網走番外地
★★★★

1965年(昭40)4月18日公開/東映東京/92分/モノクロ/シネマスコープ     
企画    今田智憲    原作・原案    伊藤一 脚本 石井輝男     監督    石井輝男
撮影    山沢義一    音楽    八木正生     美術    藤田博
出演-高倉健・丹波哲郎・南原宏治・田中邦衛・待田京介・安部徹・潮健児・嵐寛寿郎・風見章子


「日本侠客伝 浪花篇」から三ヶ月後の高倉健主演作。
大ヒットし、合計18作品作られた。

高倉は飄々としたチンピラヤクザを演じている。
牢内での、それぞれの自己紹介シーンが秀逸。ここでは刑期の長さが物を言う。

前年公開の「ジャコ万と鉄」「ならず者」などで共演した丹波哲郎が、善人役なのが面白い。
調べてみると丹波は当時43歳。高倉より9歳年上。

嵐寛の存在感が圧倒的。

さずがの無声映画時代からの大スターだ。

クライマックスの、トロッコでの追跡劇も迫力満点。
今なら全てCG処理だろうが、本物はやはり迫力が違う。

極寒の地で、野性味あふれる男たちが、諍いと暴力と逃避を繰り広げるこの映画、
当時の男性観客から絶対的支持されたのが理解できる。

以下Wikiより転載

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『網走番外地』 は1965年4月18日、東映の製作・配給により劇場公開された日本映画。
主演高倉健。監督石井輝男。東映。公開時の併映は鶴田浩二主演の 『関東流れ者』。シネマスコープ。モノクロ92分。

製作
映画化まで
1962年か1963年ころ、当時東映の専属だった三國連太郎が網走刑務所から囚人が脱獄を企てた計画があったことを知り、この囚人脱走計画の事件をモデルに、自ら『網走監獄の脱走』という企画を岡田茂東映東京撮影所長(当時)に提出したのが本作の始まり。
三國は当時、岡田が深作欣二や石井輝男らを使って当てていた“ギャング物”“現代アクション路線”の延長上にある“娯楽アクション映画”であることを強調し、自身はまだ独立プロを興して間がないため、自ら監督はやらず、『天草四郎時貞』(1962年)で組んだ大島渚を推薦した。岡田も賛成し、「大島監督に一発ホームランを打たせてやれるようなものにしたい」と企画は了承された。企画窓口は俊藤浩滋、脚本は大島と石堂淑朗、主演は三國と俊藤がマネージメントしていたアイ・ジョージで進められていたが、東映上層部は『天草四郎時貞』を興行的に惨敗させた大島への不信感が強く、この企画を監督させなかったといわれる。
その後、三國主演・佐藤純彌監督で『脱獄』と仮題がつけられた企画が浮上したが、岡田が“東映のギャング物”の延長の企画に、暗い三國の主演はふさわしくないと中止させたといわれる。岡田は『天草四郎時貞』の興業的失敗は三國にも責任があると考えていたようで、後に『仁義なき戦い』の山守義雄役を"鶴の一声"で三國から金子信雄に代えさせた逸話は有名である。

主演に三國の可能性がなくなった以上、もともと企画が三國であったから、そのままの形では使えず、そこで目をつけたのが伊藤一が1950年代前半に網走刑務所で1年数か月服役し、出所後、その経験をもとに1956年「網走番外地」という名で出版した実録物の小説であった。本作は、1959年に日活で、原作をほぼ忠実に映画化した同名の映画『網走番外地』が封切られていたが、東映版は、三國が持ちこんだ企画にあてはまるプロットを自在にふくらませただけで、伊藤一の小説からは題名を拝借しただけであった。
当初の企画がギャング物の延長である以上、東映東京にギャング物というドル箱を打ちたてた石井輝男に白羽の矢が立った。石井は、かねてより温めていたスタンリー・クレイマー監督の米映画 『手錠のまゝの脱獄』(1958年)を巧みに換骨奪胎して脚本を書き、主演には石井とのコンビ作を連打していた高倉健を起用して映画化された。思わぬヒットでシリーズ化が決定するが、クレジットには三國の名はない。自らが興した独立プロで自身が監督した『台風』の配給を東映に拒否され、それでも契約関係にあった東映作品に出演していた三國は、主力映画が任侠映画路線へと傾斜していく東映には自分の出番はないと思い、その翌年には東映との契約関係を解消し、完全にフリーとなった。

