目が覚めたとき、悟はしばらく動かなかった。
眠った、というより
深い水の底から、ゆっくり浮かび上がってきたような感覚だった。
夢の記憶がない。夢を見なかったのかもしれない。
冷蔵庫のモーター音が、遠くで鳴っている。
ブゥーン。
止まる。
また鳴る。
その“間”には、何もなかった。
吸い込まれない。
ただ、音がある。
布団の重みが感じられる。
身体が、ちゃんと自分の中に収まっている。
(寝た……。)
そう思えた。
窓から入る朝の光は、白く柔らかい。
昨日までと同じはずなのに、刺さらない。
悟はゆっくり起き上がり、窓を開けた。
外の空気が入ってくる。
排気ガス。
遠くのパン屋。
誰かの柔軟剤。
匂いはある。
でも、まとわりつかない。
(拾ってない。)
それが、はっきり分かった。
大学へ向かう道。
人は多い。
交差点は混み合っている。
けれど、昨日までのように
人の焦りや苛立ちが胸に流れ込んでこない。
悟は、無意識に深呼吸をした。
吸って、吐く。
ビルの隙間に、細い青空が見える。
(低くなか。)
小さく、笑いそうになった。
電車の中。
隣の学生の緊張が、わずかに触れた気がした。
胸が、ざわ、とする。
一瞬だけ。
悟は目を閉じた。
呼吸を整える。
そのざわつきは、数秒で消えた。
(戻せた。)
その瞬間、先生の声がよみがえった。
「たとえ感じたとしても、それは君の感情や痛みではない。」
静かな声だった。
「相手が、そういう状況にあるだけなんだよ。」
悟は、吊り革を握りながら、ゆっくり息を吐く。
(おいのじゃなか。)
先生は言っていた。
まずは、それを理解すること。
それだけでいい、と。
分からなくなったら、電話してきなさい。
メールでもいい。
少し笑って、
でも、たぶんすぐには会えないだろうから。
そして、最後にこう言った。
次のステップは….。
間があった。
相手や周りの状況を把握した上で、
素知らぬ顔で、どう動くかを選ぶこと。
誰と友達になるか。
誰と付き合っていくか。
アンテナは、勝手に立つ。
でも、生き方は選べる。
霊媒体質は、きついよ。
先生ははっきり言った。
でもね、分かる人は、分かるからこそ、
一段上から見られる。
霊感がない人には、想像できない生き方もできる。
その言葉は、押しつけではなかった。
ただ、事実のように置かれていた。
悟は目を開ける。
車内のざわめきは、ただの音だ。
講義中、教授の声がちゃんと意味を持つ。
ノートの文字が頭に残る。
世界は急に静かになったわけではない。
悟が、静かになったのだ。
夕方、404に帰ってきた。
ドアを開けると、空気は澄んでいた。
嫌な匂いもない。
冷蔵庫の音が、生活の音として鳴っているだけ。
悟は部屋の中央に立ち、電気を消した。
暗闇。
前なら、奥行きが生まれた。
何かがいる気がした。
今日は違う。
暗い。ただ、暗いだけ。
(怖くない。)
布団に横になっても、胸の奥が、穏やかだ。
アンテナは、折れていない。
でも、暴れない。
選ぶんだ。
悟は、ゆっくりと息を吐いた。
東京の夜は、
少しだけ、広がった。
翌日。
講義のあと、教室を出ると、後ろから声がした。
「なあ。」
振り向くと、同じ列に座っていた男子だった。
特に話したことはない。
「なんかさ。」
少し照れくさそうに彼は笑った。
「お前、最初と空気ちょっと違くない?」
悟は、一瞬だけ戸惑った。
「そう?」
「うん。なんか、落ち着いたっていうか。」
そのまま彼は、
「今度レポート一緒にやらん?」
と、軽く言った。
(やらん?同郷?)
悟は、少しだけ間を置いて、うなずいた。
「よかよ。」
その帰り道。
商店街を抜けると、源さんの店が見えた。
色あせた看板。
店先の自転車。
悟は一瞬、足を止める。
でも、入らない。
軽く会釈だけして、通り過ぎた。
源さんは店の奥から、ちらりとこちらを見ていた。
何も言わない。
悟は、そのまま歩く。
404に向かって。
アンテナは、今日も立っている。
でも、
どこへ向かうかは、
自分で決められる。
そう、自分で選択できるんだ。
(第十二話へ)
