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闘病記つむつむ(20)トンネルに向かって転がるがごとく進む⑥ドッペルゲンガー😰

私がほとんど学校に行かなくなった頃、弟が学校でいじめにあうようになりました。

弟はとても賢くて、IQも高いのですが。
反面体育と、以外に人付き合いが苦手でした。

家では大声をあげて笑ったり。ふざけたりしますが、学校では私と似ているのか、大人しかったそうです。
そこは私と似てて、2人とも内弁慶だったのです。

私のいじめの様にいつも嫌味や嫌がらせはされてないようでしたが、体育の時間に、嫌味を言われるという、いじめだったそうです。

その事を聞いた母は
「そんなんあかんやろ!」
と怒り、すぐ学校に電話してました。

母は
「うちの子は真面目で勉強も頑張ってるんです。
体育だって、真面目に出てます。
精一杯やってるのに、何故そんな事をほかの生徒から言われなあかんのですか⁉️
先生何とかして下さい‼️
うちの子が可哀想です‼️」
と物凄い剣幕で、まくし立ててました。

ベッドの中で母の電話を聞いてた私は
『ふーん。〇ちゃんの事なら怒って学校に電話するんや。私の時はほったらかしやのに。〇ちゃんがほんまに大事なんやな。
···私は?私はどうなってもいいんかな。
私···なんでこんなにお母ちゃんに嫌われてるんやろう?
頭悪いから?
目が小さいから?
やっぱり···本当の子供じゃないからかな···』
と思ってました。

すると物凄く悲しくなりました。
同時に、庇ってもらえる弟が、羨ましくて。
憎くなりました。

弟は、家ではいつも母に大切にされ、ほめられ。
ええ子やええ子やと言われ。
私と比べては
「薔舞香とは違うなぁ。〇ちゃんは将来が楽しみや」
とか言われてました。

それは言葉だけでなく。
例えば母の誕生日プレゼントを買って渡す時にも 差が現れました。

母は弟のプレゼントは、いつも大喜びしてすぐに使いました。そして長く大事に使っていました。
しかし私のプレゼントは
「あ、ありがとう。けどこんなんお母ちゃんいらんわ」
と言って、プレゼントをタンスとかに置きました。
ゴミ箱にポイッではないからまだましですが。
私のプレゼントは使われること無く、ほこりに埋もれていきました。

そして母は大きな声で
「嗚呼〇ちゃんありがとう❣️〇ちゃんはお母ちゃんの事よぉわかってるなぁ。これすごく欲しかってん。ほんまにありがとう」
と。

私は何も言われませんでした。

こんな事が、1回か2回ではなく。
毎回続くのでした。

悲しかったです。

私がしょんぼりしてると、弟が母に抱きつきながら私の方に、ニャッと笑い。酷い時は、あっかんべーをしました。


弟のせいではないけど、腹が立ちました。
そしてお決まりの「なんで?ここまで嫌われるの?私何したかな?てか私もらい子か?」と言う思考のループに入っていくのでした。


ちなみに弟は、自分が母に気に入られてると分かっていて。
更に私が母に、嫌らわれてる事も理解してて。
私が母に怒られてる場面を見ると、にやにやしてました。

さらに幼い頃は、弟はわざと母が怒る様な事をしては、母に
「薔舞香ちゃんがやった」
と嘘を言い。
母に私が怒られる所を、また笑いながら見てたりしました。

私は何回も
こんな弟なんか いらんわ。
ひとりっ子が良かったわ。
と思ってました。

私が弟と、5歳ぐらい離れていたら違ったかもですが。
1年半しか違わない年子なので。
「小さい子は大切にしなあかん」とか思えなかったんですよね。

てか私が大切にしなくても、母がネコっかわいがりしてましたから、そんな必要ないと今でも思います。

弟と私は、互いの気持ちを察してるからか。
私の態度に『あんたなんか嫌いや』と言う気持ちが透けてでていたのか。
私と弟の仲は、すごく悪かったです。

まぁ、近所に同じ歳ぐらいの子供が居なかったから、仕方なく2人で遊んでましたけど。
何かある事に取っ組み合いの喧嘩をしてました。

蹴り、叩き、髪を引っ張り、腕などに爪を立てた傷つけ合いました。

小学生5年ぐらいまでは、体格差があり、私が殆ど勝ちました。

けど弟が6年の頃かな···取っ組み合いの喧嘩で私は、もう少しで負けそうになりました。

男女の体格差が出てきた為です。
それから私は、挑発されても、取っ組み合いの喧嘩をしなくなりました。
負けたくなかったからです。

話しを少し戻して。

弟がいじめに合った直後、母がすごい剣幕で学校に苦情電話をしたので、弟は表面上はいじめが止まりました。

しかし弟は、何故か暗い顔をしていました。

私は『あれ?』と思いました。
そして
『嗚呼そうか、〇ちゃんまだいじめられてるんやな』
と思いました。

子供のいじめって、先生や親が仲裁に入ったぐらいで 簡単に止まるもんやないんですよね。
ぶっちゃけ、逆に悪化する方が多いと思うのです。
実際にいじめにあった体験から、私はそう学びました。

