2023.9 臨時号NO.196 んかつ VS んかつ
  今月73歳になった。その前の5月には結婚42周年を迎えた。30歳前後から私は周りから「婚活」を意識させられた。晩婚化・晩産化、婚姻率の低下の今は時代が違うと言えるが、当時は「家族がいればお金を持ち逃げする心配が少ない」と妻帯者の銀行員に対する顧客からの信用度合いが違うと言われていた。銀行員は結婚するのが前提だったように思う(大手の都銀は別かもしれないが)。 
 当時30歳を過ぎた男はやや疵物扱い。お見合いでは25歳以下の女性は回ってこないのが相場だった(私が生まれた1950年8月の翌月から撮影に入ったという映画『麦秋』で28歳未婚の役柄のヒロイン原節子が「売れ残りでのいいの?」と言う。それから30年経つ1980年当時もそんな時代であった)。
 私はお見合いをするつもりはなかったが、頼んでもいないのに母親からお見合い写真ではなくごく普通のスナップ写真を見せられ、どうと聞かれたことがあった。私はちらっと見ただけで、関心を示さなかった。そのまま忘れていたのだが、後年その彼女が嫁にも行かず阪神大震災の折亡くなったと聞いた時複雑な心境になったことを覚えている。
 妻とは昭和53年銀行の新宿支店の歓送迎会で並んで主賓席に座っただけで仕事は一緒にしていない。私は4年新宿支店に勤務した後旧三長銀の一行にトレーニーとして出向した後神戸に戻った。歓送迎会から2年半過ぎた頃新宿支店の先輩に会った時歓送迎会での新入行員の妻の印象が良かったことを軽い気持ちで言うと繋いでくれるということになった。
 それで私から妻に電話することになるのだが、友達からでもと話すと、妻はその時「何をこの人は言っているの?」と訝ったらしい。実はその先輩は私が「結婚を前提に付き合ってほしい」と言っていると妻に伝えていたのだった。それを知って、手間は省けたが、お膳立てしてもらった以上おめおめと「ダメでした!」とは言えなくなったと心した(30歳にもなって女一人も。そんな奴に銀行員が務まるかとの烙印を押されかねないと)。
 結果的にそれが功を奏した。数寄屋橋の旧ソニービルの前で待ち合わせするのだが、いつも決まって妻が遅れてくる。私は、パンクチュアルなので普通15分も待ってこないと帰ってしまうのだが、堪えることができた。後年遅れる理由を妻に聞くと「だって、行きたくなかったんだもん」と答えるばかり。すっぽかされたことはないので、試されていたのかもしれない(WOWOWで観たが、ホッキョクグマのメスでさえオスをテストする。健康的で強いオスであるかどうか)。
 東京から遠い神戸に嫁ぐことになるので親を思って娘の気持ちは時として揺らぐ。ある月末の土曜日(当時昼まで営業していた)のこと、本部はすぐ帰れるが、支店は月末事務に夕方の6、7時までかかる。私は妻に黙って新神戸駅から新幹線に乗り夕方4時過ぎに新宿近くの喫茶店に入った。当時携帯がなかったので、新宿支店に電話したのだろう。驚いた妻は「行かない!」と言ったが、3時間程度待って来てくれた。
 東京によく出向いたが、ホテルに泊まらず、今では廃止となった寝台急行列車『銀河』で23時に東京を出で翌朝7時18分に大阪に着き、乗り換えて神戸に戻りそのまま出社した、そんなことも少なくなかった(最初B寝台に乗ったが、レールと直角にベットが置かれ止まる度に体が転がるのに閉口してレールと平行のA寝台に乗るようにした)。
 甲斐あって、最後は義父が私のことをくさすような事(見てくれは悪いし愛想もよくなく無理もない。娘の決心を確認する意味もあろうが)を言うと妻が庇い立てしたと聞く。
 色々プライドを刺激されることがあった。が、私は無駄に自尊心が高い(「顕在的自尊心が高いが、潜在的自尊心は低い」ケースに当たる。韓国ドラマ『浪漫ドクターキム・サブ2』の中で老病院長が「自信のない奴ほどプライドが高い」と言っていたのも同じ)が短気を起こさず我慢することができた。何としても成就させるためにはと。
 妻に好意を抱いていたことは確かだが、妻のことをよくは知らなかった。本当に愛おしいと思うようになったのは結婚してからだ(妻は知れば知るほど私を嫌いになると言うが)。
 人は「なんであんな奴にこんな感じのいい奥さんが」と思うことがある。いい女(ひと)だからこそそんな奴にでも尽くせるのだ。我妻も、家での良妻賢母はもちろん、外でも内助の功を。業界団体に居た頃海外視察に幹事役の私に妻も同行したとき、妻は、会員参加者と同様参加費を負担しているので“お客さん”でよいのだが、頼みもしないのに会食のときアホになって盛り上げようとしてくれる(皆が妻を明るく社交的と言うが、妻自身は気を遣うから嫌でそうではないと言う。

