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闘病記つむつむ(23)トンネルに向かって転がるがごとく進む⑨自らでは止まれず深いトンネルに···




新しく越した家は、「ニコイチ」と言いました。

私はその時、初めて聞きました。


そして2階建ての家も初めてでした。


それに小さいけど、お風呂もありました。

ずっと銭湯だったから、私はすごく気に入りました。


けれど母は

「ここはやっぱり、なんか居る😰お母ちゃんは嫌だ」

と言ってました。


実はその家の右隣が、事故物件でした。

階段で人が命を絶ったそうです。

のでお家賃は安かったです。


今まで、母が否やと言えばそれが通るから、私は別の家になるんやなと、思いました。


ですが。

当時住んでた家の大家さんに

「取り壊すから、早く引っ越して」

と言われており。

また。

父のお店の借金とかもあるから、高いお家賃は払えない。


けど少なくとも、寝室が2つ居る···具体的に言うと、母は父と絶対別の部屋が必要だと母は頑なに思ってましたし。


と、まぁ色んな事情が絡み、結局ここを借りる事になりました。


その頃は確か私は中学1年生だったかな···。もしかしたら小学6年の最後の頃だったかもです。

話しが前後してるかもしれません。

この辺は記憶があやふやなのです。



弟は、まだ小学5年かな🤔

まだ、不登校気味でした。


けれど弟の成績は、学校行ってないのにクラスで上の方を維持してました。


が、弟は、どんどん無口になっていました。

そして、暗くなっていきました。


母は、相変わらず、いたるところに弟の事を相談に行ってました。




父は、少しづつ家に帰って来るのが減りましたけど、お金はほとんど家に入れてくれてる···と母が言ってました。


「お父さんおらんで、ほっとするわ」

と母はよく言ってました。


私は、小学校を卒業する直前に、長かった髪をバッサリ切り、ベリーショートにしました。




普通の服着てたら、男の子と間違えられそうでした。


小学校を卒業する機会に、嫌な思い出とかを髪と一緒に、切り捨てたかったんです。


中学は駅の近くにあり、引越した家からは、かなり離れてしまいました。

それでも私は、登下校の間 空想しながら楽しく通っていました。


また、中学は給食がなかったので、母がお弁当を作ってくれたら それを持って。

お金をくれたらパンを買って、お昼にしてました。


中学校は、3つの小学校を合わせて、作られていました。

私達が通っていた 1級河川沿いの 木〇小学校と。

街中の き〇小学校。

駅沿いの 〇い小学校。


なので当時の1学年の生徒数は、ものすごく多かったです。

実は、第2次ベビーブームの子供世代が通っていたましたから、マンモス校になっていました。


私の学年では、12クラスあり。

1クラス、45人越えの生徒数でした。


鉄筋の校舎が足りなくて、運動場を削って2階建てのプレハブが建てられました。


プレハブ校舎は、夏暑くて、冬寒かったです。

 私は2年の時に少し、プレハブ校舎になりました。

夏でした。暑かったです。


ちなみに、広めの音楽室もプレハブ校舎でした。

暑くて寒かったです。


中学になり、私にとってラッキーだったのは、この生徒が多さでした。

私が元いじめられっ子だと知る人が、少ないくなり、変に身構えなくても良くなったからです🤗 


とは言え完全に気を許してると、かつてのいじめっ子達が新たに仲間を作り。私の悪口を伝え、わざわざ  いじめに来るので。周囲を観察する事は続けてました。


それでも、たまに やられてました。


丁度「不良」が多い荒れた時代の幕開けの頃で、タバコとか吸うガタイのでかい男子が、通りすがりに、私の背中を蹴ってきたり。


派手な髪色と、化粧をしたスカート長い女子が、履いてる上履きで、私の後頭部を叩いたりしてきました。


滅多に無いのですが、破壊力が強いから。私は次第に、より詳細に周りを良く見て、危険な奴が居ないか確認するようになりました。


校内では、もっと酷いいじめにあってる子がいたので私は

「嗚呼、学校にあまり残ってたぁないなぁ」と思ってました。

ので、中学1年の初め頃、私は帰宅部でした。


だけど中学1年の半ばに、幼なじみから

「あのさ···コーラス部の助っ人してくれへん?部員足りへんから、臨時で部員を募集してんねん。コンクールに出るねん。コンクール過ぎたら辞めていいから」

と言われました。




私は、歌も好きだったし。

助っ人と言う、カッコイイ響きにも、心が動きました!

そしてコンクール🎶行きたいと思いました❣️


布団亀🐢だった私が助っ人?

いじめに怯える私が助っ人?

学校にあまり居たくないとか思ってたのに、助っ人?

とか思いましたけど。

そんな私を頼ってくれる人なんて、私は居ないと思ってました。

ので、そんな事が起こるとは、私は予測してなかったです。

正直不安もありました。

けど信じてくれた幼なじみの気持ちが 本当に嬉しくて、助っ人やりたいと思いました。


で、母に言うと

「コーラス?あんたが?役に立つんかいな」

と言われました。


それを聞いて、私は黙ってましたが。

内心

『ふん、そんなん言うなら私は、めっちゃ頑張って練習してやるぞ』

と珍しく母に反抗する様な事を、強く思っていました。

そしてコンクール部の 臨時助っ人部員になりました。


部室は、鉄筋校舎の小さい方の音楽室でした。

そこには沢山の生徒が居ました。


やはり「助っ人」と言う、かっこいい響きが効いたんかな?···と私は思いました。


早速発声練習をしました。

そして腹筋運動とマラソン😰←運動苦手(笑)

パート分け。

歌の練習。

をしました。


私はソプラノでした。

幼なじみはアルトでした。

そして彼女は、パート練習の時、ピアノ演奏もしてました。

頭も良く、冷静で理性的な子でした。

昔、彼女に

「私勉強好きやで🎶知らない事を知れるから👍薔舞香さんは嫌なん?」

と聞かれ、おたおたした事がありました。


臨時部員には、確か男子もいて。

テノールとバスに分かれてました。

最も 数は好かなかったですが。


歌は···親知らず子知らずと言う歌でした(多分)