いじめっ子にしたら
「おまえ、親にチクったやろ!」
「先生に言うたやろ!」
と火に油を注ぐ様に なるからです。

いじめっ子には、いじめっ子の言い分があり。
それは間違ってる事多いけど。
子供同士の中では、「秘密にしとかなあかん」と暗黙の了解があるようです。

当時は昭和で、今ほどきつい いじめ(ネットで365日24時間ずっと叩かれたり。いじめの場面を拡散されたり)はあまりなかったです。
拡散したくても、手書きのビラを配る位しか、手段がなかったからです。

ので、学校を離れたら、本人にいじめっ子達の嫌な言葉は届きませんでした。
今はずっと気が抜けないから、本当に大変だと思います。

それでも、大人にチクる(話す)のが、1番いじめっ子を怒らせると言うのは、今と変わって無いと思います。

つまり、変に親とかに言って。親が先生に「何とかやめさせて」とかクレームが来たら。
先生達は、余程慎重にいじめの確認や、いじめられた側と、いじめた側、そして見て見ぬふりをしてた子達に関わっていかないと、逆効果になります。

最終目的は
「いじめを止めさせる」
ですけど。
かなり繊細なケアがいると思うのです。

だけど大抵の先生は、一コマ時間を取り、クラス全員に
「このクラスでいじめがありました。皆さんいじめについてどう思いますか?やってはいけない事ですよね。この時間はいじめについて話し合いましょう」
とか言ってしまう事が多いかな···と思います。

もっとあかんパターンは
「〇〇さんのお母さんから、〇〇さんがいじめにあってると言われました。〇〇さんをいじめた人は誰ですか?やめて下さいね」
と、そのまま言ってしまう事だと思うのです。


又は、ドライな先生なら
(めんどくさっ)と思いつつ教室に
「いじめはやめましょう。見た人は教えて下さい」
と書いた紙をはるかもしれない。

又は、本当に真面目な良い先生だと、いじめられてる子とこっそり話し、まずはその子を支え。いわゆる保健室登校とかを、ほかの子達に見つからないようにさせると思います。
そして、さりげなく他のクラスの子達から、いじめの情報を集め。
ゆっくり解決する様に持っていかれるかもしれない。

けど。これだけ気を使った方法でも、いじめっ子にしたら
「〇〇さんをひいきしてる」
と取られるので、いじめっ子はいい気がしません。
ので、いじめられてる子が登校してきたり、保健室登校してると知ると、いじめがヒートアップします。

どの方法でも、いじめっ子を刺激すると。
いじめっ子達は
「誰がチクった?〇〇(本人)しかおらんか!」
となり。
いじめっ子への風当たりは強くなります。
しかし先生(大人)の手前、目立ついじめはおさまります。
しかし、いじめは見えない所で静かに続けられます。

今度は、見えない分だけに、陰湿になります。
例えば登下校の時や、休み時間。掃除の時間などが、やばいです。

子供って大人が思うより、残酷でずるいんですよね。

弟も、表立ってのいじめはおさまってる様でした。
けど弟は、あまり笑わなくなりました。
後で分かりましたが、弟はいつしか靴下の中に小さなカッターナイフを忍ばせて登校していたそうです。

間違いなく。
いじめがエスカレートしたのだと思います。

弟は何も言いませんでしたが、少しずつ目付きが険しくなってきてました。

それでも、勉強は頑張ってしていました。

一方私は。
いじめに立ち向かうなんて事考えもしませんでした。
だって誰に助けを求めても、解決出来へんのが 痛いほど分かっていたからです。
1番守って欲しかった母が
「いじめてるのが、お得意様の子供さんやから、私らはなんも言えない。あんたは女やから、中学出たら働けばええからな」
と、ズバッと言ってましたから。

なんの期待もされてないし。お得意様の子供さんの方を大切にしてるし。
私なんてどうなってもいいと、言われてる様に感じてたので、投げやりになってました。

ので、罪悪感無く昼ドラ「あかんたれ」とアニメ「009」を見て、4時になったら母達と銭湯に行き、帰ってきたらベッドに潜り込み漫画を読んだり。絵を描いたりしてました。

