【ネタバレになります】
無期懲役囚の主人公が、これからどんな大逆転をするのか?というのが見所。
結論、愛する人に手紙で、その彼女にしかわからない方法でお金の隠し場所の地図をうまく作り、そのお金の場所に彼女の似顔絵と「愛してる」という言葉を残す。

トリック的には「なるほど!」という気持ちがあったものの、「それは、言葉にしないとわからないものだったのかな?」という疑問が浮かんだ。

まったく映画の主旨とは違うのだろうけど、私の感想はソレだった。

自分の子ではない子持ちの女性と一緒に住み、子育てをして時を過ごす。そしてその子どもの病気の治療費のために、人殺しにも加担して刑務所に入る。
その行動がすでに「愛してる」と言っているようなものではないかな?

女性にもその気持ちはすでに伝わっていたように思える。

だけど、きっと深読みすれば、主人公は女性に犯行の話はしていなかったから、突然姿を消し、刑務所に入ってしまったため、思いを伝えられないままだったと、死ぬ前に後悔していた。

だから、自分の口から伝えられなくても彼女なら手紙を地図と重ねて見抜くはず、お金と似顔絵を受け取っているはずだ、と。

実際、彼女が受け取ったかどうかは、知る由はないのだろうけど、死ぬ間際の希望のようになった。

無期懲役囚なのに大逆転?
死ぬ間際なのに希望!?
……という意表を突くトリックなのだろう。


日本人は「愛してる」と言葉にしないから、死ぬ前になって後悔するのかもしれないが、行動ですでに表れているのになぁ。
……だなんて、客観的に観るとわかるけど、そういう自分も夫からは愛どころか優しい言葉をかけてもらうことなく、不満に思っていた。

しかし、日々一緒に暮らすこと自体、食事を共にし、相手を思い合う行為そのものが“愛”であり、決して当たり前ではないはずだ。
……そんなことを考えさせられた映画だった。






『海辺へ行く道』を観てから数週間。なのに、なかなか感想が書けず……。

他の人はどう思ったかなぁと、レビューを読んでみたら共感する内容がチラホラ。

読むと、「そうそう!」と思うくせに、いざ書こうとしたら自分の中から出てこないという情けなさ……。


でも嘆いても事実だし仕方ないので、そのレビューたちを引用させていただいて、プラスで共感コメントを書くことに。


『しずか踊りの尺がもう絶妙でたまらなく良かった。手拍子だけが響くあの時間、クセになるよ』

そう!盆踊り中、笑顔を見せてしまったら、審判からレッドカードを渡される。それには『また来年』と。寧ろ、笑ってしまって退場したほうが楽しいのではないかとすら思った。

しまいには日が沈んでも、5、6人だけがずっと真顔で海辺で輪になって踊り続ける…というシュールさにコチラは思わずニヤリ( ̄ー ̄)。


『虐待疑惑の介護士と金銭を盗んだと疑われるテルオのシーンで思ったけど、人って何かと自分の中での結末を望みがち。
起こった事柄に対して「実はこうなんじゃないか」と推理しては、それがその通りであることを心のどこかで望んでいる。
事実確認は後回し、自分を盲信すること。それって簡単に他人の人生の変えてしまう危険な行動だ。』
二話目のこの話が一番印象的だった。
前者の虐待疑惑の介護士というのは、デイサービスのお年寄りを外へと連れていき、カエルの合唱を歌わせて、音程がズレた人に注意をしていたというもの。
これは、私も微妙なラインだと思っていた。この介護士は認知症を改善させているということで、テレビで取り上げられていた。

職場の老人ホームでお年寄りに、直に関わっている私としては、ずっと室内に閉じ込めていることに違和感を覚えることもある。
年に何回かはお散歩に連れていくものの、野外で合唱だなんてやったことはない。

確かにお年寄りは、寒い暑いに鈍感だからこちらで管理してあげたほうがいいし、認知症であれば合唱もきちんと理解できない人もいる。
だからといって、合唱がバラバラでも注意しなければ一向に理解できないまま。

