再掲 【第四話】
 私が本当に信じた唯一の臨死体験実話
    ~窓際からの奇跡の生還









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【第三話】の続きです。



窓際からの奇跡の生還

* 仕事がしたい、苦しい毎日だった。
来る日も来る日も 死ぬか生きるか、ぎりぎりのことを考えていた。
ある時、ふと気付いた。

゛仕事は与えられるものではない、したいことをすればいいんだ。

自分を苦しめているのも自分を窓ぎわ、生ゴミにしているのも自分。
自分が苦しむのをやめ、自分を認め、自分がしたいことをすれば
いいんだ。 よし、したいことをしよう 。


-自主プロジェクト-

研究所では自主プロジェクトというものがある。
10%程度の時間で自主的に研究ができる。
もちろんある程度の手続きが必要なのだが・・・

私は研究所のカテゴリ-(許容範囲)と自分のやりたいこととの
可能性の中から、ピアノに関わる自主プロジェクトを始めること
を決意した。

コンピュウタ-技術を応用した電子ピアノの開発。
当時の電子ピアノの音質はまるでオモチャ。
鍵盤タッチは電子オルガンと同じで、多少ともピアノが弾ける人には
とても弾く気にならないものだった。
そこで何とか本物の音=本物の鍵盤タッチを出そうと試みた。

原理を簡単に述べると、本物のピアノ、特にシュタインウェイや
ベ-ゼンドルファ-などの世界の名器の生の音を半導体メモリ-に
記憶させ鍵盤のタッチによって再生するのだ。

ピアノの音は、鍵盤タッチやペダルによって様々に変わるので、 
実際に様々の音を録音しタッチやペダルに合わせて再生できる
ようにし、鍵盤は実際のピアノ鍵盤を使い、本物のタッチ感が
得られるようにした。


一年がかりで完成させた試作品は、かつてない電子ピアノだった。

一年後、それは当社の画期的な新製品になった。
この製品は高価だったが 世界の名器のピアノだけでなく、
チェンバロ ハ-プ ギタ-などの音が出ること、
自動演奏可能、録音再生可能、ヘッドホン可能、軽量など
多くのメリットがあり、のちに、100億円事業となった。


-特別プロジェクト-

一度窓ぎわになった人間が、一つの成功で、
メデタシというほど会社は甘くない。
一本ヒットを打ったところで、それで運命が変わるわけではない。
もちろん、これで細々と研究を続けることは出来る。
しかし、それは自分として満足な生き方ではない。
将来も見えない。
このままではだめだと思い悩んでいた。

そんな時、幸運が舞い込んできた。
特別プロジェクトのサブリ-ダに任命されたのだ。
特別プロジェクトというのは、会社の戦略上、非常に重要な
プロジェクトのことで、会社から優秀なメンバ-を集めて
優先的に推進されるものである。

全社から集まった12名の優秀な技術者集団で、
技術的にも日程的にも非常に困難なものだった。

開発目標は業務用パソコンで、100万個のエレメント{要素}の
一つにミスがあれば、それで失敗なのだ。
一人一人が高い技術レベルの仕事をするだけでは不足で、 
チ-ムとしての協力ができなければシステム開発は失敗する。
つまり演奏者一人一人がいい演奏をするだけでは
音楽にならないのと同じ。

その頃、私は指揮者としてオ-ケストラと合唱団の一人一人が
最高の演奏をするとともに、全体として
最高の音楽を実現することに取り組んでいた。

この『オ-ケストラ指揮法』が仕事でも大いに役立った。

技術的にも日程的にも困難な目標であったが、非常にいい
チ-ムワ-クで開発が進み、目標より早く完成し、
この特別プロジェクトは成功した。

この成果で、社長賞を受賞。
さらに、共同開発の相手会社からも社長賞を受賞した。


-窓際からの生還-

このことによって、私は窓際から復帰することが出来たのだった。
今思い返しても、この時期は最も危険な時期だったと思う。
あらためて周りを見ると、職場には結核で長期に休んだり、
神経症などで昇進からはずれた人が何人もいる。

みんな、世間でいう名門大学卒だが、
社内の激しい競争に敗れたと見なされている。
私のように、交通事故で一年休職した者もまず復帰は難しい。
本当に幸運だったと思う。