寝っ転がったまま、1人でごっこ遊びもしてました。

そこでは、幸せな家庭のひとりっ子をイメージしたり。
キャ〇ディ・キャン〇ィや。宇宙〇艦ヤ〇トの古〇くんとゆ〇の様な、大恋愛をしてるとイメージしたりしてました。

このまま一生お布団にくるまって、人生終わるんかなぁ···とか考える時もありました。
それでもええかなとも思いました。

将来なんて、予想できませんでした。

永久にこの「閉じ込められた時間」が続く様な感じがしてました。
早くおばあさんになりたいと思っていました。
おばあさんなら、人の言動で心がかき乱される事など無いと、幼い私は思っていたのです。
今思うと、そんな事ないんですけどね。
幾つになっても、いじめや理不尽な事は沢山あり、やはり一喜一憂してますから。

もっとも、それは私が未熟だからかもしれませんけど。

当時の私は。
いじめや。母と弟と私の関係とかに、真面目に向き合ったら、自分がつぶれそうやから考え無い様にしてました。


一方、父のお店の方は、本格的に赤字&借金返済に苦しむ様になってました。
けど父は、自分のお店を守りたくて、意地になっていたようです。

父は家に帰って来ないから、不登校の私と会う事も無く。話しもなく過ごしてました。

母は、朝から夕方まで工場で流れ作業をし。
夕方に銭湯へ私達を連れていき。
夜はお店に行ってました。

当然家には、弟と私が留守番として残されました。

その頃は喧嘩もしなくなりましたが、話したり遊んだりする事もなくなっていました。

今思っても冷たい家族やなぁと思います。
というか、父、母、弟、私が、それぞれに問題を抱えてるのに、誰1人助け合おうとかしなかった様に思います。

あ、母は弟には手を貸そうとしてましたけど、「いじめを陰湿化」させた時同様、弟の為になる助け方だったかは、私には分かりません。

私は、同じようにいじめを受けてるのに、弟の時だけ学校や教育委員会に電話して、弟を助けようとした母の言動に、ずっとわだかまりを持っていました。

そして。
いつも結論は
『私は本当の子供違うのかな···?』
と言うお決まりの点にたどり着き、ものすごく辛くなっていました。

母の「弟だけ可愛かがる」手法は辛辣でした。
けどよく聞いたら、実は母も同じような事をされてたそうです。

「お母ちゃんなぁ。小さい頃おばあちゃんに嫌われててなぁ!真ん中の妹だけ、可愛いがられててん。嫌やったわ」
といつも話してました。

同じ事やってんで✋と突っ込みたくなりましたが。
本当に突っ込んだら、反撃のマシンガントークが怖いので、飲み込んでました。

うーん(._.)
少し母の生い立ちを話すと。
母は3人姉妹の上で、九州で生まれました。けど第二次世界大戦が激化して、危険になり。
九州に和菓子職人の修行に来てた祖父···おじいちゃんのお里の奈良に、家族で疎開したそうです。

疎開してまもなくおじいちゃんは、急死します。原因はよく分かりませんが。
「早く血清打たなあかん」
と周りの大人が言ってた事を母は覚えていて。
「多分な、蛇に噛まれたんやと思うねん」
とよく言っていました。

おじいちゃんが亡くなり、残されたのは九州出身の祖母···おばあちゃんと、母達3姉妹でした。

当時の奈良は田舎だったそうで。

戦争末期で、皆がイライラしてる所に。
おじいちゃんのお里に、九州から来た嫁と子供達が、ぽつんと残された訳です。

当然
「どこの馬の骨かわからん人が嫁に来てる」
「女の子しか産んでない。お国のためにならへん」
「〇〇君(おじいちゃん)が若くて死ぬなんて。嫁が悪いんや」
など、おばあちゃんは、戦時下にありがちな言葉や、現在の嫁も苦しめられてる言葉の暴力を浴びせられたと思います。

おばあちゃんは味方がおらず。土地勘もなく。女手一つで3人の娘達を育てなあかん事など、プレッシャーが多かったと思うのです。

何故私が、祖母の事をそう思うのか。
子供の頃はこんな事全然分かりませんでした。

が、私が2度目の結婚で、兵庫の日本海側の土地の、農家の長男の嫁として 嫁いだ時、嫌という程味わった辛い体験から、想像しました。

又、脱線しますが
私は、嫁ぐまで、農家の嫁とは一言も言われてませんでした。
又同居も、子供が出来て大きくなってから同居しようと、元旦那に言われてました。

けど蓋を開けたら
「10ヶ月で同居」
でした。

元旦那は
「お前ここに来ても習い事やめへんなぁ。実家とここと行き来するのはしんどいねん。習い事続けたかったら、同居やな。嫌なら離婚や!どうする?」
と言われて詰め寄られました。