歌の由来は。

昔の東北日本海側の話しからきているそうでした。


父が出稼ぎに行ったまま帰らないので、母と子供が、様子を見に行くのですが。


難所と呼ばれる

「親知らず子知らず峠」

で、母子が嵐にあい、離れ離れになり。

そのまま2人ともはかなくなる···というストーリーでした。


実話を元に作られたと先生は言われてました。


練習はなんと毎日でした‼️


最初は正直辛かったです。

帰って転がりたかったです。

だけど、慣れてきたら、誰よりも早く音楽室に行きました。


もちろん家でも練習しました。


ソプラノだから、頭のてっぺんから出るような声を出してました。


ので、よく母に

「うるさい💢きーきー歌うな!」

と怒られましたけど

「だって練習しなあかんもん」

けど私は、こう言い返し、少し小さめな声で、練習を続けました。


そしてコンクールの予選の日が来ました。

会場は市民会館でした。

学校の体育館より広くて、ドキドキしました。


確か母は、仕事で来れなかったか、来たのか分かりません。


てか、正直 良く覚えていません。

私達は、予選を通過しました。



とても大きな舞台で歌えて、私はすごく嬉しかったです😊


歌うだけでも嬉しかったのに♥️

予選を通過❣️

私は生まれて初めて感じる「達成感」に、酔っていました。


今度は本戦!

頑張るぞ💪

と思っていると、コーラスの顧問の先生が

「本戦は基本、元からいる部員で行きます。助っ人の中で真面目に練習してる人や上手い人を数人選びます」

と言われました。


私は自分は通ると思ってました。

しかし落選しました。


歌が下手だったのか。

又は1日だけ、母に用事を言われ、練習を休んだからか。

どちらか分かりませんが、悔しくて悲しかったです。


それまで私なら、そのままコーラスを辞めてたと思います。

しかし歌うのが楽しかったから、コンクールが終わった後、正式に入部しました。


その内、いじめの事も気にしなくなりました。

ただし勉強は相変わらずダメでした。

あ、体育もダメダメでした🙅‍♂️


それでも最初 私も、英語を頑張ろうと思ってました。

なぜなら「英語」は1年から習うから。

みんな初めてだろうし、丁度担任は英語の先生でしたから。

分からない所は習えると思っていたからです。


が、英語も分からないけど、日本語で説明してる単語も分かりませんでした。


例えば「主語」「述語」とか。

「主語」はかろうじてわかりました。

文章の主になる人やな···と。


けど「述語」って何?

「修飾語(漢字も怪しい😅)」ってなんなん?

と、そのレベルからして分からない💦


なので

「現在進行形」とか

「過去形」とかになってくると、ますます分からない( ̄▽ ̄;)


これってもしかして、英語と言うより、日本語の文のなりたちの事も含まれてるのかな?

私は、そこから分からない。


てか、何処からが英語特有な言葉なんやろ?


えっと···日本語で言うところの「です・ます」はどれやろか?


と、さすが長年、勉強もせず不登校をしてただけはある、己のあほさ加減にうんざりしました。


ここで、分からんままでも丸覚えしたら、何となく分かってきたかもなのですが。


真面目に勉強をしたのが、小学1年の時に少しだけだったので、私は簡単に挫折しました。

古い話しですが、幼稚園から

今でも時々、よく先生やみんなに言われる言葉があります。



大抵学習面でなにか出来なくて、注意を受けてる時···の最後に必ず異口同音に言われました。


例えば、先生方が

「もっと勉強しないとあかんでしょ!  !これからは頑張れる?」

とか言われたら、私は

「はい❣️頑張ります😊」

と大きな声で、答えていました。


けど実際頑張る事はしないので。


口だけやなと先生方にすぐバレます。


そんな時先生方は

「お返事だけは良いねんけどなぁ。本当にわかってるの?」

と。


そう言われました。

先生をガッカリさせてても、私は たいして気にせず、にこにこしてました。


事勉強に至っては、頑張ってもほめてもらえないし。

なにか他の事に、努力しても、母は認めてくれへんので。

物事付いた頃から、怒られたり「あかんなぁ」とか。

弟と比べられ「情けないわ」とか言われて来たので。


私は、頑張る事をやめていました。

そしていつしか


ピエロの仮面をかぶるようになりました。

泣きたい事があっても、寂しくても、周りの期待に沿った表情を作り、必要ならおどけて見せてました。


とは言え


先生方に怒られたくないから、表面は笑顔でハキハキと

「はい❣️頑張ります」

と言う癖がつきました。


まぁ別に自分の為の勉強やから、母に認められなくてもしやなあかんのでしょうけど。


褒められない

けなされる

比べられる


が続くと、やる気なんか出ませんわ。

まぁそんな訳で中学になって

英語を真剣にやろうとしたものの、分からずすぐに挫折。

そして当然、分からない所についても、先生に聞きに行くことは、しませんでした。

なので英語も分からない科目として 増えました。



そんな私が、中学2になった頃、学校に噂がたちました。


「近いうちに、もう1校、中学校ができるんやて」

と言う話しでした。


この時、学生が多すぎて

真面目な子も増えましたが、不良と呼ばれる生徒も増えてました。

同時にいじめをする子達が、不良達をなかまに引き入れるようになりました。


小学生の頃は、まだいじめでも悪口とか 物を隠すぐらいでした。

けど中学生は···。


私の様に頭を叩かれたりする事も多かったですけど、これは軽いいじめで。


酷くなると教室の掃除用具入れに閉じ込められ、上から水をかけられたり。


トイレで無理やりタバコ🚬を吸わされたり。


殴る蹴るを、集団でされたり。


とにかく体に対する危害が多くなっていました。


この頃かな。

テレビで

「金八先生」が放送されたのは。


これは、私の通うところだけ、そのいじめや不良と呼ばれる人達の     問題が増えたのではなく、全国的に増えた為、啓発の為に作られたドラマだったのかなぁ🤔と今考えたら思います。


テレビのいじめ場面を、リアルな中学校で試そうとする不良達が、私は怖かったですけど。


もちろん先生方は、マメに仲裁   に入ってはりましたが。

中学生には、あんまり効かないんですよね。


いわゆる反抗期、成長期だからです。

言い訳も、たくみだし。

体が大きいから力も強くて、女の先生とかだと、対処しきれない様子でした。

注意しても、きいてくれる事はなさそうでした。


休み時間事に、不良達はトイレにたまり、タバコを吸っていました。

 