その介護士は、全員がちゃんとできるまで何度も注意していたから、『認知症』だからといって『合唱ができない』と決めつけず、対等に扱ったのではないかと推測した。

野外に連れて行ったのも、『暑い』という感覚を自分の肌で感じさせるためでは?と感じた。


後者は、言語障害のおばあ様の家に読心術ができる高校生テルオが遊びに行っていて、おばあ様は自分の言いたいことをわかってくれるテルオに心を開いていた。
ある日、おばあ様の亡くなったご主人に会わせてあげようと、写真を見ながらご主人そっくりのゴムマスクを作った。
そのマスクを被って、いつものようにお家に入り、おばあ様を喜ばすことに。

しかし、その次の日におばあ様が亡くなってしまった。親族たちはテルオのしたことが原因だったのでは?とか、部屋にあったはずのお金が無くなったといってテルオに容疑をかけてくる。
結局、テルオは高校を退学させられてしまう。でもテルオは意に反さず、前向きに芸術に没頭していく。

言語障害の方からしたら、唯一の理解者のテルオには本当に救われる思いだったのではないかと、表情から見て取れた。
亡きご主人に似た格好で現れたテルオには感動していたし、それでビックリして息を引き取ったのではなく、安心して眠りにつけたのでは……と推測する。

だからテルオのしたことは、おばあ様ご本人からは良き行いだったはずだ。なのに、周りの大人が勝手に自分たちが納得がいくように解釈するという……モヤモヤが残った。

どちらのお話も、当事者にしかわからない気持ちがある。それなのに、一見理解できないことを第三者が納得できるように都合良く捉えていくということ。
これは映画の観客からはお話として、いろいろな人側の視点を見ることで視野が広がるけど、片側からだけだと私も勘違いするかもしれないと考えた。

『ラストシーン。画材の中にある2万円と写真。
写真を丁重に置いたあと、2万円そっちのけで絵の具と筆を使って夢中で絵を描く姿が、奏介のなかでの芸術(創作すること)の大きさを物語っていて良かった』
そうそう!
これがすべてかもしれない。
私事だけど、今まで有料記事として執筆作品を掲載しても誰にも読んで貰えなかったので、すべて無料で公開することにした。

今の時代、無料でも無名の人間が書いたものは誰も読む気がしないのが普通なのかもしれない。
でも、もしお一人でも必要な方にお届けできたら作者冥利に尽きる。

もともとは自分が率先して書いていたのに、いつの間にか「売れたらいいな」から「売ろう!」になってしまった。
有料にして誰にも読んで貰えないより、無料でも求めている人に届けられたなら、“創作の力”が発揮されたことになるはず。


*すべて無料!の執筆作品集です*

仕事でミスをしてしまい、誰にも相談できずに悶々としていた時に出会った、励ましの言葉たちです。



「一回もミスしない、嘘もつかずに生きてきた人なんて、多分いません。 

教会で懺悔したり、和尚さんに話きいてもらったり、相談電話で愚痴らせてもらったり、泣いたり、心療内科にかかったり。

いつの時代の人も、どこかで愚痴って泣いてきたんやと思います。時間たったら気持ちに折り合いつきますし、ほんま思い詰めないでください」


「人は経験して反省して成長するんです。
人は完璧じゃないんです。 上司だって同僚だって同じです。 みんな人が怖いからミスを黙っていたり、周りに良く思われたいと思って人の悪口を言ったりします。 悪気なんてないんです。 なので、過去(過ぎた事)は良い経験として考えてください。
もし、裏切ってしまった、迷惑をかけてしまったと本気で反省するのであれば、周りの人が喜んでくれる事をすれば良いと思います。 それは気を使って行動する事ではなく、あなたが気分良くいてください。そうする事で、周りの人に優しく気を遣う事が出来ますから」

「色々ありますが、今の姿が今の自分なのだと受け止めて、 現状なぜそういうことが起こったか 次起こさないために具体的に変えていくところに焦点をおいて、今より誠実に生きていくしか思い浮かびません」

「自分を責めるのも 他人を責めるのも、脳的には同じらしいからしちゃいけない。 日本人の本当にいけない ところは、自分をとことん 責めるくせして 反対に自分を褒めないこと。 
これ脳的に最悪なんだよ。 本来はあまり責めないで とことん褒めるのが正解。 脳機能的にも。 この場合脳機能のプロなら すぐに過ちを認める自分は すごいんだ!とアファーメーションする 」

「したことは悪いことではない、とは言いません。しかし悪いことをしようとしてしたわけではないですし、誰かに迷惑をかけようとしたわけでもない。分かっていてやったことでもないんです。 次から気をつければそれでいいんです。だからそこまで気にすることではないと思います。 1度してしまったら、そこから学んで次に活かすんです。人間はそうやって成長するものですよ」