あとから思うと、別に暮らすのは子供がお腹に出来るまでと、最初から決まってたのではないかと思うのです。

お腹で大きくなって、生まれる頃(約10ヶ月)には同居しよう。これ、確かに子供が大きくなってからと言えなくもないですよね。
酷いけど。

あと習い事は、私やめれないから。
それがダメなら、私は結婚しないよと
相手にはずっと言ってました。
本当に結婚より習い事を取ろうとしてました。

するとその時、元旦那は
「習い事していいよ。遅くなったら泊まってきていい。え?漫画喫茶で泊まる?カプセルホテル?危ないやん!ちゃんとしたホテルに泊まって。お金の心配はいらんから」
と何度も言ってました。
「おとんとおかんに、ちゃんと説明してるから、堂々習い事してていいから。家広いから練習とかしてええで」
とかも言ってました。

だけど
同居の日、玄関の上がり框で、お義理母さんとお義理父さんに
「農家の嫁だしなぁ。跡継ぎ残さなあかん」
と開口一番に言われ
「へ?」
と思いました。
更に
「なんか習い事してるけんど、いい加減やめて、こっちの仕事(家事や野良仕事らしい)に専念しにゃぁ」
と言われました。
元旦那が「おとん おかんに説明してる」嘘でした。

これらの事を、婚前に私に話したら、私が結婚辞めると言い出すと思って、元旦那は
「あー農家では無い。裏で小さな畑してるだけ。趣味、ガーデニングやな。手伝わんでいいで。習い事良いよ、やりやり」
と言っていたのでした。
が、全ては嘘でした。

同居した瞬間から、元旦那は息子になりはりました。
私は嫁···家に付いた女になりました。

これは偏見に聞こえるかもですが。
昔からの風習を大切にする、田舎と呼ばれる所にお住まいの ご年配の方々と。
その人達に育てられた人とは。

目に見えない風習や、決まり事(家訓)がかなりあって。それを守り続ける義務がある様に感じました。

生まれてずっとその土地に居てはるので、それが常識で。
そこから外れると、村八分まではいかないけど、ご近所から浮き
「あそこの長男さんの嫁さん、変わってんなぁ。頭おかしいとちゃうん」
など、噂が流れてました。

しかし私からしたら、有り得へん決め事に、驚き 苦しみました。
私は都会育ちなので、嫁ぎ先の風習や風景が(偏見ごめん🙏) 大正時代か、日本昔ばなしの世界の事柄に思えました。

私は大阪府に生まれ、ずっと大阪府育ちでした。
ベットタウンやけど一応都会でした。

うーん(._.)私の中の都会の定義は。

電車の終電が0時以降くもあり。
電車もバスも、時刻表確認しなくてもすぐ乗れたり。
数駅歩いても10分位の距離だったり。
自転車で大抵の用が足りたり。
ぶっちゃけ、隣りの部屋に誰が住んでるか分からんし、話しもせぇへんのが普通だったり。

自然の豊かな所は四季によって、自然の風景の色が綺麗に変わるけど。
都会は、どの季節でもあんまり自然の風景の色が変わらなかったり。


都会の夜空は暗くて、星が沢山見えたり、満月が驚く程明るいと感じられない。

星はたまに見えるけど、大抵人工的なあかりの方が目立ってたり。
満月でも、月の光で、人の影が出来る事の無い所。

です。
ちなみにどちらが上とかは考えてません。

それに、今でも四季によって変わる風景の鮮やかな色は好きです(虫はあかんかってですが)


これだけ暮らしてる環境が異なると、同じ日本人でも、全然違った常識、価値観になりますよね。
もっと言えば言葉も違った。
方言です。

方言はあったかい雰囲気ですが、慣れるまで何言われてるのか分からず、反対の意味に取ってトラブルこともあります。
私はその経験から、生前2回しか私達は会った事はないけど、祖母の置かれた境遇を、推測してみたんです。

これらは私が大人になってから体験した事ですけど。

祖母もしんどかったんやろなぁと思いました。
頼る人は亡くなって、たった1人で子供達(母姉妹)を育てるのは、大変だったと思います。
ストレス溜まりまくりかなと思いました。

その鬱屈された気持ちは、いつしか怒りとなり、自分の子供達に向けられたと思うのです。
でもこれは。
本来絶対やってはいけない事です。
言葉でも、物を使わなくても、使っても、故意に子供を痛めつけるのは「虐待」だからです。