企画
石井輝男は「企画は今田智憲東京撮影所長(当時)です」と述べている。1965年の年始め、今田が石井に「『網走番外地』って、すごくいい歌があるんだ。網走刑務所の受刑者の間で歌い継がれてるらしいんだけど、これで何かできないだろうか」と、話を持って来た。石井は「実はそのときすでに、私の前作『顔役』でその歌を使っていたんですが、歌の好きな今田所長は別のところで知ったのかもしれません。日活も映画化した原作を読みましたが、これはかなり甘い話で気に入らなかった。新東宝時代から私が温めていた『手錠のまゝの脱獄』をヒントにした話をこの企画にかぶせたら、今田所長もノッてくれたので脚本を書いたんです」と話している。こうして石井は、題名を生かしながら『手錠のまゝの脱獄』の日本版ともいえるものに書き替えた。

キャスティング
高倉健の代表作として有名であるが、高倉は最初はゴネていて監督の石井と岡田茂取締役(当時)は「主演は丹波哲郎でいく」と打ち合わせしていたといわれる。本作はそもそも添え物の企画であった。併映の京都撮影所製作による『関東流れ者』はカラーだったが、本作は最初カラーで企画されながら「主役の高倉健が脱獄囚であり、ヒロインにあたる女優が登場せず、ラブロマンスもないため興収を見込めない(だから当たりそうもない)」という理由で、石井が北海道のロケハンより戻ってきたときには「予算はカット、添え物の白黒映画にする」と決定した。それに対し、何とかカラーで撮らせてくれと執拗に迫った高倉健に対し、大川博社長は「文句があるなら主役を梅宮辰夫に変えるぞ!」と言い放ったという。"東映番外地"にされた撮影クルーは、氷点下30度の北海道士別などでの撮影に臨んだ。しかし、蓋を開けてみると『網走番外地』は大ヒットし、続編『続 網走番外地』が製作される。「次こそはカラーで」とスタッフは勢い込んだが、再び大川社長に「白黒でやれ」と言われた。今田所長は困り果てた挙句、本作とは全く関わりがない俊藤浩滋に頼み、俊藤が大川社長に直談判してようやくカラー撮影の許可が降り以降はカラー作品となった。

囚人役の一人としてキャスティングされていた平尾昌晃が、1965年2月20日夜に拳銃不法所持で逮捕されたため、代役が立てられた(誰かは不明)。平尾は他にもTBSのテレビドラマ『七人の刑事』第168話「殺意」と『捜査検事』1965年3月19日放送予定「沈黙の罪」[12]にいずれも犯人役としてキャスティングされ収録中だったが、こちらも急遽代役が立てられた。『捜査検事』の方は劇中、39度の発熱という仮病を使って刑事を騙すシーンがあり、逮捕の当日、平尾は『捜査検事』のスタッフに「39度の熱が出たので撮影に行けない」と劇中のセリフをそのまま使ったナメた連絡をして来て『捜査検事』のスタッフを激怒させた。

撮影
共演の丹波哲郎、南原宏治、安部徹、田中邦衛と並んで、嵐寛寿郎が演じた“八人殺しの鬼寅”は映画史に残る名キャラクター。石井が監督した千葉真一主演映画の『直撃地獄拳 大逆転』(1974年)には、セルフ・パロディとしてアラカン演じる“鬼寅親分”が登場する。

馬を射殺するシーンでは、実際に馬をライフル銃で殺した。そのほかの馬の死ぬシーンや馬舎の放火シーンでも実際に馬を殺した。

シリーズのタイトル
本作当時の東映映画の「惹句(じゃっく)」(キャッチコピーのこと)には力の入ったものが多く、このシリーズもまた例外ではない。第1作のコピーは“どうせ死ぬなら 娑婆で死ぬ”、第3作『望郷篇』のコピーは“生きていたならおふくろが 人を殺しちゃならないと 俺のほっぺたぬらすだろ”といった具合である。また『新網走番外地 さいはての流れ者』のポスターは、横尾忠則による高倉健のイラストであった。