正直なところ、8月は観たい映画がないなぁと思っていた。だけど、大体お盆のこの時期はディズニーやピクサー映画を観ていることに気づき、評判はいまいちだけど鑑賞することに。

あまり期待していなかったので、席も余裕があると思いきや、ほぼ満席だった。一緒に行った母とはバラバラで座るはめに。

レビューは賛否両論だったから、自分にとってはどうかな?と半信半疑のまま、試すように観てみると……

結果、観て良かった!
『ここではない何処か』に自分の居場所があると思う気持ちは、共感する人は多いのでは?

私もそう思って、宇宙……ではなく世界旅行に若い頃出かけたことに、思いを巡らせた。
この世界のどこかに、私にピッタリと合う国や、家族のように深い繋がりを感じる人と出会えるのではないか、と。

確かにそれに近いご縁があったものの、今はこうして日本にいるのは、“歳”と共にいろんなことを受け入れられたからかなぁ。

映画の感想に戻ると、(ネタバレになりますが)主人公が偉業を成し遂げたことで、コミュニバースに地球代表として認められたのに、結局生きる場所は地球を選んだところ。最初は「あれだけ行きたかったはずの宇宙なのに、何で?」と、断ったことがもったいないように思って納得がいかなった。

しかし、地球代表として相応しい人だという“条件付き”で、受け入れてくれたコミュニバースより、問題児のままの主人公をありのまま愛してくれる叔母さんのいる地球を選んだ、ということだった。

エンディングで流れたBUMP OF CHICKENの『リボン』の歌詞、
「僕らを結ぶリボンは解けないわけじゃない 結んできたんだ」
こちらからもわかるように、家族だからって絆が元々あるわけではなく、意思を持って繋がり続けることが大事。

今いる環境で自分から歩み寄っていかなければ、どこに行ったって結局は変わらない。

私が『ここではない何処か』を探し求めていたときも同じだった。
今は歳を重ねて、世界は『自分専用』ではなく『共生』していく場所だとわかった。

始めから『合うもの』があるわけじゃなくて、時間と経験で『縁をつくる』ということ。自分が得意じゃないことでも、苦手な人とでも、時間と共有を重ねることで繋がることはできるし、そうすると恐れはなくなってくる。

始めから道があったわけじゃなくて、なんとなくでも続けた先に、道が出てくるというもの。

若いときは、視野が狭いから世界が自分を受け入れてくれない、と嘆くけれど、歳を重ねると自分が居心地の良い世界をつくれる……いや、環境を整える筋肉が鍛えられるのだ。



『国宝』から一気に“吉沢亮推し”になってしまった、にわかファンの私は公開初日に真っ先に観に行きました!

いつもは先に観た方のレビューを参考にしながら、鑑賞するかどうかを決める慎重振りなのに(笑)


まぁ、原作のアニメや漫画を試し読み程度に知っていたので、内容は把握済みで、吉沢亮さんの演技も間違いないことが確証済みだから、観ないわけにはいかない、と。


普段、コメディ作品にはあまり触れないけど、本作はたま~にシリアスも入るので、置いていかれることもなく、その緩急が気持ち良かった!


蘭丸と李仁が喧嘩するシーンは、蘭丸が本当のことを言えないがゆえにもどかしく、切なかった。

でも真実を伝えてしまえば、この二人の関係は崩れてしまうから、このまま勘違いしたまま関係を維持してほしいな、と見守っていました。


たくさんこの映画の感想動画が上がっていたのですが、なかなか興味深いお話をされている方がいたので、思わずメモしてしまいました。


自分が今まで観ていなかったジャンルや興味がなかったものに飛び込んだときに、郷に入ったときは郷に従うべき、というお話です。

例えば、完全に若い女性向けのラブコメを映画館で見て、そこでの観客のリアクションを直に感じる瞬間があったとき。このシーンにはどんな意味があったのかと思いを馳せないで、“乙女回路”を開くように女の子のような気分で見るといい映画があるそうです。


映画としての意図というか、どういう気分で見ていくべきものなのかをわかった上で、普段の自分とは違う視点を意識しながら観ていくということ。

今まで自分の琴線に触れなかったような感覚は、単純にチャンネルが開いていなかったからって可能性も。


映画の中で起こっていることと、自分がどうコミュニケーションをするか?