同時に、食べさせない、子供達を置いて家を出ていき戻らないなども「虐待」です。

母は
「あんたらのおばあちゃんはな、怒ったら火箸で叩くねん。
自分がしたくない『卵集め』なんかな、お母ちゃんにしろって言うねんで。
鶏のオスは大きくて怖かってん。卵集めに行ったら、怒ってつついて来るねん 。
それで卵が取れへんかったら、なんで取ってけえまへんねんって怒るねん。
けどな、ある日
『そんなんやったら私が取ってくるわ!』 って言って、おばあちゃんが鶏小屋に入りやってん。
そしたらオスの鶏につつかれて、物凄い勢いで戻ってきてなぁ。痛い痛い言うてやってん。わろたらあかんけど、スカッとしたわ(笑)」
とか。
「あんたらのおばあちゃんはな。
お母ちゃんら(母と母の妹達3人)置いて、男作って出ていってん。
私らは奉公に出されたりして、バラバラになってな。
お母ちゃんは延〇寺のお寺のおばちゃん(先代の安住様)の所に住み込みする事になってん。
そやけどな、おばあちゃんは男と一緒に乗り込んできて
『〇〇の給料を私に渡せ!』
って包丁もって怒鳴り込んで来たんやで。
お寺のおばちゃんは、
『私らが話し聞いとくから、〇〇ちゃんは裏から逃げて、交番に行っといで』
と言って庇ってくれはったんや。どっちが親が分からんかったわ」
とか。

「あんたらが生まれて、お宮参りする時に、おばあちゃんに来てもろたらな
『お宮参りのせいで仕事休んだ。そやから〇〇、私の日当(お金)出して!』って言ってんで。がめついやろ」
とか。

「あんたらが小さい時、おばあちゃん1回家に来たやろ?覚えてるか?」


「突然来て、あんたらにおもちゃ買うてな。
『おもちゃ買うた分だけトイレットペーパーとティッシュもらうで』
って、お母ちゃんが必死にためてたトイレットペーパーペーパーとか、ごっそり持って帰ってんで😡
丁度オイルショックの時や。あんたら小さかったから覚えてへんやろけど。
お母ちゃんめっちゃ腹たってんで!
あんたらがおもちゃ買うてもらったから悪いんや!」



などなど。子守唄の様に、おばあちゃんの
悪口を事細かく、繰り返し聞かされていました。

そして最後には
「お母ちゃんはな、おばあちゃんみたいにはせんとこ思ってな、お腹を空かせたり、叩いたりするのは止めとこって決めてんねん。あんたらは、お母ちゃんより幸せやねんで」
とくくるのでした。

幼い頃から聞かされてた言葉で、私は
『母は傷つけたらあかんねんや。可哀想なんや』
と思っていました。

そして何とか母を庇うようにしよう、守ろうと思い色々試しました。

ですが私のする事は、ことごとく母のカンに障るみたいで、いつもマシンガントークで言葉の暴力を受けました。

それでも私は、母が好きでした。

子供が母を求める本能は、どんな事があっても中々消えないのだと 今も思います。

それだけに。
求めても与えられない母親の愛情。
それを貰えない時は、刃物で私の心を傷つけられました。

そして何度もフラッシュバックを起こしていたので、その度に又心を傷つけられていました。

何故?私にはきつい事ばっかり言うの?
〇ちゃんには優しいのに。
なんで〇ちゃんといつも比べるの?そんなに〇ちゃんを自慢したいん?
私の事は、なんもほめてくれへんのに。

普通の母親なら、子供を受け止めてくれるのが大半やと聞いたのに。
お母ちゃんは私に冷たい。受け止めてくれないと感じる。なんで?

それがずっと謎でした。

それが少し分かったのは、私が中学になった時でした。

私が中学2生の時、小学校の時から飼ったにわとり🐔のぴぴちゃんが、死にました。

私がぴぴちゃんが死んで悲しくて、思わず座ってる母の膝に飛びついて泣きました。

母は黙って私のするがままでしたが、突然小声でぽつんと言いました。

「母親って。そんなに良いのんか?お母ちゃんには、分からへんわ」

ぴぴちゃんの死で、いっぱいいっぱいだった私でしたが。
母の言葉に、はたっと我にかえりました。


『ええ⁉️なんて?
今、母親ってそんなに良いの?って
言った?
お母ちゃんには『母親ってどんなんか』分かってへんかったって事?
知らんのやったら、お母ちゃんに、
母親になってって言うの、言われへんやん。

私がお母ちゃんに、母親を求めるのは。無理って事?
だってお母ちゃん母親分からんって言ってるもん。分からへんもんになられへんやん!』
と言う言葉が、まるで雷のように、バリバリと身体中を駆け抜けました。
そして私は、唐突に
母も母親から愛情をかけてもらってなかったんだと、理解しました。

1つ理解すると、頭の中の霧がさーと消え、さらに色々な疑問の答えが浮かびました。

母は、弟を助けようとして、結局いじめを陰湿化させた事も。
母は真面目に弟のいじめをやめさせたかった。けど普通の母親としての言い方が分からず。いじめを止める方法も分からないから、どストレートに先生に連絡しまった。

