福島から移住した女性の手記



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棄郷ノート   小河原律香





いま干したらお日さまと風の力で数時間後にはすこやかに乾く。そう信じて洗濯物を干す。
今日はもちろんのこと、数日後だって家族三人で食卓を囲めると信じて食材をまとめ買いする。
明日が必ず来ると信じないことには生活なんて成り立たない。

何年後かに何人か、また子どもを持てるだろうと信じていた。だから家を建てるときには子ども部屋
を三つも作ったし、冷蔵庫を買うときには容量の一番大きいものを選んだ。福島県須賀川市の入り
組んだ路地の突き当りにある白い外壁の家で、平凡ながらも堅実で安定した生活を営んでいくために。
3月11日にとても大きな揺れに見舞われた私は、いろいろあって無邪気に明日を信じることが出来ない
まま生きている。今まで生活を営んでいた場所から遠く離れたところにいて、ここで生きて行こうとしている。


放射能汚染によって、私たちのすべてを根こそぎに奪われたから。
「あれ」に覆われたあとの福島県で、私はどんな生活をしていたのか。
スーパーマーケットへ行ってペットボトルの水をその日に買えるだけ買う。
水が汚染されている恐れがあり、料理に水道水が使えないためだ。
野菜売り場では遠い南のまちから来たものだけを買う。熊本県産の筍、鹿児島県産のいんげん、
高知県産のピーマンと茄子。そんなものしか手に入らなかった。
来る日も来る日も同じ材料でなんとか目新しいものを作ろうと苦労した。野菜は、汲み置いて竹炭を
入れておいた水で時間をかけて洗った。米を研ぐ水がもったいなくて無洗米に替えた。
外出するということは被曝量が増えるということだ。


だから外に出ることは命をすり減らすことであり、娘を私の職場に連れて行くことにも幼稚園に連れて
行くことにも、あるいは息を吸わせることにもいちいち覚悟が要った。だからほとんど外出をしなかったし、
彼女を外に出すときには口元をぴたりと覆うマスクをさせ、合羽を着せ、帽子を被せた。さらに、地面に
ある放射性物質の付着を避けるために必ず抱くか負ぶうかして娘を運んだ。
ぶちまかれた放射能をなかったことにして、無頓着を装って暮らす努力をしたこともあった。でも結局、
そんな無責任を貫くための狂った精神を、保てるはずがなかった。

私はおよそ50人の生徒を抱えるピアノ教室を運営していた。レッスンを再開すると子どもたちが嬉しそう
に教室にやってきた。マスクもせず、自転車を思いっきり漕いではあはあと息を弾ませながら。
音楽やピアノや私を愛してくれているんだなと、知った。

3月10日まで、福島県の子どもとほかの都道府県の子どもは同じだった。でも今や違う。
放射能まみれにされ、神経を麻痺させられてこの地に留めおかれている。この国の犯したヘマを隠し、
経済の発展を守るために。

子どもたちを見て発狂しそうになる心を押しとどめるのは容易なことではなかった。やはりこれは間違いだ。

この土地でピアノも音楽もない。ここは、これから先何も生まれることのない土地だ。生み出そうとして
はいけない土地。だんだんと渇いてガサガサになっていく脳味噌の奥でなにかが壊れて、新しくなにか
が生まれた。それの正体がいまも分からない。責任感でも使命感でもない。ただこの世の地獄にぐちゃ
ぐちゃとまみれたいと願う、からだの奥からの餓えた欲求のようなもの。


5月22日に教室を閉めることにして、子どもたちと母親を集めて最後の会を持った。
そこで私は「ここに子どもを留めておくことは最大級の無責任だと分かりました。約10年間子どもの教育
に関わってきた者として、ここにいることにNOを言います。今後は北海道でピアノ教室をやるから、
習いたい人は一緒に来てください」と言った。あとのことは誰にも言いたくない。