……そんなことをしないで、腕を組んだ状態で「なんだこれ?」って思いながら、ただ受け身で観ていたら、自分にジャストフィットな作品しか楽しめなくなる。


だからかな、選り好みし過ぎて最近あんまり観たい映画がないなと。


普段の私なら『国宝』のような重厚な人間ドラマを好むけど、いろんな吉沢亮を観てみたい!という好奇心から飛び込んだ、下ネタありのBLコメディ。

結果、こっちの映画のほうが好みでした(笑)


『国宝』も、もちろん良かったものの、喜久雄の人生が尾を引いてしまって、まだまだこの人は血の滲む努力で才能を維持していくのだろう、と不要な心配で余韻が続いていました。


『ババンババンバンバンパイヤ』は、「ズキュン♡」や変顔の練習をストイックにしていた吉沢亮を、勝手に想像すると作品では見えていない背景が楽しくて、顔がほころびます😊


ある意味、『血の滲む努力』は一緒かもですが、決死の表情で「死~ぬ~る~覚悟が~……」より、美しい顔を変顔にした「ズキュン♡」のほうが、私には『ズキュン♡』でした!


これに繋がるいろんな未開のジャンルを観てみたいと思いました!


 




もともと鑑賞予定ではなかったものの、ここまで評判がいいと自分の目で確かめたくなるもの。

本当は『ルノワール』の予定だったけど、こちらは逆にあまりよろしくないレビューがチラホラ目に付いたため、時間とお金をムダにする可能性を考えて、確実そうな『国宝』に急遽変更。


ネタバレしながらの感想になります!

ハッとしたところは、主人公があれほど欲しがっていた血筋も、糖尿病という病魔で受け継がれたのを見て、必ずしも良いことばかりじゃないと思い知らされた場面。


それに、俊介がもし歌舞伎ではなく、他の道を目指したかったとしても、否が応でも歌舞伎の道に進まないといけないという呪縛にもなりかねないのが血縁の宿命。


でも、代々受け継がれて、終わらせないために血筋で繋いでいく伝統芸能だから、そこに産まれたら“運命”と思うしかないのだろう。

……だなんて、今まであまり考えないことを考えさせられた。


あと、一流の芸を極めた人が必ずしも人間性が素晴らしいわけではないことも、よく理解できた。

映画の中では(小説とは内容が違うみたいだけど)隠し子の娘とはほとんど会わず、人前では他人の振りをするほどの冷たい父親でも、舞台ではたくさんの人を魅了し、幸せな気持ちにさせることができる。


それは、この映画の話だけではなく、吉沢亮だって、これだけ完璧な演技と熱量で私たち観客を感動させる才能がある人でも、プライベートでは泥酔して部屋を間違えて警察沙汰になってしまうのだから。


でも、『バババ』の公開が延期になったお陰で、私のような“にわか吉沢亮ファン”が来週『バババ』を観ることになるのだから、決してネガティブな出来事ではなかったはず!


通常通り2月に公開していたら、別の映画を観ていたし、ノーマークの作品だったのに、『国宝』から吉沢亮の魅力を堪能し、ぜひ違う面も見たいとこれまた急遽鑑賞予定に(笑)


横浜流星は完璧な優等生的で、かっこよすぎだけど、吉沢亮はちょっと天然っぽくて人間らしい失敗をする人として、逆に好感が持てる。


これまで警察沙汰などの問題で、映画公開が延期された人の中で、逆に好感度が上がった人はどれだけいるだろう?


『国宝』を観たら、映画に映されていない多大なる練習や稽古の時間を想像できるし、これだけのことをやり遂げたのだから、お酒を飲んで発散してもらいたいし、気が緩んで部屋を間違えることだってあるさ!