結果弟は、チクリ魔と言われる様になり。影でいじめを受けていた。
私と違って賢いから、いじめっ子が何かした時、自分でとめれるように、カッターナイフを手にしていた。
まぁこれは、過剰防衛で、あかんのですけど。
弟にとっても、いじめは地獄の責め苦に感じていたんだと思います。


私はぴぴちゃんが死んだ悲しみより、母の言葉に気持ちがひきつけられました。
正直びっくりして、涙も止まりました。 
そして、幼い頃から自然としていた
「母親の顔色を見る。母親の気持ちを推測して動く」
と言う行動をしてました。

『母親分からんのに、私が抱きついてたら気持ち悪いかな?
お母ちゃん『分からん』言うてるのに、お母ちゃんに甘えたら···迷惑かな。
これ以上くっついたら、もっと嫌われるかも。お母ちゃん出来へんのは、お母ちゃんのせいやないし。···離れよう』
と思い、母から離れました。
そしてベ ッドに潜り込みました。

そこでぴぴちゃんの事を思って声をおさえて泣きました。
泣きながら、母の言葉が何度も頭によみがえりました。
すると、心に黒くて底の無いような穴があいて、そのまま引きずり込まれそうに感じました。
私は丸くなって、胸を押さえ泣きました。

ぴぴちゃんの死が悲しいのか。 
お母ちゃんに受け止めてもらうのは無理?と当時、はっきりと言葉に出来ませんてましたが。
それに近い 暗くて冷たくて重たい想いに押しつぶされそうなのが、悲しかったのか。
どちらがメインで泣いてるのか分からないまま、泣き疲れて寝落ちするまで泣いてました。

そんな事が分かる前。
小学生の頃に話しを戻すます。
 
その頃は、いつも怒られるのは私。なんでやろ?と事ある毎に考えていました。
私は、結構一本気でした。そんな所がおばあちゃんと似てたのかもしれません。
また、どちらかと言うと見た目と声は母に似てましたけど。性格などは父に似てる所もありました。 
ので
おばあちゃんとお父ちゃんが嫌いなお母ちゃんは
「私が嫌いやねんや」と思うようになりました。
けど私は母が好きでした。
なので、私のいじめは放置するのに、弟のいじめは率先してなんとかしょうとする母を見る度。母が弟をかばう姿を見る度、私は弟が大嫌いになりました。

私が悔しがってるのを尻目に、わざと母に甘える弟。
本当に嫌いでした。

けど、弟は弟で、母の期待に沿う様必死で頑張ってる事を、当時の私は知りませんでした。
弟は、私が病気をする度、母が付き添いに付くので
「お母ちゃんを取られた。もっとお母ちゃんが喜ぶ事をして、振り向いてもらおう」
と思って居たそうです。

私が中学になった時。
全てが壊れた時。
初めて知る事になる事実でした。

この時はまだ知らなかったです。

どちらにしても
家庭内で、冷たい感情が、潜在的に渦巻いている様な家でした。

今にも倒産しそうなお店と、離婚してもおかしくない父母。
いじめに苦しむ弟と。
人生投げてる私。

この4人が何とかバランス取りながら、かろうじて家族をしてるそんな時、弟に異変が起こりました。

あれは夏だったと思うのです。暑かったので。

夜、家で留守番してる時の事です。

テレビを見ていた弟が、トイレに行きました。
私は変わらずテレビを見てると、なんかすごい音がしました。

それが弟の悲鳴だと気がつく前に、あのプライドの高い弟が、物凄い勢いで、私にすがり付いて来ました。




私は心底びっくりしました。
あんなに取り乱した弟は初めて見ました。

叫びまくる弟に
「〇ちゃん、どうしたん?何があったん?」
と何度も声をかけました。

弟は私の体に 益々強い力ですがりついてました。と同時に泣き叫んでました。
私の声かけは聞こえてないようでした。

私は大きな声で
「どうしたん?痛いんか?」
と何度も声をかけてました。

すると弟は首を激しく振り
「違う」
と叫びました。
「何があったん?」
と聞くと
「僕がおる!」
と叫びました。

「ん?」
私はよく分からなかっまたんで、めっちゃ素直に首を傾げました。
その様子を弟は見てないですが(私にへばりついてたから)
大きな声で話し始めました。

「僕が、僕がおるねん!もう1人おんねん!僕が座ってんねん!僕が気がついたら、僕が僕の方を向いて、僕が僕に  にぃって笑ってん!あの部屋に僕がおるねん!」

「?????」
なんの事やろ?···と言うのが正直な私の感想でした。
が。
こんなに怯えてる弟を、未だかつて見た事がないので、私は
これはイタズラとかとちゃうな。
と思って
「〇ちゃんがもう1人って。〇ちゃん2人いるの?」
と改めて聞きました。