作品の評価
大雪原の脱走、トロッコによる追跡劇、列車による手錠切断から大団円まで主演の高倉健が演じきり、スターダムに駆け上がった。この頃の石井・高倉コンビの映画は世の中から浮き上がってしまったチンピラや殺し屋が体当たりで敵にぶつかって命を散らしていく内容が多く、『東京ギャング対香港ギャング』『ならず者』『いれずみ突撃隊』で高倉の骨太なヒーロー像は確立していった。石井は高倉のよさを生かしながら泥臭くならない二枚目半の魅力を引き出している。

石井は本作での高倉について、「やっぱり若さがあるし溌剌としてますよね。現在(2001年)は、この頃とはまた違うイメージに定まっておられますけれども。だから僕なんかは出来ればもう一度ギャング役なんかを演ってもらいたいと思います」と語っている。

2005年に監督の石井輝男が死去すると、その生前の希望を尊重して網走市内に墓碑が建てられ、遺骨が納められることとなった。墓碑には高倉健によって“安らかに 石井輝男”という碑文がしたためられた。また、石井の功績を讃えて博物館網走監獄の正門前に石碑が建てられ、2006年8月6日に除幕式が行われた。石井が所有していた網走番外地の台本等は、同博物館に寄贈された。

影響
鶴田浩二主演『関東流れ者』と本作二本立ての前に公開された中村錦之助主演・田坂具隆監督による一本立て時代劇大作『冷飯とおさんとちゃん』は作品の評価こそ高かったものの、記録的な大コケで打ち切られた。急遽繰り上げ公開された本作と『関東流れ者』の二本立ては大当たりした。東映は1965年に公開した『徳川家康』『飢餓海峡』『冷飯とおさんとちゃん』『にっぽん泥棒物語』と文芸大作がことごとく不入りに終わると、岡田茂東映京都撮影所長が"不良性感度"という言葉を盛んに使い始め、「今の世情からみて、この安定ムードの中で、観客は極端に刺激を求めている。従って純精度の高いものはダメである。俳優にしろ純情スターはもう時代遅れだ。これからは不良性感度の強いものを作らなければいけない」と宣言し、以降、東映の映画は東映京都・東映東京を併せ、この岡田理論である"不良性感度"の線上で企画・製作が行われることになった。

網走番外地シリーズ
本作『網走番外地』は興行的にヒットし、シリーズ化されて一年の間に続編が矢継ぎ早に製作された(第2作『続』からは、カラー作品となっている。なお第1作と『続』との間に、ストーリー上のつながりは無い)。第一作から第三作までは、鶴田浩二主演作がA面で、『網走番外地』はB面。第四作以降は全て『網走番外地』がA面。以下に見られるように、‘65年度、‘66年度の二年にわたり、シリーズ各作品が邦画興行収入のベストに上がる快挙である。

石井監督作品
網走番外地 (1965年4月)
続 網走番外地 (1965年7月)
(1965年度興行収入ベスト10 : 6位)

網走番外地 望郷篇 (1965年10月)
(1965年度興行収入ベスト10 : 4位)

網走番外地 北海篇 (1965年12月)
(1965年度興行収入ベスト10 : 2位)

網走番外地 荒野の対決 (1966年4月)
(1966年度興行収入ベスト10 : 9位)

網走番外地 南国の対決 (1966年8月)
(1966年度興行収入ベスト10 : 3位)

網走番外地 大雪原の対決 (1966年12月)
(1966年度興行収入ベスト10 : 1位)

網走番外地 決斗零下30度 (1967年4月)
網走番外地 悪への挑戦 (1967年8月)
網走番外地 吹雪の斗争 (1967年12月)
(高倉健と菅原文太が初共演)


二年半の間にシリーズは10本製作されたが、興収はシリーズ終盤の頃には振るわなくなり人気にも翳りが見え始めていた。「マンネリ上等」を持論としていた岡田茂であったが、1967年末封切りされた『網走番外地 吹雪の斗争』で一旦終了を決めた。ところがより観客に近い東映の館主会から反発を受け、「高倉健と俊藤プロデューサーが組んだ網走番外地を撮って欲しい」という要望が出された。岡田は仕方なく俊藤に頼むと「冗談やない。ひとのやった企画をいまさらやれるかいな」と断わられたが「いや、それは困る。館主会の決定なんや」と押し問答の末、押し切り、俊藤のプロデュースで「新網走番外地」シリーズがその後8本製作された。