* 先日 こんな悲しい事件を知った。

「クルマの中で夫婦が餓死。
夫は元エリ-トサラリーマン。 妻はピアノ教師。
夫が、事故に遭い後遺症のため会社を辞め、生活に困り、 
マンションを出て、マイカ-の中で生活をしていたが、 
餓死しているのが発見された」

これを知ったときショックを受けた。
とても他人ごとでないような気がした。
この夫婦が、マンションを出るとき、最後に弾いたのが、 
ベ-ト-ベンの「 月光 」だったそうだ。

この曲は私にとっても忘れがたい曲だった。
私の人生を大きく音楽のほうに動かした記念の曲だった。
私はこの悲しい事件に、
自分のもう一つの人生、もう一つの未来を見た思いがした。

まさに、これは、私が何度も迷って
゛選ばなかった方の人生だったのだ。゛


-すべて自分-

゛天は自ら助くる者を助く ゛
神はみんなを助けるのではなく、努力する者だけを助けるという諺。
その通りだと思う。
自分を生かすも殺すも自分なのだ。
悩みは自分で作り出しているのだ。
どうしようもない穴の中に自分を閉じ込めているのは自分なのだ。

実際に私は窓ぎわだった。
しかし、それでも尚、諦めるのかどうかは自分が決めるのだ。
最後の最後まで、努力を続けることにより願いが実現する。
「仕方がない」と思えば仕方なくなるのだ。
そして、大切なのは最後の結果ではなく
゛ 現在の生き方なのだ ゛


-あきらめず努力すること-

絶対ダメとか、絶対ムリというものはない。
あきらめてはいけない。
あきらめれば、その通りの結果になる。
病気もガンも諦めてはいけない。
希望を持つことだ。

しかし、諦めてはいけないが、戦ってもいけない。
戦いは、戦争であり双方傷つく。
仮に勝ったとしてもまた反撃されるだろう。
戦うのではなく、努力すること。

現実を受け入れ「気づかせてくれてありがとう」
と感謝した上で、希望に向けて努力すること。
このことが、最善の結果を実現するのだ。


-合唱団-

私が常任指揮者を努めていたのは、 
日本一を目標に作られた職場合唱団だった。

創立以来毎年コンク-ルに出場
最初の年6位 翌年5位 翌年4位 翌年3位
翌年2位と順調にランクを上げたが・・・ 
そのあと、頭打ちで、どうしてもトップが取れなかった。

なぜ、勝てないのか。
なぜ、私の言うとおり歌わないのか。
どうすればいいのか。苦しい時期が続いた。
そのさなかでの交通事故だった。


-指揮者が変わればみんなが変わる-

* 退院後、私の音楽観、指揮観が大きく変わった。
命令、説得、説明、強力な指導をやめた。
合唱団は、指揮者の道具ではない。

コンク-ルに勝つことが目的ではない。
音楽は、みんなが楽しむためのものである。
一人一人が力を発揮し、最高の音楽を実現することこそ、 
指揮者の仕事なのだ。

まず相手を信頼し任せること。
人は信頼されると信頼に応えようとする。
「ここはどう思いますか・・・ 任せますから
 最高の音楽を聞かせてください」
そして、どんな意見にも耳を傾けること。
意見を尊重すること。

メンバ-の戸惑いが消えた時、合唱団は大きく変わった。
一人一人が自分の考えを持ち、自分の意見を述べ、
自分の音楽を表現するようになった。
みんなの表情や姿勢が変わった。
アマチュアからプロに変わったのだ。

合唱団全体が生き生きとし、自分が音楽を
作るのだという自信を持つようになった。
音楽は劇的に変わった。
表情豊かになった。
そして迫力、凄みが出てきた。


-コンク-ル-

練習は見違えるように変わった。
笑い声の絶えない和気あいあいとしたものに変わった。
指揮者とメンバ-とピアニストが一つになった。
以前は、「 コンク-ルに勝つこと 」が重大なことだったが、 
「コンク-ルは素敵な演奏会」と思うようになった。

そして、翌年、コンク-ルで初めて一位をとった。
みんな大いに感激した。
ちょうど合唱団設立10年目だった。
私自身の感激がひとしおだった。
涙が止まらなかった。
生まれ変わった自分の門出だった。