そう、あの出来事が起こった背景を『国宝』で確認できたからこそ言えること。

それに、『バババ』の公開がこのタイミングになって、私のように通常だったら観ないはずのお客も取り込むことができるのだから、逆に宣伝効果バツグンだったのだ。


そう思うと、あの出来事は良い方向へと回収された“伏線”になったのだろう。




もともと観賞予定だったので、スキャンダルで公開されるかドキドキだった。
これまで永野芽郁ちゃん作品にたくさん触れていたし、役者として好きで応援していたから今後どうなるのか心配……。

『そして、バトンは渡された』での、田中圭と義理の親子役だったときは、正直“親子”というよりは“恋人”のような雰囲気を感じていた。
2人ともノリが合いそうだな、と。

だから今回の疑惑も、私の中では「やっぱりかぁ……作中でも、田中圭には石原さとみよりも芽郁ちゃんが“お似合い”に見えたもんな」という自分の見立てに感心した。

まだ出会い始めの、あの作品からそんな見立てをしていた人はどのくらいいただろう?
こういう騒動が起きると必ず言われるが、当人同士の問題なのだから、関係のない私たちがアレコレ言う資格はない、ということ。

それなのにアレコレ言ってしまうのは、どちらも人気者であり、彼らの作品に泣いたり笑ったりさせられて、画面越しながらも感情を共にしてきた親近感なのだろうか?

確かに私にとっても、永野芽郁作品に触れた数はベッキーや唐田えりかより多いからか、思い入れも関心も強い。

昨年の『からかい上手の高木さん』や『はたらく細胞』でも、泣いたり笑ったりさせてもらっていた。

そう思うと、今回の疑惑も“エンタメ”として見たらかなり心を揺さぶられたと言える。これが“作品”ではなく、現実の話(あくまで疑惑だけど)となると、途端に厳しい目になってしまうけど、もし“作品”だとしたらどんなラストになるか見届けたい。

永野芽郁の新しい一面を覗かせる作品をまた私たちの前に披露して、この“永野芽郁物語”を完成させてほしい。
ああいうことがあったけど、だからこそ新境地にたどり着いたよね、と伏線を壮大に回収できる日を楽しみに待ちたい。

……と、『かくかくしかじか』の感想を書く前に前置きが長くなってしまった。
映画のほうは、最後の「描けー!」がエコーして頭に残るほど、先生の熱意が伝わってきた。

うーん……でも、正直「チンパンジー子」とか笑えないし、予告編から感じられた以上の何かはそこまでなかったような……。
若気の至りを悔いているという話であることは想像できたし、主人公がすでに有名漫画家さんなのでサクセスストーリーであることも。

しかし、コールセンターの仕事から脱出したくて、ない時間をどうにか作りながら漫画を描いたところや、先生が治療より絵を描くことを優先させた、命懸けで作った作品には魂がこもるものだと感じた。

先生はあまり具体的な指導をせず、ただただ「描けー!」と描かせていたところにも、この絵画教室を離れても描き続けるという習慣をつけさせたいという、先々を見据えた目論見があったのかな?

私も自伝的な作品を書いているから、よくわかったけど、体験した本人にとっては“かけがえのない出来事”でも、客観的に見たらその気持ちには及ばないことがある。
往々にして、そういうものだろう。

そうすると事実をそのままではなく、作品として脚色を入れることも必要だと思う。
とはいえ、この映画の場合はどうだったらもっと良くなるかは思いつかない。
少なくとも、予告編以上の予測不可能な“何か”があることは間違いないだろう。

でも今回は、私含めてみんなが期待している“ザ・永野芽郁”の演技を見ることができたというだけで満足だ。
そこには裏切りやイメージダウンはない。

私のような予告編以上の“何か”を期待する人間にとっては、今回の騒動は裏切りやイメージダウンにすらならない。

あれだけの演技ができるということは、ストレスや負荷が重くのしかかっていることくらい想像がつく。
だからこそプライベートくらい、そっとしておいてあげたい。

私たち観客には、作品を通してたくさんの“感動”をくれたのだから。




仕事帰りで寝不足だったから、最初所々眠くなったけど、途中からグッと引き込まれた。

ドタバタものだから、展開が早くて忙しい感じだったけど、子ども向けだと思ってたら人間ドラマがしっかりあった。
これは“元子ども”である大人に向けた話でもある、やるなぁ……と感心。

号泣までいかないけど、涙ぐむ場面もあって、しっかり作られていた。
見て損はないけど、アニメだから基本的にファンタジーだし、ものすごくオススメ!って訳じゃないものの、絵や歌がいいから楽しめる人は多いと思う。

いろんなお菓子のキャラクターがコラボしてたので、自然と頬が緩んだ。

私は画面いっぱいに『ギンビス』という会社名を見て、お菓子会社がエンタメ業界に参入したのかと思っていた。
でも、お菓子もエンタメもどちらも人を笑顔にさせるためだから目的は同じ。