トイレ使うのも、そっと行かないとと

「何見てんねん!あんた私らに文句あんのかぁ?ゴラァ!」

とからんでくるので、めんどくさかったです。


心の中で

『からみたい訳ないやん!寄りたぁないけど、トイレ行きたいからしゃーないやん』

と思ってました。


トイレからは、休み時間になると

「火事ですか?」

と言うぐらいの煙が出てて。

先生達が慌てて見に行くと、タバコだった···というのが、ほぼ毎日の事でした。




大抵の先生が手を焼く中、細くて小さな先生だけど、妙に不良の生徒から慕われてて。

その先生の言葉は、すんなり効くと言うこともありました。


なんでかな?とか思ってました。


その頃は分からなかったけど、今振り返ると。

その先生は、話しをきいてくださる先生だったんですよね。



一方、頭ごなしに生徒達を叱る先生は、無視や反撃されてました。


「なんでこうなったんや?」

と穏やかにきいてくれる「リアル・金八先生」は、本当にありがたかったです。


ガーガー怒鳴るだけの先生とは、全く違いました。

又、内心生徒を怖がってる先生とかの話しも、不良を含めた生徒達は、 聞かなかったと思います。

生徒の方が敏感に嗅ぎ分けてました。


やはり「話しをきいて、話してる相手の事を考えて、言葉を伝えてこられる先生」

は、信頼出来て、相談とかも出来るので、不良達達だけでなく、広く生徒に好かれていました。


とは言え、暴れる生徒が多いから、常にその先生が話してくれる訳ではなく。


大抵は怒号が飛び交う校内でした。

また、運動場にプレハブ校舎立てなあかん程、生徒が多いから。

生徒達がイラつく事も、多かったと思います。



何事にも許容人数はあると思うのです。

当時のこの中学校は、完全に生徒数が許容範囲を超えてたと思います。


この状態の中学校を見て、教育委員会とかが、もう1校 新設しないとあかんなと、思われたでしょう。



私はと言うと、コーラスやりながら、漫画やイラストとか描いてました。

あまり新しい中学の話しを気にする事はなかったです。


私は、同じクラスには友達出来なかったけど、クラブや、友達の友達つながりで仲が良くなり、一緒に帰ったりしてました。


この頃まで、私は「なかよし(漫画雑誌)」を買ってよく読んでました。


けど仲良くなった子が

「花とゆめ」とか「プリンセス」と言う、「なかよし」よりは大人の週間・月刊漫画雑誌を貸してくれました。


ハマりましたね(笑)


その頃から私は母に

「お昼パンが良い」

と言ってお金をもらう様になりました。


そしてパンは1つだけ買って、残りは貯めました。

貯まったら、漫画の本を買いました。



けどお金のない時(かな?)母はお弁当を作ってくれました。


その時は夏日だったかなぁ。暑かったです。私は確か中学2年生でした。


ご飯の時間にお弁当を開けたら、なんと焼肉が入ってました。


「わぁ焼肉やぁヽ(´▽`)/いただきます」

と喜んで完食しました。


で、6時間目の中頃。


私は、なんか変になりました。

お腹が痛いし、むかむかしました。

それがどんどん酷くなるのです。

冷や汗がダラダラ出ました。

途中でトイレ行こうかと、何回も思いましたけど。


みんなの前で「トイレ行きたい」と恥ずかしくて言えなかったんです。


何とか授業が済むまで、我慢してました。


終わった頃には痛みと吐き気が、まぜこぜになって、歩くのもやっとでした。


私は「これって変だぁ」

と思い、汚いけど古くて人が来ないトイレに向かいました。

途中保健室があったので、ビニール袋をもらいに寄りました。


先生は顔を見るなり、調子悪い事のねと言ってくれました。


そしてビニール袋をくれました。


トイレに着いた途端、私は上からは吐き、下からは下痢をしました。

どちらも激しいのに、痛みはおさまらなかったのです。

この時代は、和式しかないので。

体の力が抜けそうになりながら

『汚いトイレで倒れたくない』

と思い、何とか踏ん張っていました。


時間にしてどのぐらいか分かりませんが、下痢、嘔吐共におさまりかけた時に、私は保健室に戻りました。

手にしっかり吐いたものを入れたビニール袋を持って。


私は病弱で、昔からよく嘔吐してました。

その時に医師が

「吐いたもの持ってきてね」

と母に話してるのを何回も聞きました。


ので嘔吐したら、原因を知るには現物を持っていくのが1番手っ取り早いと学びました。


手に茶色いものが入ったビニール袋を持つ、へろへろの私を見て、保健の先生は

「これはあかんわ!病院行きましょ!」

と言われました。 

 

私は頷くことしか出来ませんでした。

まさに「人間お化け」と化してました。

白い肌···と言うより、青白く透けてるような顔色になってましたから。


私の様子を見た 担任の先生は

「私も病院に付き添います」

と言われました。


もちろん行く前には、母にも連絡されてました。


母から「かかりつけ医」の事を聞いた先生は、手早く受診の準備をされてるようでした。


私はベットでは、お腹が痛くなった時間に合わないから、ベンチにべたーと上半身横たえていました。


お腹の痛みより、吐き気が続いていて。

ビニール袋に何回も吐いてました。


母が来るのが遅いと判断しと担任の先生は

「先に私達で病院に行きましょう」

と言われました。


保健の先生と担任の先生が、私の左右に付いて、腕を支えてくれました。

そしてかかりつけ医に車で行きました。


病院の先生は、私の持ってるビニール袋を見た瞬間

「あー食中毒やね。入院ね。絶飲食3日ね。栄養は点滴から栄養取るよ。はい持続点滴ね」

とあっさり言われました。

『げっ持続点滴💉このくそ暑い時に、また入院?うわぁ嫌だぁ。喉乾いたよぉー』

と思ってました。


入院が決まると、いつもするルーティンの検査(採血・採尿・体重測定・各種必要な検査・検体の検査=吐いたものの確認等)を受けました。

そして採血の時に、持続用の点滴を刺されました。


一連の事が終わった頃、やっと母が来ました。

病院の先生に「食中毒」と聞かされ、母は私見て 笑いました。


「アハハハハハハハ、あんたあほやなぁ。あのお弁当全部食べたん!

今朝お弁当作ってたら、隙間が出来てな。

それ埋めるために、古い焼肉入れたんやん。

古いからにおいでわかると思ったんやけど、全部食べたん?