弟は首をぶんぶんと上下に振りました。
そして少し落ち着いて(けどまだ大声のまま)話しました。

まとめると
「トイレに行こうとして、和室の横を通った時、視線を感じ。
振り返って見たら、そしたらなんかよく知ってる人が、ソファーに座ってて。
よく見たらそれは自分で。
思わず目が離せなくなって、固まって、もう1人の自分を見てたら。
バチッと目が合って。
その途端ソファーの自分が
『にぃっ』
と笑った。
それ見たら寒気がして怖くなった」
と言う事らしいのです。

『えー!心霊体験かぃ😰』 
と理解した私も、一気にぞぞっと寒気がしました。

「怖い怖い怖い怖い怖い」
とへばりつく弟に
「大丈夫や」
私も内心めっちゃ怖かったけど、ここで2人怖がってても、どうしょうもないし···。
とにかく落ち着こと思いました。
私は深呼吸しました。

すると、弟もかなり落ち着いてきました。けど、へばりつい離れませんでしたけど。

しかし このままだとラチがあかないので。
私は生唾飲んで、弟に
「私が見てくる。待っとき」
と言いました。
そしてそっと弟の体を離しました。

弟はボロボロ泣いてました。
ガタガタ震えてました。

私も震えてたけど
『ここは私が何とかしなあかん。南無阿弥陀仏』
と思いつつ、くだんの和室を確認しに行きました。

薄暗い畳の部屋に、窓があり。
窓の所にソファーが置かれてました。
弟の話しでは、そのソファーにもう1人の弟が居て、にぃっと笑ったらしい。

私は少しためらいながら、思い切ってソファーを見ました。

そこには誰もいませんでした。

でも、めっちゃ冷たい空気を感じました。

まるで「あなたの知らな〇世界」の再現ドラマの中に迷い込んだ様に感じました。

私もそこで「ゾッと」しました。私もやはり怖くなりました。

でも弟には
「安心し。誰もおらへん。けど気味が悪いから、今からお店に行こ。〇ちゃんトイレ済ましといで。私そばにおるから」
と言いました。

そして弟と2人、夜道を自転車で走りました。
お店まで子供の自転車でも約10分弱でした。

お店に行って、中に入ると、正直ホッとしました。

怪談好きの 自称霊感のある母は、身を乗り出して、私達2人の話しを聞いてました。

母は複雑な顔をしながら
「うーん。もう1人の自分を見たんか。それドッペルゲンガーとか言うやつかも。見た人は、もうすぐ死ぬらしいで」
と、すっぱり言いました。
それを聞いた弟は、大泣きしました。

私は『お母ちゃん···そこストレートに言うたらあかんやん』と思わず思いました。

まぁ結論から言うと、弟はちゃんと生きてます。

けどその「ドッペルゲンガー」を見てから、少しづつ弟は変わりました。
まるで今までの弟が、全ていなくなったように変わりました。

「ドッペルゲンガー」を見た後、弟はある意味死んだのかもしれません。

そしてある朝弟は
「僕、学校休む」
と言い出しました。
弟のいじめが酷くなったからでした。

結果、弟も不登校になりました。
母は私の時とは比べ物にならない程動揺してました。

学校やお寺さんや、教育委員会や、精神科、占い師の先生等、いたるところに相談をしに行ってました。

私はと言うと。
丁度昼ドラ「あかんたれ」も、アニメ「009」も終わってましたし。
家は狭いので、いくらベッドの中にいても、家に弟が居るとなると、自由にできないなぁと思いました。

又、母の弟への態度を見ると、自分の時との違いを見せつけられるので、いたたまれなくなり。
それなら学校に行った方がマシやと思うようになりました。

そして私は不登校をやめました。

学校に行くと、いじめっ子4、5人に囲まれ
「〇〇さん、話しがあんねん。こっち来て」
と言ってきました。

私は覚悟を決めて着いて行きました。

女子トイレに誘導された私は、いじめっ子の言葉をじっーと聞いてました。

「あんた、先生にチクったやろ」
「私らが悪いんちゃうからな!〇〇さんがあかんねん」
「私らがいじめたから学校休んでたん?違うやろ?単なるズル休みやんなぁ!私ら関係ないよななぁ!」
「出てこられたら、私ら  うざいねんけどぉ。目障りや」
等色々言われました。
私はいつもなら、怖くて何も言わず、早退してましたが。
今家には弟がいて、安心出来ない場所になってたので、背水の陣よろしく、思い切って言い返しました。

