかける。
疑問を、違和感を、世界に散らばっている何かがおかしい現実を。

伝えた先に、どんなことが起こるかなんてわからない。
伝えることに、どれくらいの意味があるかなんて計れない。
それでも、きっと誰かの世界が変わり、その連鎖で社会が変わることを信じて、彼は今世をこの仕事に捧げる。