あほやなぁ!アハハハハハハハ」



保健の先生と、担任の先生と、病院の先生と看護婦さん(昭和当時の呼び名)達は、一斉に黙りました。


そして母の方を、複雑な表情で見てました。

そんな中私は

『先生方、これは母のいつものパターンですよぉ。驚かないで下さいね〜(* ‐ ω ‐ )ハァ

てかさ、私食べ盛りやのに、焼肉やったら食べるに決まってるやん!においの変化なんか分からへんわ!やられた』

と脱力してました。


この時の母に、悪気はなかったと思います。

まぁ出来たら、一言「これは危ないから食べるな」と言ってて欲しかったですが。


私が食中毒から回復した頃

「新しい中学校が建設される」のは本決まりで。既に工事が進められていると、噂になってました。


そして私が中学3年の初め頃···多分5月頃な。

新しい中学が開校されました。


ちなみに、私と学年では2学年違う弟が、中学1年で入学してきて。

その1学期の終盤には、引越ししていたと思います。

新しい中学に入るのは、中1の生徒で。

特に

小〇小学校の生徒 全員

〇た小学校の生徒半分

とに決まりました。


移動時期は2学期から···と決まりました。

私と弟は、小〇小学校でした。

つまり、弟が新しい中学に行く事になりました。


弟は小学6年の頃には、時々学校に行ける様になってたぐらいでした。正直まだ休みがちでした。

勉強は少し落ちましたが、まだまだ賢かったです。

だけど···暗い顔をしてました。


それでも中学になると、私と同じでいじめっ子の存在が薄くなりました。

中学校が3つの小学校が合併して出来ていたから、同じ小学校の生徒と離れられる確率が高かったのです。


実際私は、それで助かりました。


このまま、生徒いっぱいの学校に通っていたら、弟の中学ライフも良い方にいったと思います。


が、新しい中学の開校。

これが弟にとっては、最悪の出来事になったと思います。


新しい中学校は

弟をいじめた生徒達がいる〇屋小学校全部と

隣の〇た小学校の半数の生徒···これは。


ぶっちゃけると、いじめっ子と弟が、再度対面しなあかんと言う事態になってしまったのです。


私は新しい中学には行って無いので、憶測ですが。


弟は、またいじめが始まったのだと、後に母から聞きました。

そして、中学生のいじめの内容も、どんどんエスカレートしているようでした。


弟も、小学校より強くて 陰湿ないじめに合ったと思うのです。


途端に学校へ行かなくなりました。


それだけでなく、何故か髪の色を黄色く染めたり。

パーマあてたりし始めました。


見た目不良っぽくなりましたが、不良の仲間になった訳ではなく。


どちらかと言えば、家に閉じこもりました。


当時、いわく付きのニコイチに引越し。

寝室は2階のベランダ側6畳に母と私。

ふすまには簡単な鍵をかけたのと。

私が出入口の方に寝るよう言われたのも変わらずでした。


そしてふすまの隣の4.5畳が、父と弟の部屋となりました。


弟も父を嫌い、顔を見たくないからと、部屋の中央の天井にカーテンレールをつけてました。


弟はいつしか、カーテンを1日中広げてました。

そこに、かつて私が籠ったように、こもりました。


私と違ったのは、家族に対する攻撃的な態度があったと言う点でした。



ある時私が2階に上がろうとした時、弟が先に階段を上りはじめました。

私はあんまり気にせず、数段開けて弟の後から階段を上りました。


そして2階の部屋の入口(木戸 )を通ろうとした時、弟は私の目をギロッと睨みつけ

勢い良く木戸を閉めました。


私は手を挟まれそうになりました。慌てて手を引いて避けましたけど、咄嗟にバランスを崩して、階段から落ちそうになりました。

とても怖かったですし、腹も立ちました。


でも弟と喧嘩したら···殺されそうな気がして、私はスルーする事にしました。


私が木戸を開けて部屋に入っても、カーテンの向こうからなんの音もしませんでした。


この1枚の布の向こうで、弟は何を考えていたのでしょう。


その時は全く分かりませんでした。


けど。後に弟から言われた事があります。


「薔舞香さんな、銭湯行った時、お父ちゃんに「下着持ってきて欲しいねん」って電話したの覚えてはる?アレな、僕が持って行かされてんで。男たるもの女の下着なんか持って行けるか!って。

僕も嫌やから、嫌って言うたらげんこつされたんや。

薔舞香さんのせいやで。 

そんな事あってから、僕は余計にお父ちゃんが嫌いになったんや!」

と言われました。


その時だけでなく、後2、3回程 リピートされました。

まぁ私もそうですが、同じ話しを何回もするのは、きっと母から受け継いだ話し方だと思います。


何回も言う内容程、お願い!分かって!分かって欲しいねん!と言う事やったりします。


私は、銭湯に行って、下着がないと分かると、いつもは我慢してはかずに帰りましたが。


大きくなるとそれが嫌で。

私は店をしていた父に電話しました。

電話はその時だけです。


その日は下着をつけて帰れましたけど、そのしわ寄せが弟に行ったんや。

げんこつ食らったり、嫌々銭湯に下着を届けてくれた事を聞いて、私は複雑な気持ちになりました。


弟···髪染めたりするようになったのって、私のせいやのかな···。


お父ちゃんと仲悪くなったきっかけやのかな?

もしそうなら、2階の木戸をバタンッって閉めた時、弟から感じた殺意は本物やな。

とか思ってました。


私はこの事を弟には言った事がありません。


弟も、詳しい事は 私には話してくれた事が無いです。


この「木戸をバタンッって閉める」行動は、まだ優しい行動だったと後で分かります。


弟は、新しい中学校に、休みがちながら通っていました。

靴下にカッターナイフを忍ばせて。


そして風紀の先生がなんと言おうと、髪は金髪に染めてパートをかけ、長髪にしていきました。


そして学校の途中から帰宅してくる事も多くなりました。


勉強は、この時から伸び悩んで居たようです。


母は又、大慌てする様になりました。

学校の先生方

教育委員会の先生

お寺さん

精神科病院

カウンセラー


占い師🔮

いたる所に相談しにいきました。


嫌がる弟を連れて行った事までありました。


弟が後に

「お母ちゃんが

『〇ちゃんがこうなったんは、ご先祖さまのだれそれさんが乗り移っておられるからやねんで。だからお母ちゃん、お寺でご祈祷してもろてん。そしたら〇ちゃん少しマシになった』

