子供の頃に育ての親と共に支援してくれたじっちゃん達。

支援して育ててくれた男性でじいちゃんと呼んだ人…18人も居るんだな😅

ちなみにばっちゃんは26人。


その中でも特に印象深いじっちゃんの話。


今考えてみると…じっちゃん、爺さん…そう呼ばれる年齢でも無かったと思う😅

じっちゃんは学徒の特攻要員で終戦を迎えた人です。

だから俺が初めて会った11歳の時、じっちゃんは還暦前だったんだよね😰

今の俺と6〜7歳しか離れていない…

今俺が爺さん呼ばわりされたら、ちょっと待て‼️って言うと思う😅

まぁ小学生から見て50代後半は、爺さんに見えたのかも知れないが、失礼な話です😅


そんなじっちゃんやその友達は当然戦争経験者で、いろいろ話を聞かせてくれた人達は徴兵経験者ばかりでした。

子供の頃は興味本位も有って戦争体験談を何度となく聞いた。

だがじっちゃんの友達は、比較的多くの事は語っても、じっちゃん自身はあまり語らなかった…

って言うか、じっちゃんから戦争の話を聞いた事は一度しかない。

それは地元の公園が軍の飛行場だったが、完成した直後に終戦を迎えて使われなかった事、特攻要員のまま終戦を迎えた事。

そして特攻志願を[ させられた ]時の事…


ある日じっちゃん達は、屋内でこう言われたそうです。

「壁に背を付け並べ!」

言われたままに従うと、次の言葉で思考停止になったそうです。

「特別攻撃に志願せぬ者は一歩下がれ!」

へっ???それが本音だったそうです。

そりゃあそうですよね…

一歩下がれって言われたって、背中は壁に付いてるんだもの…

何処に下がれと?!

ざわつく感じも無かったそうで…

皆んな『何言ってんの??』ってのが、本音だったと思う…


そして「全員志願だな!良し!」その言葉で我に帰ったそうです。

その頃は特攻=必死、出たら必ず死ぬってのは皆んな分かっている話。

10代のじっちゃんは、突然大人に「死ね!」って断言されたわけです。


その後は、無茶苦茶だ…やってやるよ!!、そんな感情がコロコロ変わる躁鬱状態、仲間が1人減り2人減りとする度に躁鬱は酷くなる…

そして終戦…


今度は生き残った事を恥じる思いで鬱になったり、それでも食って生きなければと、意味の違う躁鬱を繰り返したそうです。



じっちゃんはそんな話を、ホロホロと涙を流しながら伝えてくれた…

触れてはいけない傷に触れたと、私自身も恥じた…


じっちゃんの言葉は、私の中で残り続けています。

「子供が道の雑草すら食料として、手に持つ芋の一本も兵隊に差し出す様な時代は、絶対に繰り返してはいけない。

戦争だけは絶対にダメだ!!

もしお前が生きる時代の中で、国や世間が戦争致し方無しとする時代が来たとしても、お前は絶対に容認してほしくない。

もしお前が戦争を認める時が来たとしたら、本当に開戦をしてしまう時が来たとしたら、その時はお前が最初の一兵として最前線に行け!

他人を死に向かわせる事に容認する者としての、最低限の義務だ!!

そこでどの様な理由があっても、最初に最前線に向かわなかったとしたら、それは人間として最も侵してはいけない卑怯者だ!

そんな卑怯者の生き方だけはしないでくれよ…」


じっちゃんは義理の兄を長崎で、遠縁だが親族を広島で亡くしている…

実の母と姉も東京大空襲で亡くしている。

戦地で亡くなった親族も多いと聞く…

他人よりも想いは強かったのかも知れない。


私自身保護される迄、飢えの恐怖を語る程容易くなく体験している。

だから大人の都合で子供が飢えるなど、何があっても許されない!そう思っている。

それが戦争なら残念過ぎて言葉が無い…