5月23日に娘が鼻血を出した。もう持ちこたえられない。北海道に逃げる、と決めてから行くまでの猶予
が半日しかなかった。夕方帰宅した夫に「明日北海道に行く」と告げた。彼は「そんなに鼻血が心配なら
明日病院に連れていけばいいじゃないか」と言う。病院に行くためにまた被曝しろってことか。話にならない。
放射能を避けるために、家事だって煩雑を極めた。それでもどのくらい「あれ」を避けられているのか
なんて分かりやしなかったし、どのくらい体が蝕まれているのかも分からなかった。
分からないことは何より恐ろしい。想像ばかりが膨らんでしまうから。

窓から、冬の終わりに娘と一緒に植えたチューリップが愛らしい花を咲かせているのが見えた。
昼間それを触ろうとした娘を厳しくたしなめたばかりだった。幼稚園入園に合わせて彼女の好きな色
ばかりで埋めた花壇は、私が夫にせがんでつくってもらったものだ。毎朝娘を励ます力になるはず
だった花が、放射能をまとって風にゆらゆら揺れている。娘がその幼稚園に通うことはなくなった。
そして私は、夫になにかを伝える気力すら無くした。



深夜まで無言で荷造りを続けた。私には彼の顔が今までと全く違って見えたが、彼にとっても私は、
なにか恐ろしいことをしようとしている、想像を超えてしまった得体の知れない存在に見えたに違いない。
その合間、知り合ったばかりのテレビ屋からメールが届く。私が逃げることをどこかで聞きつけたらしい。
早朝福島に着くようにいま東京を出たという。

朝早く起きてテレビ屋を迎え、荷造りをしながら娘に朝食を作り、夫に出来る限りの食べ物を作って冷凍
した。化粧をし、着替えをし、そのすべてをカメラに収めてもらいながら福島空港へ向かった。
営んできた暮らしを余すことなく映像に残してもらったことで、とても平静な心で離陸を待つことができた。
それは、確かにこの町で私が生き、結婚して娘をもうけ、家を建て、庭で好きな植物を育てて生きてきた
という記録が残されたからだ。



娘に鼻血を出させてまで福島に留まったのは、そこに希望を見出してしまったからだ。
あそこにしか私たちの暮らしはないのだから、それは至極当然のことなのだけれど。
何度も絶望を繰り返してようやく過去を捨てる決意ができた私には、ひとつ、とても反省していること
がある。
それは、所有しすぎたことだ。土地を所有してその上にばかでかい家を建ててしまったこと。
夫を持ち車を持ち、木まで持っていた!! なんという傲慢だろう。
少し考えれば分かることだ。そんなものを持ったつもりでいても、所詮まやかしだってこと。
他人も土も木もなぜ動くか自分で理解できていない機械も、私には本来持てるはずもないものばかり
なのだった。

結局、自分で持てる容量の赤いスーツケースに私が詰めたのは、自分のスタイルに馴染んだ衣類
と結婚以来使ってきた食器だけだった。
夫と揃いで使っていたものは私のぶんだけ持ってきた。残された食器を彼がどういう思いで使っている
のか、あるいは使っていないのかは分からない。
娘のためにと詰めたのは、彼女の薄い顔立ちに合う優しい柄の洋服。何度も一緒にクッキーを作った
思い出の詰まった抜型。そして娘の大好きなグラタンを焼くための皿だった。

札幌で借りた部屋に入居した日に、新聞紙で包んだ食器を出した。役目を終えて皺だらけになった
新聞紙には、この震災で何人亡くなったか、避難所で人がどう生活しているか、原子力発電所が
いかに安全を保ちつつ壊れているか、なんてことが書かれていた。とても空々しく。

一人ひとりがどう命を失っていったか、生きている人が避難所や放射能汚染地帯でどう摩耗している
のか、記事から読み取れないことを想像すると狂いそうだ。
それらの皺を一枚いちまい伸ばして紙袋に突っ込んだ私は、「この新聞紙、もったいないから揚げ物
の油きりに活用しよう」と考えていた。

こころは静かに落ち着いていた。
どんな土地にいっても、コンクリートの家でも木造の家でも、大きい家でも小さい家でも、私は繰り返す。
クッキーを作り、グラタンを焼き、娘のすこやかな成長を希うことを。
心臓が繰り返し鼓動を打つのと同じように、何度でも淡々と繰り返そうと思っている。




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