得意の歌も他の人に聞いてもらえばと言っても一人カラオケがよいと。義父に似てか独りで居るのが苦にならないタイプなのだ)。

 めでたく結婚に辿り着いた訳だが、日を置かず子作りという課題に取り組むことになる。上司や先輩に早く子供を作った方が後々楽だと聞いていた。27歳ぐらいまでに結婚しているなら50歳過ぎには子供が大学を卒業している。30歳を優に超えてから子供を持つと、ちょうど転職、リストラ、失業と父親の職業人生の暗転時期と子供の大学進学とぶつかる。
   もう20年経つか、銀行を辞め今で言う公益社団にいた頃アルバイトに来ていた私大の女子大生が社団のトップにお父さんが失業してと(何とかならないかと訴えるかの如く)打ち明けていた。今は40歳台で肩たたきされるのか。それでは子供はまだ小学生に過ぎないだろうに。
 「好きこそ物の上手なれ」と言われるが、助平だとしても生殖能力が高いとは限らない。顔は貧相、体は貧弱な私は、過去に孕ませた武勇伝などあろうハズもなく、自信がなかった。子供ができない場合若く見るからに健康そうで安産型の妻に問題があるとは思えない。昔は子ができない場合妻の責任にされ離縁されたが、今は、男に問題がある場合の方が多いと聞く。
 精子があっても、一定量(1.5cc以上)・濃度(1,500万匹/cc以上)ないと正常と言えない。トライアスロンの水泳の様に密集してクロールでバシャバシャしている状態でないと、ゆったり平泳ぎしていてはいけないらしい。

 約4年前公開された『ヒキタさん!ご懐妊ですよ』で松重豊さんが扮するヒキタさん(原作者)のように精子の運動率(動いている精子の割合)20%では妊娠しづらい(WHOの精液検査の正常値「自然に妊娠が可能な精液の下限」 は運動率40%以上とする)。学校の運動会で行われる棒倒し(棒の先の旗をとれば勝ち)と同じだ。相手側の棒に攻め込み、偶然一番早く駆け上がり棒の先端の旗を誰かが奪いとるためには、大勢の人数で互いに庇いながら攻めるあがる必要がある。
 ヒキタ夫妻は12回(途中妊娠するも死産)に及ぶ人工授精の後顕微授精を行い懐妊に至る。夫自身に問題があるのに、北川景子さん扮する妻の体に負担をかける夫のやるせなさに、観ている私も涙した。
 逆に無精子症と診断されても、精巣で精子が作られていない「非閉塞性」と精子が作られているが精管が詰まっている「閉塞性」の2種類がある。ロックンローラーのダイアモンド✡ユカイさんは後者で(夫妻とも辛い)不妊治療に耐え子を儲けることができた。
 我々の頃は、互いに相手を気遣い不妊の原因を調べない夫妻も少なくなかったのではないか。

 数年避妊した後妊活するのでは子供ができた時私は40歳近くになっているかもしれない。妻は24歳の手前だったので、急いでいなかった。私が急かせて新婚旅行から帰った後すぐ妻は体温を測りだしたのだが、一か月も立たないうちに妊娠が判明した(ハネムーンベイビーではない)。私はホッとしたが、妻から笑われていないかと少しバツが悪かった。
 予想外にいきなり父親と母親の関係になってしまい、4年半で3人の子持ちとなった。代償として、結婚して20年ほど新婚旅行以外夫婦ふたり切りで旅行することはできなかった(TVで観た人気歌手大黒摩季さんの妊活は壮絶を極めた。子を切望し色々努力してもできなかった夫妻からすれば「何よ、それしきのことで」と不快に思われるかもしれないが)。
 高校や大学の同窓生で集まるとき、子供の話題に話が及びがちになる。子はいないと聞くと、根堀り葉堀り相手の心に土足で上がり込むデリカシーのない私ではあるが、(子供を単に欲しなかっただけの人もいようが)「奥さんを大事にしないとね」と言ってすぐに話題を変える。

(次回197号は9/10アップ予定)