私は長い間、自分を探し続けてきました。
最初にのめり込んだのは、自己啓発の世界でした。
セミナーに通い、本を読み、成功者の話に胸を熱くした。
「考え方を変えれば人生が変わる」
「ポジティブに思えば、現実は変わる」
そんな言葉に心を奪われました。
確かに理論は刺激的で、頭では「なるほど」と理解できた。
でも――心がついていかない。
頭は満足しても、身体が動かない。
理想は見えているのに、現実の私は何ひとつ変わらなかったのです。
「結局、私はダメなんだ」
自己啓発にのめり込むほどに、私は逆に自分を責めるようになっていました。
だからこそ思いました。
「今度こそ、心理学ならば…」
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心理学を学べば、心の仕組みが理解できる。
感情の成り立ちがわかれば、私は苦しみから解放される。
本当の自分に近づける。
そう信じて、私は希望に燃えて心理学の学びに飛び込みました。
心理学は、確かに多くの気づきをくれました。
怒りの裏に隠れた悲しみ。
潜在意識が、無意識のうちに私の行動を決めていること。
自己肯定感が低いために、私は人間関係で不必要に我慢してしまっていたこと。
「なるほど、そうだったのか」
そう思える瞬間は確かにありました。
感情を理解することで、心は少し軽くなる。
潜在意識を知ることで、行動のパターンを見直せる。
一時的に救われるような感覚がありました。
けれど――。
どれだけ学んでも、どんなに分析しても、
私の奥底にある「渇き」は癒されなかったのです。
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潜在意識に触れれば触れるほど、私はむしろ「もっと奥へ行きたい」と願うようになりました。
感情の仕組みや心の動きは理解できる。
それでも、そこから先にどうしても残る問いがあったのです。
――私は誰なのか?
――私は何者なのか?
――私の人生の目的は何なのか?
私はこれまで、そうした問いを立ち止まって考えることなく、ただ流されるように生きてきました。
けれど一度立ち止まり、自分の人生をどう生きるのか、本当に何をしたいのか、何をすべきなのかと自分に問いかけたとき、避けられない問いが迫ってきました。
使命とは何か?
私の存在の意味とは何か?
そこから目を背けることはできませんでした。
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潜在意識を単なる「書き換え」で現実を変えましょう――。
そんなやり方で済ませることなど、到底できっこない。
もっと深い層に辿り着きたい。
人間の宿命と呼ぶべき根源に迫りたい。
そして、この壁を越え、ベールをすり抜けるためには、
見えない世界へ参入する必要があるのではないかと感じ始めたのです。
単なるサイキックや霊感ではなく、
もっと奥底にある、長らく人間には隠されてきた“大いなる秘密”。
その世界への扉があるのではないか?
私は、どうしてもそれを知りたかった。
扉がどこにあるのかもわからない。
鍵を誰が持っているのかもわからない。
それでも――進むしかない。
心の奥から、そう突き動かされていました。
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ある日、思い切って心理学の教授に問いかけました。
「私は誰なのでしょうか? 本当の私は何者なのですか?」
私の奥底からあふれる切実な問い。
これに答えてもらえたら、私は救われる。
そう信じていました。
けれど返ってきたのは、あまりに冷たい言葉でした。
「そんなこと、わかるわけないでしょ。
あなたはあなたよ。
そんなことにうつつを抜かす暇があったら、家族のために家事をやりなさい。」
私は打ちのめされました。
胸がズキリと裂けるように痛みました。
私はただ、存在の根源を知りたかっただけなのに。
その問いは愚かだと突き放され、
「お前の探究には意味がない」と言われた気がしました。
その瞬間、深い絶望が心を覆いました。
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心理学は、人の感情や潜在意識を理解するには素晴らしい学問です。
多くの人を癒し、行動を変え、人生を楽にしてくれる。
心理学で満足できる人もいるでしょう。
でも、わたしには足りなかった。
潜在意識を単なる「書き換え」で現実を変えましょう――
そんな発想では、私の渇望は埋められなかった。
私はもっと根源的な答えを求めていたのです。
「私は誰なのか?」
「私は何者なのか?」
「私の人生の目的は何なのか?」
感情でも思考でもなく、存在そのもののレベルで、その答えに触れたかった。
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そして私は気づきました。
心理学は「解釈」までを扱う。
けれど「解釈を生み出す前提」――セルフイメージ、存在のブループリントには届かない。
だからこそ、形而上学が必要だったのです。
形而上学は、心理学が触れられない領域――
魂の設計図、存在そのものの次元を扱います。
「私は誰か?」という問いを愚かだと切り捨てず、むしろそこから始める学び。
宿命を超えて使命を生きる道。
あの絶望と渇望があったからこそ、私は心理学の限界を知り、
そして形而上学という真の扉にたどり着いたのです。