他監督作品
新 網走番外地 (1968年12月)
新網走番外地 流人岬の血斗 (1969年8月)
新網走番外地 さいはての流れ者 (1969年12月)
新網走番外地 大森林の決斗 (1970年8月)
新網走番外地 吹雪のはぐれ狼 (1970年12月)
新網走番外地 嵐呼ぶ知床岬 (1971年8月)
新網走番外地 吹雪の大脱走 (1971年12月)
新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義 (1972年8月)

シリーズはこの後も続く予定があり、1973年4月後半公開を目指して新作が準備されていた。しかし1971年に東映社長に就任した岡田茂が、就任早々「お金にならないものは切る」と宣言。ギャラの高い割に率が悪い高倉と鶴田浩二を問題視し、菅原文太や梅宮辰夫、千葉真一、松方弘樹、渡瀬恒彦、安藤昇、梶芽衣子、池玲子、杉本美樹、谷隼人、中村英子ら、次世代スターをフル回転させ、新路線開拓を狙う1973年東映ラインアップを組んだため、本シリーズを終了させた。
高倉らを囲っていた俊藤浩滋プロデューサーがこれに激怒し、岡田と揉めて東映のお家騒動が起こった。結局一応の和解が成され、岡田と俊藤の手打ち式による高倉の東映戦列復帰第一作として、やはり高倉にふさわしい「番外地シリーズ」で行こうと、1973年春に1973年夏のお盆映画として高倉・石井輝男コンビ復活による『海軍横須賀刑務所』が制作発表されたものの、しかし実際は1973年の『仁義なき戦い』を嚆矢とする実録路線抬頭の煽りを受け、高倉・石井輝男コンビは『現代任侠史』に移り、『海軍横須賀刑務所』は、勝新太郎主演・山下耕作監督で製作された。

主題歌
「網走番外地」
歌:高倉健
作曲(採譜・編曲):山田栄一(原曲:橋本国彦)
作詞:タカオ・カンベ、伊藤一

逸話
シリーズが10作で事実上終了したのは、監督を続けた石井輝男自身が『網走番外地』に飽き飽きしていたからである。しかし『網走番外地』の興行価値は絶大で、その後も3人の監督の演出によって「新網走番外地シリーズ」として8作品が量産されたが、石井はこの後、岡田茂の要請に応え東映ポルノ"異常性愛路線"に手を染める。東映任侠映画路線の仕掛け人で当時、東映常務取締役兼企画製作本部長だった岡田茂(のち、同社社長)は、独立プロが製作して市場を形成しつつあった「ピンク映画」に目を付け、1967年『大奥㊙物語』以降、「好色路線」を展開した。さらに「好色路線」をエスカレートさせるべく、岡田が白羽の矢を立てたのが石井で、石井は「何か別の事をやらせてください」と岡田の要請に応えた。これがメジャー映画会社として初めて、東映専属ではないピンク女優が大量投入された1968年の『徳川女系図』で石井は岡田の意図を大胆に表現、ヌード、セックスだけでなく、拷問、処刑等、グロテスクな描写を取り入れ、その後も「異常性愛路線」としてエログロをエスカレートさせていく。石井の「異常性愛路線」で大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くし影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップス、深夜番組にも及んだ。“キング・オブ・カルト・石井輝男”はこの「異常性愛路線」なしには語れない。

同原作による他作品
『網走番外地』(1959年、日活)
本作以前に、日活が同じ原作小説を基に映画化した作品。松尾昭典監督で、主演は小高雄二と浅丘ルリ子。ヤクザの石塚はケガの手当を受けた医師の養女・みち子と愛し合うようになるが、傷害罪で逮捕され、最果ての網走刑務所に送られる。みち子は親の反対を押し切って石塚と結婚し、看護婦をしながら彼の出所を待ち、石塚はみち子の手紙に励まされて更生して出所するという純愛物語。