通信4-20 季節に逆行する | 青藍山研鑽通信

青藍山研鑽通信

作曲家太田哲也の創作ノート

 私の体が季節に対して逆行を始めた。昨夜、秋の虫たちの声を聴くように体のあちこちの痛みに耳を澄ましながら眠った。今朝、目を覚ますと蝉の大群だ。蝉の鳴き声のような痛み。痛みの二階級特進だ。蝉の大合唱。一気に夏の到来だ。痛みなら何だって揃っているぞ。きりきり、じわじわ、ずきずき、ねちねち、ぐりぐり……痛みの大安売り。まるで薬局の看板に描かれた人体図だ。クマゼミのようなずきずきした激しい、だが表面的な痛みが一瞬和らぐと、その痛みの隙間からじわじわと通奏低音のような、アブラゼミのような痛みが浮かび上がってくる。そこにツクツク法師のような腰の抜けたような痛みが、私をからかうように現われる。こいつはちょこちょこっと私を痛めつけると後は、三振振り逃げの打者みたいにどこかへ飛んで行くのだ。とにかく暑い。熱があるのだ。でなければ本当に夏が来たのか?

 

 痛みと熱に悶えているところへ、宅急便が届いた。海鳥社の宇野道子さんから食べ物の差し入れだ。おお、何と有り難い。昨夜、ラヂオで「笠地蔵」の話を聴いたばかりだ。私はこれまで、雪の降る寒い日に、果たして凍えている宇野さんの頭に笠を差しかけた事があっただろうかと自問する。いや、ない。私はそんなに親切ではない。猛烈に反省する。もし、再び元気を取り戻したら、その時は宇野さんの頭に乗り切らないぐらいの笠を積み上げるのだ。あっ、宇野さん、笠をかぶるとベトナムの勤労少女みたいに見えるかもしれないぞ、とふと思う。

 

 だが、こうしている中にも希望はある。医師はもう少し暖かくなる頃には視力が安定するだろう。そうしたら本格的に視力の矯正を考えようと言うのだ。つまりメガネを作ってもらうわけだ。このメガネというものは実にすぐれた道具である。耳に引っ掛ける二本のツルと、小鼻の上にのせた二枚のチップで左右それぞれの目の前にレンズを固定する。そのレンズを通して見ると、遠くに在る物も、そのレンズの性質によっては近くに在る物するものさえもはっきりとその姿を捉える事が出来るのだ。メガネがいかに便利で優れたものであるかという事は、日本中どこにでもメガネ屋が偏在するという事実が証明している。先に左右それぞれ、と書いたが、一枚の大きなレンズが顔を覆うという変わった形のメガネをマイルス デイヴィスがかけているのを見て驚いた事がある。他ではこんなメガネをかけている人を見た事が無い。もしこんなメガネが似合う人がいるとすれば天才バカボンに出て来る「本官」(日本一、ピストルの弾を撃つおまわりさん)ぐらいのものだろう。

 

 読み書きに不自由するというのも困ったものだが、少し離れたところのものが見えないというのも嫌なものである。意外なところで人と出くわすというのが困るのだ。もしかしてこの人は…?などと思って、考えているうちに相手はすたすたとその場を立ち去ってしまう。時には、その時是が非でも話し掛けなければならなかった、という場合だってある。相手が立ち去った後には、間抜け面をぶら下げた私と、悲しい誤解だけが残る、ひゅうううという訳だ。

 

 春になり、目が開いた自分を思い浮かべてうっとりする。まず何をしてやろうか。セリーヌをマルケスを宇津保物語を読みかえし、毎日山の端に消えてなくなるまで太陽を見つめ、そうだ、小布施に行って北斎の天井画を見るのだ。あの藪睨みの鳳凰に睨まれ、もうこちらの頭がくらくらになるまで、いやくらくらになってもまだ睨まれ続けてやるのだ。


                                   2010. 1. 31