それ以来、ほぼ毎年優勝するようになった。


-幸せが一番大切-

幸せならばみんな力を発揮する。
どうしてこんな簡単なことが分からなかったのだろう。
私は以前、「勝つためには苦しい練習をするのが当たり前、
364日苦しんでも最後の一日で笑えばいいじゃないか」
と言っていた。 そして笑えなかった。

ところが、今は「練習は楽しくなきゃあ、364日楽しんで
最後の一日ぐらいどっちでもいいじゃないか」と言うようになった。
そして、実際には楽しい練習のほうが、はるかにいい音楽ができ、 
結果として年中楽しんでいるのだ。

みんなは、それぞれ自分の音楽を持っている。
それぞれが、最高のものを発揮しようとするのを
邪魔していたのは自分だったのだ。
指揮者があらかじめ決めた演奏をさせようなんて、なんて愚かなこと。
指揮者の理想の音楽は、目標ではなく出発点に過ぎないのだ。
それぞれが、自由に演奏することで、そして、お互いに聴き合う
ことで最高の音楽を演奏することができる。

寝たきりのベッドでこのことに気づいた時、 
悲しくて、悔しくて、恥ずかしくて何度か泣いた。
私はワンマンだった。
何人かの人の心を傷つけたことがあるからだ。

そして、本当の指揮者として目覚めたとき、
二度と指揮台に上がれないと医者から宣告を受けたからだ。
幸運にも、自分は、今、指揮者としてカムバックできた。
コンク-ルに勝つための音楽ではなく、喜びの音楽を
幸せの音楽を自由なタクト{指揮棒}を振ることができるのだ。
指揮者を邪魔しないのが優秀な合唱団なのではなくて、
合唱団を邪魔しないのが優秀な指揮者なのだ。


-地球環境-

* 地球環境の研究スタ-ト

これで社会復帰ができたので、地球環境について研究をスタ-トした。
学会や研究会に参加、シンポジウム、委員会に出席した。
国際会議などにも出席、情報やデ-タを収集した。
オゾン層破壊、地球温暖化、森林破壊など環境破壊の
極めて深刻な実態が国連や政府などの公表デ-タ
としてはっきり示されている。
そして、そのどれ一つをとっても世界の破局がはっきり示されているのだ。

そして、この世界の将来は、人口爆発と貧困、食料不足、水不足、 
資源の枯渇、環境汚染と環境破壊、世界経済の崩壊、 
地球規模の生態系の崩壊 ・・・・未来の記憶どおりだった。

デ-タは揃った。
地球環境の各項目について国連や各国の公式デ-タ、
誰にでも分かるデ-タ、ショッキングなデ-タが揃った。


-ソビエトの崩壊-

1991年、ソビエトは突然崩壊した。
ゴルバチョフ大統領の急ぎすぎた民主化による
軍や政治の混乱と経済崩壊によって。
ちょうど、事故から10年目だった。

東西の力の対決、力のバランスで保たれていた世界秩序は崩れ始める。
これから、東西ドイツ、南北朝鮮、二つの中国の問題、アフリカ、 
東南アジアなど政治やイデオロギ-で分けられた不自然な国境は崩壊する。
民族の異なる国は分裂する。


ソビエト連邦はバラバラに崩壊し

アメリカ合衆国もバラバラに崩壊する。


ショックだった。
やはり始まったのだ。
間違いではなかったのだ。
急がなくてはならない。




-本格始動-

1989年、モントリオ-ル会議で「2000年 特定フロン全廃」
を決議したが 日本だけがサインをしなかった。

゛ これだ 今がチャンスだ ゛ と思った。

社長に地球環境のことを話すことを決意した。
社長とは仕事以外でも合唱団のことで、お話をする機会が何度かあった。
合唱団がコンク-ルで連続一位をとっているのは、
会社にとっても大きな話題であった。
このことでは社長もずいぶん喜ばれ、社長金賞を二度受賞した。


