『almost people』という映画は、渋谷のユーロスペースでしか上映していないので、渋谷はゴミゴミしていて苦手だけど、母と二人で行った。
すると、小さな映画館だったので、エレベーターから降りた後も受付がわかりにくく、チケットを購入後にトイレに行くにも、トイレマークがオシャレ過ぎて小さくて見つけにくかった。
店員に訊くと、「あちらに表示が出ています」と手で案内されたが、私も母もメガネをかけていて目が悪い上に、母70代、私40代のおばあさん&オバサンだから、すぐわからなければ人に訊いてしまう年代。(人に寄るのでしょうけど)
ただでさえ初めての場所で、目と頭の回転が悪い年配者に、「いちいち訊かなくても見ればわかるでしょ」のような言い方をされて、気分が悪くなった。
エレベーターから出て来たときも、明らかに「どっちかな」と迷っているのだから、手を上げて「こちらへどうぞ」という一言案内があってもおかしくはない。受付にお客さんは誰もいないのに、見て見ぬふり。
私は、早速母に上記のことを言い、イラ立っていたら、母は「無愛想な店員だね」とは言っていたものの、それほど気にしている様子はなかった。
映画の内容は、喜怒哀楽のどれか一つが欠けている人のオムニバスだったが、母はもともと“怒り”の感情があまりない人だから、同じ出来事にあっても、私のように“怒り”を感じない。
映画は『もうすぐ人間』という意味だけど、“怒り”が欠けているほうが人間として生きやすいのではないか?
しかも、映画の解釈も私と母では違った。次男の話は、私は最後の次男の顔が「やっぱり“楽しい”って何だかわからない」という表情だったから、結局わかり合えず終わったんだと思った。
でも母は、最後のシーンで遠目からだが、次男の彼女が隣に来て終わったことで、「最後二人はうまくいったんじゃない?」と、描かれていない未来を想像して、ハッピーエンドとして受け取っていた。
母は以前見に行った『君たちはどう生きるか』も、「面白かった」と言っていた。私は正直よく理解できなかったから、楽しめなくて消化不良だった。
母はきっとすべて理解できていないものの、『絵』として楽しんだり、いろいろな俳優が声優をやっていたことなどで、物語としてじゃない部分を興味深く見ていたのではないかな?
渋谷のオシャレ系の小さな映画館では、若い人達または、映画好きでよく来ている常連さんばかりがお客さんだと、受付はすぐわかるし、トイレもいちいち訊かずに自力で探すのだろう。
私達みたいな高齢親子は場違いかもしれない。
私は自分がアウェイな場に行ったことと、自力で探さずにすぐ訊いてしまった自分のほうが悪かったと思った。
だから渋谷に行くことを避けるか、トイレは自力で探そうと思ったが、まったくそういったことを気にせず何も考えていない母がうらやましい。
母のほうが絶対得してる。
だけど、母のようになりたいとは思わない。
自然に感じてしまうものだから、なろうと思ってもなれないものだ。
次男の話のように、「私は楽しめない」と思っても、「私は楽しめる」という母が隣にいる。
わかり合えないから、別れるのではなく、わかり合えなくても『一緒にいる』のだ。