ただし、怒らせないように気を付けました。

「休んでたのは体のせいやねん。みんなのせいやない。
あと先生になんも言うてないよ。だってそれにみんなが言う通り私が悪かったんやもん。
みんなの言う事、当たってるし。
私がちゃんと話したり、説明せえへんかったから腹たったんやろ?
それに私がみんなの嫌がる話し(怪談とか)をやめへんかったからやろ?
本当に嫌な想いさせてごめんね。
それでね、私これからは 、みんなに近づかない様にしょうと思ってるねん。
すぐに性格変えるの難しいから。
そんな私見てたら、みんなイラつくやろ。
反対の立場やったら、私だって多分イラつくと思うから。
本当にごめんね。
私もみんなに近づかへんから。みんなも私から離れて欲しいねん。
お互いその方が、心穏やかやん。
私は頑張って自分なおして、みんなに迷惑かけへん様にするから、いじめ やめてくれへんかな」
とゆっくり大きな声で言いました。

すると聞いてたいじめっ子達は
「ぐっ」
と言ったまま黙ってました。

けど
「ほ···ホンマにあかん所わかってるの?暗いとことかもウザイんやで」
とか。
「お化けの話し、まじにやめてな」
とか。
「どんくさいのが嫌やねん」
など色々言ってきました。

私は
「そうやろぉ、私はそんな所があかんねん。治す努力してるけど、長くかかりそう。ごめんやけど長い目で見たってくれへんかなぁ。ごめんね」
と、ふんわり受け止めるようにしました。

話しながら自分でも、私ってこんな風に話せるんやぁ···👀と驚いてました。

今にして思うと、不登校の時ハマったドラマ「あかんたれ」は、古い時代の老舗のお店に、小さな子が奉公すると言うストーリーで。
その子が、これでもかと言うほど いじめられてました。けどその子は、ことごとくやり過ごすんです。
大人がその子をいじめても、その子はまっすぐ闘って、ギャフンと言わせる。
ハマったのそのせいだったと思います。

けど自分が 土壇場になった途端
「あかんたれ」
のその子が乗り移ったかのように、堂々と話せてました。

自分を卑下してるようにしつつ、私だけが悪いんやない事。いじめをやめて欲しい事などはっきり伝えられました。

不登校前にはありえない事でした。

不登校で学校の成績落ちまくりでしたけど、昼ドラで人生勉強した様なもんやなぁと思いました。

しばらく話していると、女子トイレの外が ガヤガヤしてきました。
振り返ると担任のY先生がいました。

Y先生は
「こんな所で何してるん?」
と慌ててました。
いじめっ子達はみんな緊張した顔つきで固まりました。

私はすかさず
「何もしてません。少しお話ししてただけです。ねぇそうやんね、みんな」
と笑って答えました。

いじめっ子は黙ってうなづいてました。

Y先生は当惑した表情で
「ほんまか?大丈夫なんか?」
と言われました。

私は
「はい、大丈夫です」
と言いました。

Y先生は
「それなら」
と言って出ていきはりました。

私はいじめっ子達に
「そう言う事なので、これからは迷惑かけへんようにするね。お話ししてくれてありがとう」
と言ってトイレを後にしました。

トイレを出たら、すぐにY先生に呼び止められました。
私は「大丈夫です」と答え、話しの内容は言いませんでした。

私は教室に戻り。
かつて私がいじめた子達に声をかけました。

実はいじめっ子達のグループにいた時、私もクラスメイトのいじめをしてた方だったんです。

今振り返ると、自分がいじめられたのは、自分が先に人をいじめたから。その罪が頭に落ちて来ただけやってんなぁと思いました。

この時はそんな事考えてなかったけど、いじめた事を謝りたかったんです。

いじめの痛みを知ったから。

私がかつていじめた子達は、嫌がらず私の謝罪を受けてくれました。
それどころか
「良かったら私らのグループに入らへん?」
と誘ってくれました。

この時は本当に嬉しかったです。

私は登校1日目で、いじめっ子達に話しをし。
またかつての過ちを謝罪し、新しくグループに入れてもらえる事までやりとげました。

うーん🤔
やはり「あかんたれ」の影響が凄かったのと。
家に弟居るから居場所が学校しかないと、覚悟を決めたのが良かったのかな👀と思いました。

ちなみに。Y先生は実は母との話しで、休み時間1人にさせないでと言われてたと後で知りました。

Y先生から母にコンタクトがあったのか。
母からだったのか分かりませんけど。

母が
「薔舞香の先生、ええ先生やなぁ」
としきにり言われてた事を考えたら、多分Y先生から母に電話とかあったんやろうなぁと思います。

母から
「あんたの学校の先生に電話しといたよ」
と言う事実があれば、あの頃の私も救われていたと思います。

母は何事も黙っとく事が苦手な人なので、自分が電話したなら 必ず言うはず。

そう思うと、自ら動いて下さったY先生には、感謝の気持ちしかないです。

私はこの後も、赤の他人様に助けてもらう事が多かったです。

本当にありがたい事でした。

続)