私個人の話になるけど、(いったん関係ない話を挟みます)この日はずっと悩んでいた退職の決断をし、とうとう上司に伝えることができた。
14年間、働いていた会社は介護業界で、認知症のお年寄りから罵詈雑言を浴びることも、理不尽に怒られることさえ業務内という認識でいた。

病気だから仕方ない、というのは正論だ。
でも、ある日ふと、これをこのまま許しているのは自分自身への心理的虐待ではないか?と。

とはいっても転職には自信がなく、マッサージの技術を活かしてリラクゼーションを提供する仕事に戻ればいいと、頭で思いつつも、もう人と関わらなくていい仕事に就きたいと思っていた。
それほど心が疲れていたから、『たべっ子どうぶつ』に癒されよう、と。

でも、退職を告げて一日経つと、なんだか不思議と前向きな気持ちになれた。
それは、“退職後の自分”と繋がれたからだろう。
今までは、仕事を続けたまま“もしも退職したら……”という妄想上の架空の自分を想像していたので、ネガティブな発想ばかりだった。

しかし、“退職後の自分”がリアルに存在することがわかってからの人生設計の中には、理不尽に怒る人はいない。
自分を大切にすることができる未来なら、人と関わることができそうだと思った。

『たべっ子どうぶつ』の映画の内容は、確かにおもしろかった点がいくつもあったが、私が何より感動したのは「人を笑顔にさせたい!」というエンタメ性だ。
子どもから大人まで楽しめる内容を映画として提供するという、制作側の意図やコンセプトが素晴らしい。

もちろんお菓子を売るためという策略もあるかもしれない。でも、映画や作品は『こういう感情にさせたい』という作者の目的があるとしたら、『めでたし、めでたし』で幸せな気持ちで帰ってほしいという願いが確かに伝わっていた。

このお菓子たちのコラボで、きっと気分上がるよね♪と、制作陣が意見を出し合いながらサービス精神で完成させていっただろう、と裏側にすら思いを馳せることができる。

私も素人ながら作品を執筆しているけど、なかなか読んでもらえないことには、罵詈雑言を浴び続けている『こんな自分』が書いたものは、所詮“現実逃避”や“自己満足”だから仕方ないと思っていた節があった。

だけど、退職して解放された自由で新しい自分になったら、作品は生まれ変わる気がする。
“現実逃避”や“自己満足”から、純粋に人を楽しませたい“エンタメ”へと変身を遂げるだろう。
作り手側の心境は、作品から見えなくても伝わるモノなのだ。









なんだか気になって仕方なかったので、ちょこちょこレビューを読んでいたら、どうやら普通の恋愛映画とは違うっぽい。
これは確かめねば!と、急遽鑑賞してみた。

【ネタバレ含める感想です】
先に良いところを挙げると、花が悲しみに打ちひしがれているときに、主人公が犬のマネをして花とじゃれ合い、一瞬でも花を笑顔にさせた場面。
ここはドン引きした人と、意見が割れるところではあるのもわかる。

個人的に共感したのは、友達は一人だけの主人公が犬のサクラには心を開いて、自然と笑顔になるシーン。犬とは会話できないけど、尻尾を振っていれば喜んでいることがわかる。お腹を見せていれば信頼されている気持ちが込められている。
それにより、硬くなっていた心がほどけて、喧嘩していた友達に素直に謝れた。

そんな経験から、花にも元気になってもらいたくて、自分が犬になってお腹を見せて非言語コミュニケーションを取ろうと歩み寄った。

動物や植物には、人間にはない癒しの力がある。
実際、こんなことをする人はいないかもしれないけど、だからこそ映画や小説ならではのフィクションの力があると感じた。

……しかし、同じフィクションの力でも、やはり“死”を題材にする話は苦手だ。
今年観た映画のすべてに“死”の要素が入っていた。
“死”がなくても感動する話はなかなかないものだろうか。