-初めての講演-

゛非対立 非対立 ゛と唱えながら社長室に入った。

「 きょうは何だね 」

「 地球環境のことで お話があります 」

「合唱団のことではないのか、それなら担当役員に話しなさい」

「わが社にとって重要な問題です。ぜひ、お知らせしたいのです」

「じゃあ 聞こうか」


オゾン層破壊について話した。
これが私の最初の講演だった。
社長は、非常にショックを受けられた。

「まさか、それは本当か!」

「これは、国連や各国政府などの公式デ-タです」

「なぜ、日本はサインしなかったんだ」

「わかりません。でも、100億円で社内のフロンは全廃出来ます」

「うちがやれば、よそが怒りよる」


もしここで、「よそが怒ろうと、うちはやるべきです」
と言えば私はクビだろう。 非対立で ・・・ 。
主義主張や説得はマイナスになる。
気づくチャンスを作ること。


「うちがやらなければ、どうなるでしょう」

「うちがやらんと、よそもやらんだろうな」

ハ-ドルを一つ越えた。



-100億円-

「しかし、100億円はもったいないわ」

もしここで、「100億円くらいなんですか 」
と言えば 私がクビ。 非対立で。
相手の気持ちを受け止めること。

「お金を使えば、オゾンは無くなりません。
でも、お金は使っても無くなりません 」

「えっ、金は使えば無くなるやないか」

もし、ここで説明すれば気づくチャンスが無くなる。

私は黙っていた。
黙っていると考えることが出来る。
考えることを邪魔しないことだ。

「なるほど、金は無くならんな。金は天下の回りものだからな」

ハ-ドルをもう一つ越えた。 もう一息。



-経営-

「私は経営者だから、いい悪いだけでは考えられない。
経営の観点で考えんといかん。君も経営の観点で考えてみてくれ」

もう一息のところで難しい問題。
一瞬、どう答えればいいか分からなかった。
非対立で。
同じことを繰り返したり強引に説得すれば失敗する。
チャンスは一度、失敗すれば取り返しがつかない。
非対立は、無理しないということも大切。

「しばらく、時間をください」

気がつけば一時間が経っていた。
社長の時間を大きな事業の話以外で一時間取るのは異例のことだった。
社長室を出て図書室に行った。

゛ 経営とは何か 経営という観点で考えるとどうなるか ゛



-経営とは何か-

人にも聞いた。 本も調べた。
しかし、ピッタリくる答えは見つからなかった。
そして、やっと仏教辞典で次の説明を見つけたのだ。


「 経営 」 の 「 経 」 は 「 真理 」 を表し

「 営 」 は 「 一生 」 を表す。

「 経営 」 とは 「 一生をかけて真理を求める 」 の意。


この言葉に感銘を受けた。
そして、再び社長室に出かけて行った。

「どうした」

「経営という観点で考えてまいりました」

「話してみなさい」

そのことを説明した。


「経営とはそんな凄い言葉なのか、どうすればいいんだ」

「わが社として何ができるか、社長と一生かけて
 考えてまいりたいと思います 」

「そんなことしてたら間に合わんじゃないか」

「間に合わないと思います」

「それじゃダメじゃないか」

「社長の指示通り、経営という観点で考えました」

「 ・・・・・・・・・ 」  社長は無言。


しばらくして、 社長は次のように言われた。

「 わかった やろうじゃないか 」



-特定フロンの全廃-

一ヵ月後・・・

日本最大手の電子企業、松下電器が特定フロンを全廃
「5年前倒し 1995年までに」

という新聞記事が全紙に載った。

1989年7月20日のことだった。
他社からクレ-ムがあった。
モントリオ-ル議定書に日本がサインしていない段階で、
業界最大手のわが社が単独でフロン全廃を発表するのは、
極めて異例、極めて迷惑なことだった。

ところが、しばらくして他社も続々、同様の方針を
打ち出してきたのだった。 

翌1990年、日本はモントリオ-ル議定書にサインした。




* このことは米国の地球環境の書にも記述されている。

「日本はフロンの段階的廃止よりもリサイクルを主張。
その理由はフロンを大量に使用する半導体企業が
廃止に反対していたからである。

日本最大手の電子企業 松下電気が フロンを
全廃すると述べて初めて日本は段階的廃止に合意した」

ガレスポ-タ-著 『地球環境政治』








もし、地球のオゾン層が全て破壊されると、
恐ろしい事に、地球は、2億年前に戻ってしまいます。
無論、地上のありとあらゆる動植物は全て焼き尽くされてしまう。
フロンが、オゾン層破壊の大きな犯人でした。
日本大手企業は、半導体の洗浄にフロンを使用していたが為に、
当時の御用学者たちは、フロンによるオゾン層破壊をこぞって
否定し続けていたのです。