通信4-21 音楽に怯えたい | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート


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 嘘か本当か知らないが、以前ニジンスキーについてのあるエピソードを聞いた事がある。精神に破綻をきたし、滅多に人前に出る事が無くなったニジンスキーが、久々に人前で踊るという。ある貴族のサロンに、ニジンスキーの踊りを一目見ようと多くの人が集まった。期待する人々が見つめる中、部屋の中央の椅子にじっと腰掛けたままのニジンスキーはぴくりとも動かない。ニジンスキーが踊り出すのを待つ間、彼の妻がピアノでショパンの小品を弾きつづけた。人々が待ちきれずにざわめき出した時、妻は彼の踊りを諦めもう連れ帰ろうと決めた。妻がニジンスキーの手を曳こうとしたその瞬間、彼はばたりとうつ伏せに倒れ、それからいきなり「戦いだ」と叫びながら、高々と跳躍した。一心不乱に踊り出した、その踊りは居合わせた人々がもう止めてくれと泣き叫び出すまで続いたそうだ。この話を聞いた時、私は思わず唸った。或いはげらげらと笑ったのかもしれない。ニジンスキーはその僅かな時間に、彼がその人生で積み上げてきたものを全て吐き出してしまったのではないかと推測する。そりゃあ、誰だって泣き叫ぶだろうさ。これこそが自分が考えるライヴの理想だと思った。

 

 十七世紀で最も重要な音楽上の論争はといえば、やはりアルトゥージとモンテヴェルディのそれだろう。論争といってもアルトゥージからの一方的な攻撃に対し、モンテヴェルディからの反論はなされたのか、なされなかったのかとにかく残っていない。ただ、モンテヴェルディの代表作であるマドリガル集の序文の中に、自らへの批判に答えるという形での宣言文が記されているばかりである。モンテヴェルディこそは本物の開拓者だった。彼が必要に応じて獲得していった語法はあまりに大胆で多くの保守的な音楽家たちの神経を大いに逆撫でした。音楽が教会から一般市民の手に渡る、そのときに起こる大きな自由への変貌に彼は寄与したのだ。

 

 モンテヴェルディの語法の広がりは何という喜びに満ち溢れているであろう。音と人との輝くような新しい出会いはただただ我々にとって眩いばかりだ。我々が学ぶ作曲法、そこには輝かしい出会いはもう無い。すでにどこかで耳にした事のある音に改めて名前を与える、それが我々に課された課題なのだ。どこかで見たおじさん、おばさんを改めて紹介されるのだ。ふうん、あの人そんな名前だったのか、そんな人柄だったのかという具合に。今、我々に許されているのは、それらをひたすら愛する事だけだ。ただただ無条件に愛する事だけなのだ。だが果たしてそういう事が可能なのだろうか。音を手持ちの駒のように扱い、並べ聴かせる。そういう貧血気味のガキの小賢しいライヴに私はもううんざりしているのだ。音よりも自分自身を愛して止まない変態どもの振る舞いに絶望しているのだ。現在、ステージと客席の間には境目が殆ど無くなっている。誰だってその気になればステージに立てるのだ。今や時代は「聴く」から「演る」に変わってしまったのだ。カラオケみたいに順番さえ守っていれば誰だって好き勝手にできるのだ。

 

 だが、やはり聴きたい、音楽と人の幸福な無二な出会いを。その得がたい瞬間に居合わせたい。もう知的なものも、干からびたものもいらない。とにかく「気付いたらやってしまっていた」という、無自覚の才能が実現するさまを見届けたいのだ。


 「気の狂った五十歳ぐらいのオバさんがいてね、道路の脇に立って手信号をやっているんだよ。誰も見てないんだ。一人で立ったきりでさ、三時間ぐらいたって僕が戻ると、まだ手信号やってんだ。たぶん、誰も止めなければ、それを一日中やってんだろうね。すごい体力がいると思うよ。ジャズだってそんなもんだよ、きっと。」

  中上健次発言集成より 小野好恵との対話


                                     2010. 2. 1