とか言うけど。

それって原因は全部ご先祖さまのせいやん。

そういう事もあるやろけど、お母ちゃん本人は、なんも悪ないの?と聞きたくなるんや」

と言いました。


弟も私も、確かまだ10代の時でした。

母を一番大切にしてる弟が、後にも先にも数回だけ話した母への不満でした。



とは言え、当時の母も苦悩の日々でした。

それは、相談先で、似たような事を言われ、責められたからでした。


「お母さん。〇〇君は今、思春期を迎えてるんですよ。なのでイライラしてるのです。

ただ普通と違って〇〇君は、幼い頃からためられたストレスが、一気に吹き出してる状態です。

〇〇君は頭の良い子だったから、お姉さんが病気になり、あなたが付き添う事も、仕方ないと無理して聞き分けてたんですよ。


母親を姉に取られたと感じながら、それを言ったらあなたが苦しむと思って、我慢してたんです。

まだ愛情をもらわなあかん頃からずっとです。

〇〇君は何とかしてあなたを振り返らせようとしてました。

そしてある時

『勉強したら、お母ちゃんが喜ぶ❣️だから頑張って勉強しよう!』

と気がついたんです。

それで、今まで努力してきたんです。


しかし中学に入り、賢い子がほかの小学校から集まって来て、勉強しても思い通りの結果が出なくなった。

しかもいじめも又、酷くなった。

新しい中学で、その傾向が強くなり、〇〇君の逃げ口がなくなった。

〇〇君は疲れてしまったんですよ。

なのに

又、父親との関係性も良くなくて、相談出来ない。

お母さんには心配させるから言えない。と言うか、お母さんに振り向いて欲しくて勉強とか頑張ってないと、構ってもらえない。


〇〇君はもっとお母さんの愛情が欲しかったんですよ。

〇〇君が今、こうなってるのは思春期だからですけど。

それだけではなくて、幼い頃からの積み重ねも大きい。

お母さんがもっと〇〇君のありのままを受け止めて、愛情をかけてあげないとあかんかったんです。


これは今からでも遅くないので、〇〇君の話しをちゃんときいてあげて下さい。

又、お父さんとの関係には注意が必要ですよ。危ないと感じたら、別に住む事も考えておかないといけませんよ」

と言われました。


又、思春期の子供の入院病棟のあるN精神科病院の先生には

「これは病気ではないですね。入院させたら余計酷くなるでしょう。

もっと〇〇君に愛情をかけてあげないといけません。

賢い子だから、周りの人の気持ちも全部読んでしまい、周りが望むように生きて来てるので。あるがままを受け止めてあげないとダメです。

それでも良かったら、入院させますか?」

と言われました。


今度は母の顔が暗くなる番でした。

「私が悪い···。ちゃんと〇ちゃんを見てあげてへんかったから あかんかってんや。

そやけどお母ちゃんも精一杯やってんで。

お金ないし。

お父さんは儲け薄いし。

お店の時は借金までしたし。

まだ返せてないし。

それに。

〇ちゃんを可愛がりたかったけど、薔舞香が病気ばっかりしたから、〇ちゃんのそばにおれんかった!

こんなんなったん薔舞香、あんたのせいや!


嗚呼、そやけど、

先生とかはそう言うけどな。

今の〇ちゃんを、愛情かけて!と言われても、お母ちゃんどうしてええか分からへんねん。

だいたい、こんな事するのは〇ちゃんじゃない思うねん!

きっとご先祖さまの中に浮かばれない方がまだ居てはって、〇ちゃんに取り憑いてるんや。

お母ちゃんにはわかるんや‼️

あの子の目を見たら分かんねん。

あれは憑依されてる目ぇや!

それに。

〇ちゃんだって言うてたもん。

『目が覚めたら、湖の上に寝てて。起きられへんかってん。

そしたら髪の長い女の人が来て、僕の上に寝るねん。

寒かったし、怖かった。何とか動けた時は汗だくになってた』

って。

湖に入って亡くなった人いてるって、田舎の母屋の姉ちゃんに教えてもろた事あんねん。きっとその人が浮かばれてへんねんや。

今度京都のお寺で、占い🔮もしてはる所があるから。

〇ちゃん連れて行ってくる」

と、話しが膨らんで、何を言いたいのか分からない感じで、私に吐き出す様に話していました。


私は黙ってききながら

『病気ばっかりして、〇ちゃんからお母ちゃん取ったから、〇ちゃんこうなったの?あんなにお母ちゃんに甘やかしてもらってたのに?

私怒られてばっかりやったのに?

お母ちゃんに可愛がれれる〇ちゃんを、私はずっと羨ましかった。

けど〇ちゃんからしたら 私が羨ましかったんや。けど、正直代われるものなら代わって上げたかったわ。

それに〇ちゃんなら、勉強出来なくてもお母ちゃんは、〇ちゃんを可愛がったはずや。だってお気に入りの大切な子やったもん』

と思いましたが、もちろん言えませんでしたけど。


母が至る所で、先生と呼ばれる人の話しを聞く度、

弟は暗く変化していきました。

いつしか「異物・劇薬」を口にする様になりました。


弟は自ら死のうと試み始めたのでした。

何を飲んだか分かりません。

けど、最近聞いたところによると

「水銀体温計20本分を飲んだ」

と教えてくれました。


何十年も経った今、初めて教えてくれました。

「水銀」って今は手に入りにくいですが。

当時は薬局に行って「体温計」を買えば、容易に手に入れれました。


とは言え1つの店で、沢山体温計を購入出来ないと思います。

体温計なんて一家に一本あればいいものなので。

弟は20本集めるのに、自転車でどれだけ走り回ったのでしょう。


それと同時に、虫下しとか、トイレ用の害虫用消毒薬とかも、買い集めたてみたいです。


そして、シンナーも吸うようになりました。


生活は昼夜逆転しました。


そのせいで、大嫌いな父と顔を合わせる事になりました。


父はその頃、市内のうどん屋さんに働きに行ってました。


ので、毎日帰っては来ませんでした。


不定期に帰ってきてる感じでしたが。

深夜に帰り、早朝に職場に行く生活パターンでした。


ので、私のように昼間起きて、夜寝る場合、ほとんど会わない事が続きました。


けど弟は深夜に起きて、ラジオとか聞いてました。


または夜にシンナーを吸ったりしてました。


その真っ最中に、父が帰ってきた事が、何回かあったそうです。


カーテンだけで仕切った部屋なので、においや音とか筒抜けです。


そのはずやのに。


父は、弟がシンナーを吸っていても止めなかったそうです。


なんでなのかは、分かりませんでした。


母が父に詰問してましたが、父は沈黙してました。


母は

「お父さんは、私らの事に興味がないねん!子供の事は、お母ちゃんに任せっきり。昔と全然変わらへん!