本作も、“死”が作為的に感じられたし、姉妹の設定もいかにもフィクションにありがちな世間が狭いご都合主義。

あ、こんな批判はしてはいけない……。
だから、しないために最初から“死”が組み込まれている話は観たくないのだ。

でも観てしまったのは、気になるレビューばかりで、どんな気持ちになるか予測不可能だったから。

皆さんのレビューには、伊藤蒼さんの長台詞の大絶賛が多く、確かにその通りだったけど、YouTubeにある程度公開しているから先に観てしまっていた。

河合優美さんの長台詞も、彼女の演技はたくさんの作品で知っているので安定の素晴らしさ。

私は最後の最後にやっと出てくる萩原利久さんの長台詞にぐっときた。
というのも、俳優としての彼をよく知らなかったのもあり、演技が上手いのかどうかわからないまま観賞しているところだった。
これまでの不穏さや内に秘めた陰キャの印象でかなり“負債”がたまっている状態から、感情をぶつける告白は一気に“借金返済”状態。

やはり予測を裏切られて、イイモノを見せられると人は感動するのだろう。

因みに一緒に観ていた母は、最後の萩原利久は若いときの織田裕二に似てると言っていて、確かに似ていて笑った😆
これもまた予想外(笑)



老人ホームでリハビリとマッサージを提供しているため、様々なお客様がいる。

アルコール依存症でご家族に暴力を振るったり、暴言を吐いたりされていたという男性の場合、いつブチ切れるかわからないから、拒否があったときは深追いしなくていいとのこと。

ある日、その方をご案内するときに「冷たい水が欲しい」と言われたので、白湯を渡したら「冷たい水って言っただろ!氷ないのか?!」とご立腹に。

正直、厨房へ行けばなくはないけど、そこまでする必要もないので、「氷ないんですよ~。こういう所は冷たいものをお出ししないので、ごめんなさい」と言った。

「氷もないのか!?」
「すみません……」
「普通どの家でも氷くらいあるだろ!?」
「ごめんなさい。ここはないんですよ~。申し訳ございません」
「しょうがないなぁ」
「すみません」

どうかブチ切れしませんように……と願いつつ謝り続けた。すると、
「アンタ悪くないんだから謝らなくていいよ」
と、期待していなかった意外な言葉でびっくり。
思わず「ありがとうございます!」と言ってしまった。


リハビリは自転車漕ぎマシンを10分間やるというものなので、スンナリやっていただけることに。
……しかし、後残り2分というところで足が止まってしまい、停止状態に。

普通の方なら「○○さん、足を動かしてください」とお伝えするのだけど、指示されたらキレ兼ねないと思い、しばらく様子を見ることに。

しばらくの間ずっと止まったままだったため、疲れて漕げなくなったかもなので、これはもう終了にしようと判断。
「○○さん、もう終わりでいいですよ」
と伝えるも動く様子がない。耳が遠い方だったので聞こえていない可能性もあると考えて、耳元でもう一度お伝えした。
「もう降りていいですよ」

そしたら、「わかってるよ!!そんなすぐ動けないんだ!!」とキレ気味……。
「ごめんなさい。もしかしたら聞こえてらっしゃらないかと思いまして……」
と言い訳じみたことを言うと、「アンタねぇ、さっきっから聞いてると……」

わぁ……これは逆鱗に触れてしまった。罵声を浴びる覚悟をして身構えた。
介護業界では謝るのが仕事のようなもの。こうやって怒られることすら、業務内容に含まれている。
……つくづく感情労働だ。

「アンタは悪くないんだから謝らなくていいんだよ!」
強い口調で怒鳴られたけど、さっきと同じ内容で拍子抜けした。

この方は認知症もあるため、先程口にした内容をそのまま繰り返した可能性もある。
だけど、この言葉がふとしたときに出るというのは、今までのご家族とのやり取りの背景からなのかも……。

もしかしたら奥様からは、謝る言葉をよく聞いていたのではないか。


私も自分の夫が飲酒後に、いやそうでなくてもストレスが溜まると暴言を吐かれていたことがあった。そんなとき、これ以上攻撃されないように、私は自衛のために謝っていたことを思い出した。
こっちに非がなく、理不尽だとわかっていても、言葉の暴力をこれ以上浴びたくない一心で。
いわば“盾”のようなモノ。

私の夫からは「悪くないんだから謝らなくていいんだよ」だなんて言葉を言われたことはなかった。

この男性も奥様に、こんなに素直に伝えていなかったのかもしれない。
それが、赤の他人の私からの謝罪で“そのとき”のことを呼び起こされて、奥様に言えなかった言葉を口にできたのだとしたら……。

咄嗟にそんな背景を勝手に想像して、グッときてしまった。