通信4-18 何故か仕事場を抜け出す | 青藍山研鑽通信

青藍山研鑽通信

作曲家太田哲也の創作ノート

 今週の頭から青藍山で過ごしている。諸々の事情から全く作曲に集中できないでいるのだが、そんな時には本当に自らの衰えを感じる。眼科と歯科を振り子のように行き来し、痛みをこらえながらぼんやりと過ごす。若ければ無駄に看護婦に欲情したりと、退屈しない時を過ごせそうだが最早そういう元気も残っていない。


 去年の秋の元気はどうしたのだろう。私は、私を全て使い切ってしまったのか。一気に十年分も年老いてしまった。二度と取り返しのつかない形で。私は汚らしく老いてしまったのだ。白髪掻けばさらに短く、顔中を覆い尽くす皺のわずかな隙間から世間を眺める。今は、さっきの大きなくしゃみでスポンと飛び出して目の前の湯飲みにぽちゃんと浸かってしまった入れ歯をどうしようかとじっと考えているところだ、というのはもちろん嘘だが、作曲が停滞しているのは確かだ。まあ、ろくに目も見えないのだから仕方がないのだが。


 最近の私はマカロニのように太い五線紙にピーナツのような音譜をえぐりえぐりと書き込んでいる。一つのフレーズ書き終えるのに以前の十倍以上の時間がかかる。しかもミスがきわめて多い。私が雇い主なら、もちろん私なんかすぐくびにしてやる。(実はこの文章も、良い子の為の楽しい絵本の十倍ほどの大きさの文字で打ち込んでいる)作曲はスピードだ。鮮度だ。魚を捌くのと同じだ。私は、今にも変色して臭い立ちそうなひらきかけの魚を前にして先に自分自身が腐っているのだ。それで、ついに山から下りてインターネット喫茶にもぐりこみこんな変な文章を書いているのだ。


 作曲期間中に文章を書くことはまずない。昨日までの記事は全て山に入る前に書き貯めたものだから、この文章が、今回山に入ってから初めてのものという事になる。元々作曲を始めると一切の言葉が自分の中から消えてしまう。コーヒー一杯頼むのにも四苦八苦するという有様だ。(コーヒー屋のお姉さんは私を出稼ぎに来た外国人労働者のように見つめてから、親切に日本語を教えてくれようとするのだ)こうして今、文章を曲がりなりにも(本当に曲がっているなあ)書けるのはいかに作曲に集中できないでいるかという事の証なのだろう。十日間でも二週間でも、一旦作曲に入り込むと飲まず食わず、不眠不休で(実際、起きているのか眠っているのかわからない状態で書いているのだが)終わりまで一気に行ってしまうというやり方でしか作曲できないのだ。自分の情けなさにぐずぐずになってしまった脳みそにランボーの「最も高い塔の歌」の一節が、私をからかうようにひらひらと浮かぶ。「心の全てを打ち込める、あんな時はもう再びやって来ないのだろうか」


 などと、ぐだぐだとしょうも無い事を書いているのは、そのうちに、こんなことを書き散らしているうちに何故かだんだんと気分が高揚してきて、一気に山を駆け昇り頭から湯気を出しながら仕事にスポンと飛び込んでいけるんじゃあないかとひそかに思っているからなのだ。そういう助平根性はあるのだ。実際どんなことで自分の眠り込んでいる創作意欲に火がつくのかは正直、わからない。この薄暗いインターネット喫茶に響く、自分が打つカタカタというキーボードの音にこれから有らしめる音楽を聴こうとしているのだ。


2010. 1. 29