薔舞香が調子悪なっても、病院連れてくのは私や。

救急車で遠くの病院に連れてかれて、あんた抱えて歩いて帰って来ても、高いびきで寝てるし。

〇ちゃんのことだって、私のせいでだけでなく、お父さんのせいでもあるって先生言ってはった。

同じ部屋で子供がシンナー吸ってるのに、なんで止めへんの❓お母ちゃんにはわからんわ」

と最高速度のマシンガントークで、私にぶちまけました。


私は母が可哀想で、父は悪い人だと思いました。


父と会う機会がほぼ無いから、父の考えが分からなかったのです。

なので母が言うように、父が悪いと鵜呑みにしてました。

本当なら父に

「なんで〇ちゃんがシンナー吸ってるのに止めへんの?」

と聞きたかった。ですが聞けずじまいになりました。


口数少ない父。

話す機会の少ない父について、私が知っていたのは、母から聞いた話しでした。


父は生まれてまもなく両親が亡くなり。

双子のお兄さんと別々に、親類の家に養子として出されたそうです。


けどどこも余裕が無かったのか?たらい回しにされ。

父は15歳で、1人都会に出てきたそうです。


そこで少しヤ〇ザのなかまに入ったらしいんです。


母と結婚する前に抜けたそうですが。


母と結婚し、子供が生まれた時、母がご近所のヤ〇ザの女将さんに、洗濯物干しの仕方で、喧嘩になったそうです。

母は昔からこだわりが強くて、ご近所の人が布団を干して、叩き出すと、一気に機嫌が悪くなりました。

それが自分が洗濯物を干した直後なら 尚悪くなりました。

母いわく

「せっかく綺麗なの干したとこやのに、ホコリが付くやん💢親の首取ったように叩きやがって!迷惑やわ!お母ちゃんが干すん見てから、わざと布団叩いてるのかな💢洗い直さなあかんわ💢」

と言う理由からでした。


この言葉は何万回も聞いたので、今の私も

ご近所から布団叩きの音が聞こえると、嫌な気待ちになります。


ので、私はいつしか室内にしか洗濯物を干さなくなりました。


洗い直したくなるからです。

時間と電気と水と洗剤の無駄ですもんね。


部屋干しなら、布団叩かれてもホコリはつかないし。

イライラしなくてすみますから。


話し戻して。

母がヤ〇ザの女将さんと喧嘩して夜、ヤ〇ザの兄さんが帰ってきて、女将さんから話しを聞いたようで。


私の家に兄さんが怒鳴り込んできて、父をボコボコにしたそうです。

父は母に

「お寺に子供ら連れて行け。泊めてもらえ」

とだけ言って、怒り狂うヤ〇ザの兄さんの前に行き、何も言わず殴られ続けていたそうです。


母は驚き怖がりながら、私弟を連れてお寺まで逃げたそうです。


逃げたお寺で

「お父さんなんも反論しないし。反撃もしないんですよ。たよんないわ」

と言ってたそうです。

けど自分が悪かったとは一言も言わなかったようです。

3日後、父がお寺に迎えに来て帰る事になったそうです。


帰るとご近所の人がわらわらと寄ってきて

「大変やったね」

とねぎらってくれたそうです。


その時にご近所の人から

「そやけどお宅のお父さんはすごいね。相手がヤ〇ザで、兄弟子に当たるから。何されても、一言も反論しぃひんかった。殴ることもしなかった。我慢強いね。最後の方なんか、嫁の言われるがまま怒鳴り込んできたヤ〇ザの兄さんの方が、人間的に器が小さいとみなされてな。すごすご帰って行ったんやで。どうやら引っ越すらしいわ。恥ずかしいんやろなぁ。いやぁ、あんたのお父さんは強いなぁ」

と何人もの人の言われたそうでした。

この話しも 私は母から小さい頃に聞きました。


ヤ〇ザの世界では、オラオラと手を出す人より、グッと我慢する人の方が器がでかいとか言われるのかな?

だとすると、父は。


もしかしたら弟がシンナー吸った事なんて、良くあることだったのかもしれない。


シンナーも危ないけど。


ここからは推測なので、合ってるか分かりませんが。

父からしたら、シンナーは自分も吸った事あるし(仮定ですが)。

大したことないとか思ってたのかな?


それより

水銀とか 睡眠薬とか 虫下しや ボットントイレ用の殺虫剤とかを飲んだり。ビルから飛び降りようとする事の方が、心配で。

すぐ止めなあかん事柄だったのかもしれないな。


父もどうやら母と同じで、普通に育ってないようなので、判断基準が、今思うとズレてたと感じてます。


例として、父は無免許で仕事の時車を乗り回ったりしてたり。

「男たるものこうあるべき道」が、語られないけど根強くあり。

私の「銭湯に下着忘れた事件」の時とか。

その他の時でも、私にはあまり怒らないのに、弟にはげんこつとか落としたり、怒ったりしていた。

弟は男子だから、父の「男たるもの論」にそった、言葉とか態度を取ってたのかもしれない。

つまり「男は自分のした事に責任持たなあかん。だから甘やかさない。自分で立ち直れ」的な感じやったのかも···とか私は今では思ってます。


それに、もしかしたら若い時、物とったりした事とかもある感じの人やったから(かなり偏見💦)

もしかしたら、善悪の振り幅が、一般の人より大きかったのかもしれません。


これは今、私が思う事です。

けど子供の頃は、母の言いなりだったので。

私は、父が極悪非道に見えました。


父については後に書くことになりますけど。

本当に知らない事ばかりなのです。


この「カーテンの向こうでシンナー吸ってるのに止めなかった事件」は、弟からしても、強く心傷が残ってしまったのかもしれません。


益々喋らない所か。

母がふっと気づくと、弟が父に刃物を向けてるような場面を見たと、私に言う様になりました。

母は

これはまじで危ない⚠️と思っていたそうです。

私は

「夜お父ちゃん帰ってくる時には、お母ちゃんグーグー寝てるのに。いつ刃物持ってる〇ちゃんを見たんやろ」

とぼそっともらしてしまいました。


すると母は

「ん?あれ?」

とマシンガントークが止まりました。

そして少し考え

「そうや、夢や夢!夢見たんや!夢やけど正夢やで、きっと!」

と言い直しました。

私は『そうか···』と納得しました。


私もおかしかったのですが。

母が夢で見た事を、実際起こるかもとして騒いでも

『そうかもな』

と丸呑みにしてしまう程、私の中で母の影響は大きかったのです。


弟程では無いですが、母の「霊感や第六感は、必ず当たる」と私も信じさせられてました。

私も弟も、母の話しは「絶対的に正しい」物として植え付けられてました。


母は

「何も悪い事が起こらんかったらええのになぁ。あの時から変わったんや···〇ちゃん。ドッペルゲンガー見た時から。それまでいい子やったのに」

と言いました。

私は複雑な気持ちで話しを聞いてました。


先に書きましたが、弟が言った通り

『お母ちゃんは他のものや人のせいにするけど。自分のせいにはしないの?』

と言う想いに近い考えが、私の心にも浮かんでました。


また私の場合、自分が病弱で、入退院繰り返すから、〇ちゃんは寂しくて。

無理してお母ちゃんの気を引こうとした。

私が悪いの?

