6月11日(火)、俳優座スタジオで、『野がも』を、見ました。
ヘンリック・イプセンの作。
毛利三彌の訳。
演出は、眞鍋卓嗣。
前半1時間30分。休憩10分。後半1時間。
この作品、もともと、あまり好きな作品ではありません。
イプセンの作品、『人形の家』(1879)、『幽霊』(1881)、『人民の敵』(1882)、そして、『野鴨』(1884)。
どれも、心に、ベットリと残り。
プログラムに、
「シェイクスピアに次いで、世界でもっとも上演されている劇作家と言われる。」
「日本をはじめ各国の近代演劇に大きな影響を与え、『近代劇の父』と称されてもいる。」
とあるのですが。
で、毛利三彌さんの訳による『イプセン戯曲選集 現代劇全作品』(東海大学出版会・1997)、今回の引っ越しによる大量処分のなか、新居に持って来てはいるのですが。
どうも、苦手。
今回の演出の眞鍋卓嗣の、プログラムの「『野がも』演出あれこれ」に、
この『野がも』の「悲喜劇性」について書かれてあり。
確かに、悲劇性は、これまでの『野鴨』の舞台にはあり。
しかし、今回の『野がも』では、その悲劇性とともに、喜劇性を、これまで以上に感じました。
『野がも』と、『野鴨』と書き分けたのは、やはり、プログラムの毛利三彌の「『野がも』について」のなかに、
「この劇(※『野がも』のこと)のロシア語訳は1892年に出て、96年に、チェーホフの『かもめ』が書かれた。主人公の死で終わるのに、チェーホフは『かもめ』を喜劇と銘うった。『野がも』の影響があったかどうか。ともあれ、わたしの翻訳で、従来の『野鴨』の題名を『野がも』に変えたことには、明らかに『かもめ』の影響がある。」
これは、前掲の『戯曲選集』のなかに記されてあり。
ちなみに、『幽霊』も、毛利三彌訳では、『ゆうれい』です。
「息子の発狂で終わるこの劇が、これまで、陰鬱の極みと解されてきたのも無理はない。西ノルウェーのベルゲンは雨で有名な地方である。しかし、家の中は花であふれている。メロディックな響きのノルウェー語を駆使するイプセンの苦いユーモアとアイロニーは、ここで遺憾なく発揮されている。従来の題名『幽霊』の重苦しさを『ゆうれい』で軽くしようとした所以である。」(前掲書)
イプセンの描く『近代家族の関係』。
それは
「夫婦関係と親子関係の交差を基本形とする」(毛利三彌、プログラム)
この『野がも』においても、ヤルマール・エクダル(斉藤淳)と、妻のギーナ(清水直子)の夫婦関係。
また、ヤルマールと、その娘ヘドヴィク(釜木美緒)の親子関係。
その関係が縦糸となり横糸となって。
それを中心に物語は展開します。
そして、ヴェルレと、グレーゲルスの親子関係も。
この作品は、ふたつの『家』の物語。
このふたつの『家』は、幾筋もの糸で結ばれていて。
五幕の作品で、最初の幕が、豪商ヴェルレの家。
続く4つの幕がエクダルの家。
1幕は、豪商ヴェルレ(加藤佳男)の家でのパーティー。
そこにヤルマールは、ヴェルレの息子のグレーゲルス(志村史人)に招かれて。しかし、その場には馴染めず。
グレーゲルスは、長年、家を離れて。
それが、昨日、帰宅。
このパーティーは、息子の帰宅を祝うためのもの。
グレーゲルスにとって、ヤルマールは、「たった一人の親友」。
しかし、
「学校を出てから」「16、7年ぶり」
※引用は、前掲の『戯曲選集』から。
そして、グレーゲルスは、ヤルマールが結婚していて、その相手が、かつて父ヴェルレの屋敷で家政婦をしていたギーナであることを知り。
そこから、物語は、一気に流れはじめます。
ヴェルレが、息子のグレーゲルスに言う、
「おまえの、きびしい正義感」。
そのために、グレーゲルスは、父を憎み。
そして、
「子供のように無邪気に、虚偽の真っ只中にいる」ヤルマールのために、「理想」の人生を要求し。
「ぼくの目的は、ヤルマール・エクダルの眼を開いてやることです。自分のおかれたありのままの立場を見せてやります。」と。
その結果、ヤルマールは、どうなったか。
ギーナとの関係は、どうなったか。
混乱する夫婦の関係、それは崩壊へと。
それを防ぐために、グレーゲルスは、ヘドヴィクに、
「お父さんのために、あなたのいちばん大切なものを捧げたら?」と。
この作品での、『野鴨』の、象徴的な位置づけ。
そして、悲劇が。
グレーゲルスは、
「ヘドヴィクの死は無駄ではなかった。悲しみによって、ヤルマールの崇高な心が目覚めた。」
それに対して、医師であるレリングは、
「死んだものを前にして悲しんでいるときは、誰でも崇高な気分になるものです。しかしその敬虔な気持が彼の中でいつまで続くと思いますか?」
グレーゲルス「一生続いて、次第に高まって行くでしょう!」
レリング「半年もたてば、小さなヘドヴィクは、彼のいい演説材料ってところでしょうね。」
この『野がも』という作品、あまり好きではないのは、ひとつには、ヘドヴィクの自殺という悲劇が最後にあるということですが。
さらに、彼女の父親のヤルマール、母親のギーナに、共感するものがない、むしろ、その愚かしさに、腹がたってくるのです。
グレーゲルスの言葉に乗せられて、結局は、いちばん大切なものを奪われてしまった。
ただ、しかし。
「腹がたつ」ということは、作品世界、そこに生きる人物に近づき過ぎているからこそ。
その登場人物や、彼らの紡ぐ物語を、身を離して見ると、その愚かしさ、それは自分自身にもあるもの。それに気づいて、そこから『喜劇』性を感じることになる。
イプセンの術中に、いともたやすくはまってしまったような。
『イプセン戯曲選集』におさめられている『野がも』を読み直して、そんなことを思いました。
俳優座公式サイトから
【あらすじ】
豪商ヴェルレとエグダルはかつて工場の共同経営者だったが、ある事件によりエグダルは事件の罪を一手に被り投獄されてしまう。エグダル家は没落し、貧困生活を強いられることとなった。
その事件から数年が経ったある日、久しぶりにヴェルレの息子グレーゲルスが、エグダルの息子ヤルマールと再会する。ヤルマールは、結婚し子を持ち、ささやかながら幸せな家庭生活を送っていた。
グレーゲルスはヤルマールの結婚相手が、ヴェレル家の元家政婦のギーナであることを知る。クレーゲルスの中にある疑惑が生じる。やがてグレーゲルスは疑惑を暴き、真実をヤルマールに伝えるが…。