とか思っていたので、居心地悪く感じてました。


そんな中、私の「十三参り」が行われました。


七五三の延長線にある、女の子だけのお参り

「十三参り」

やる事は着物着て、髪を結い、薄化粧してもらって、お寺さんのお祈りをしてもらうと言う事でした。


この日弟は、真っ白なコートを着て、髪を薄い茶色いに染め、コンタクトしてたかな、すごく綺麗な格好をしてました。


いつの間にかどの家族より背が高くなり。スレンダーでした。


そして大きな目は、憂いをおびつつ、時々キラッと斬れるような強い光を放っていました。


私がお寺さんの境内で記念写真を撮ってもらっていると。


たまたま参拝に来はったおじさんに言われました

「わぁ 綺麗やね❣️あれでもなんでお姉さんは着物着ないの?」

と。


私は言われて

「?????」

と思いました。


お姉さんって···私が姉やし。私着物着てるし。

え?どういうことや?


あ、もしかして私妹と思われてる?

てか弟、女の子と思われてる?

あれ?


私はしばらく混乱してましたけど。

要は、おじさん2つ間違ってはるんやな。


弟が私の姉だと間違ってはる。

弟の性別を間違ってはる。


私はそう結論付けると、何とか落ち着いてきました。


おじさんには

「あははははは」

とだけ答えて、弟をちらっと見ました👀


怒ってへんかな?


弟は無言で立ち去って行きました。


その後ろ姿は、明菜ちゃんみたいでした。

そりゃ女の子と間違えられるわなぁ。綺麗やしなぁ。

良いなぁ、羨ましい🥺

と私は思いました。


この頃弟は母や私と、ほとんど話しはしなくなっていました。

父は元々あまり話しませんでした。

そして自殺未遂を繰り返していました。学校も行けてなかったです。


そんな中1度だけ、弟から私に話しかけて来る事がありました。


とてもデリケートな話しでした。


弟はその事で悩んでいました。


私は話しをきいて、うーんと考えました。


けどどう考えても、私は弟がおかしいとは思えなくて。

てかその悩みで自分をおいつめ、薬飲んだりしてるようなので。

益々うーんとなりました。


私な弟に

「別にそういう事あっても、良いんとちがうかな。死を考えるほど悩んで出た答えなら。てかたまたまそう言う答えになったとしてもさ。生きてたらそれでええんちゃうのん。

けど。その答えは、正直切ないなぁ。

だって想いが通る事少なそうやもん。

それでもいつわりない心からの答えなら、それでええやん。自ら死のうとされるより、どんな感じでも生きててくれたら私は嬉しいわ。お母ちゃんもそうやと思うで」

と答えました。


ぶっちゃけ、未遂繰り返したり、自分傷つけたりを繰り返すより。

悩む抜いて出した答えの通り生きたいなら

堂々と生きて欲しいと思ったので、そう伝えました。


弟は···昔のように優しい声で話してました。

私は弟から

『心の中で燻ってた事を言って、受け止められた感』

を感じました。


私は

『根が真面目やから、ほんまに悩んだんやな。お母ちゃんとかには私からは言わへんけど。お母ちゃんなら、多分どんな〇ちゃんでも生きててくれた方が良いって言うと思うわ』

と思いました。


私は、姿とか変わっても、元の穏やかな弟に戻るかな···と思ってました。


それは甘い考えでした。

 それは突然起こりました。


私が2階で漫画を読んでると、なんかガタガタ言う物音と

怒鳴り合う声が、1階から聞こえてきました。

私は恐る恐る下に降りて、1階の和室を見ました。


するとすごい形相の父が、弟の奥襟をとり、弟にまたがって怒っていました。

「え?」

私は訳が分からず立ち尽くしました。

父は私と同じぐらいの背丈で、とても細かったので。

背が高くなった弟を組み敷いてるのが 不思議でした。

てかなんでこんな状況に突然なってんの?と思いました。


私が考えてると、左横から母の金切り声がしました。

「お父さん!やめてーや!〇ちゃん離して!」

母は半泣きでした。


弟は首を絞められた形になっているからか、唸り声しかあげられずにいました。


父は低い声で

「親にあんなん言うたらあかん!」

とだけ言って、しばらく弟を押さえつけた後、すっと立ち上がり、家を出て行きました。


母にも私にも何も言わなかった父。

弟は苦しそうに咳をしてました。

母は弟のそばに寄りました。

私はまだ立ち尽くしてました。


母が弟に

「大丈夫か?」

と声をかけた途端、弟は立ち上がり大声を上げました。


そして近くにあった傘で、部屋中破壊し始めました。ガラスや置物、ふすまやちゃぶ台など、叩いて叩いて壊しまくりました。

母は必死に止めてました。

けど弟は止まらず。

(けど私達には手を出さず)


部屋がボロボロになった所、着の身着のままで飛び出して行きました。


途端に静かになる部屋。


外でご近所さんが、わらわら覗きに来てるのが分かるほど、静かでした。


私はすとんっと座り、突然、何もかも嫌になりました。


こんな人生いらんわ。


そう思い、気がついたら台所の包丁を持ってました。

これでお腹刺したら、ここから逃れらる?

そう思って包丁をお腹に刺そうとしました。


けど母が。

「薔舞香までそんなんやめてぇぇぇぇぇぇぇ‼️」

と叫びました。

私はゆっくり振り返ると

「やめてぇやぁ〜」

と泣いてる母がいました。

私は包丁をそっとなおしました。

そして母の傍に行きました。


母は小さくなりながら、泣いてました。

私は母に何があったのかききました。


母は

「最初はようわからん。確かお父さんが帰ってきて、〇ちゃんに声掛けたんや。

いや違う。〇ちゃんが声掛けたん···いやわからん。とにかくどっちかが声掛けて。

そしたら〇ちゃんがお父さんに向かって

『なんやねん!おっさん!』

って言うたんや。

そしたらお父さんの顔色が赤くなって、〇ちゃんと取っ組み合いの喧嘩になったんや。

体格は〇ちゃんのがでかいけど、お父さんは元ヤ〇ザやから。

簡単に〇ちゃんの奥襟取って締めたんや。

ほんで馬乗りになってん。

お母ちゃんやめて欲しかったから、必死に止めてん!

〇ちゃんがあんな事言うなんて。あんな子やなかったのに。

お父さんもお父さんや!普段なんもしてくれへん癖に‼️

〇ちゃんがシンナー吸ってても止めたり怒ったりせぇへんのに‼️

おっさん言われた位で首締めるなんて‼️最低や‼️

〇ちゃんどこに行ったんやぁ‼️

死んだらどうしょう‼️

だいたい‼️

〇ちゃんを小さい時から見てあげなあかんかったのに、見てあげられへんかったのがあかんねん💦

あんたがが。

あんたがな‼️病弱やったんが全部あかんねん‼️

お母ちゃんはほんまは子供1人で良かってん。けどあんたが1ヶ月の時に死にかけたから。

お寺の人が

『もう1人作っとき。この子はあかんで。いつ死ぬか分からへん。もう1人産んどき』

って言わはったから、お母ちゃんは〇ちゃん産んだんや。

そなのにあんた死なへんやん!

生きてるやん!

なんで死なへんの‼️

病気ばっかりして、お金も時間も取って、のうのうと生きてるやん‼️

そのせいで〇ちゃんは辛い想いいをしたんや‼️

あんたが死んだら良かったんや‼️

あんたなんか産まんかったら良かった‼️

そしたらお父さんと別れられてんやん‼️

こんな事も起こらんかってんやん‼️

あんたが死ねば良かったんやぁぁぁぁぁぁぁ‼️」

母は最初は呆然と。そのうち怒りが湧いてきて 強い口調になり。

はけ口が私しか無いから私に向かって怒鳴り。

そして溜まっていた物を吐き出す様に

「お前が死ねば良かったんやぁぁぁぁ」

と叫んで泣きました。


私は

『それやったら、さっきそのまま止めんとってくれたら良かったのに』

と思いつつ。


やっぱり私が悪いんや。

この家で1番悪いのは、私なんや。

なんで死なへんかったんやろ。



弟を追い詰めたのも私や。


私は


私はつぐなっていかなあかんねや


と思いました。


部屋中物の破片が飛び散り、動くと怪我しそうでしたが

私はゆっくり動いて片付け始めました。


私を罵ってた母も、私がなんの反論もせず、片付けてるのを見て、冷静になったようでした。


母は片付けより先に、警察電話してました。


「息子が暴れて、家出しました。探して下さい」

とかすれた声で言ってました。


ガラスの割れた所に、ダンボールを当ててガムテで止めてる時には、弟の所在が判明しました。


高野山をふらふら歩いていたそうです。


旅館の人が、様子がおかしいと思い声をかけて下さったんです。


話しはあまりしてないようですが、旅館の方は1日保護しますと言って下さったようです。


母は安心して、明日迎えに行くと約束してました。


私は遠くでこのやり取りを聞いてました。


「お前が死んだら良かったのに‼️生きてるやん‼️なんで死なへんの‼️」

と言う言葉が、何度も脳裏に浮かびました。


つぐないをしないといけない。

私は死ななあかんかったんやから。

私のせいでみんな苦しんだんやから。


どうやってつぐなう?


自殺は···なんか知らんけどお母ちゃんが止める。


自殺はあかんのか?


どうやってつぐなう?



私はずっとそんな事を考えてました。


そして思いつきました。


お母ちゃんは···自慢出来る子供が欲しいんや。

みんなにほめられる子供が欲しいんや。

それと同時に、あかん子も欲しいんや。


お母ちゃんが、沢山苦労してるのを、周りに認めて欲しいから。


けど〇ちゃんは今は、頑張りすぎて、お母ちゃんの求めるいい子になれへん。


〇ちゃんは休憩しなあかんねんや。


不登校の時と同じや。


〇ちゃんがギブアップした時は、私が頑張らなあかんねんや。


私が今度は頑張って、お母ちゃんの求めるいい子にならなあかんねや。


それが生き延びてしまった私のつぐないのとり方や。


今から高校受験の勉強しよう。


と。理論整然なのか、曲がってるのか、自分でも全く分からないまま。私はそう思いました。


本当は弟の様に不満をその時吐き出したかった。

私だって怒ってるんやと言いたかった。


けど弟と母が

先に吐き出した。


母は

「あんたまでやめて‼️」

と私を止めた。


この一言で私の思春期の扉は閉ざされました。


その代わり

「自分が諸悪の根源だから、つぐないをしないと」

と言う訳分からん決意をしました。


弟は翌日、方向音痴の母に連れられ、無事帰宅しました。


帰宅前に母は

弟をこの家に置いてたら、また父とぶつかり、今度は刃傷沙汰になると判断して、弟を一人暮らしさせました。


私は···自分のよく分からない決意にしたがい、机の前に座ってました。

その時中学3年の夏休み明けぐらいでした。


夏休み明けから私は、中学1年生の教科を出し、独学で勉強し始めました。


父は、あの日から家に帰ってくるのが極端に減りました。


母は弟の家に様子を見に行ったり。弟の先生と話したりしてました。

弟の傷を癒す為に。


弟は、家を出ても寂しいのか、夕食には家に戻ってきてました。

けど次第に来なくなりました。

そして度々自殺未遂をしてました。

けど中学は何とか卒業し。

母と同じ工場に働きに出ました。

生きる為に。


私は学校以外、12時間の勉強を続けてました。

生きてる事を、つぐなう為に。

母の『いい子』になる為に。

弟を休ませる為に。


家族それぞれが、それぞれのトンネルに入り、かりそめの家族をぶっ壊し。それぞれがトンネルの中で苦しんでいました。


トンネルは長いように感じました。

私にとっては、家族への負い目だけを刻み付けられてました。

そして

やっぱり私は母に嫌われていたと、暗く静かに思いました。

それでも私は、母が好きでした。


闘病記つむつむ 第一章 

[完]