先週の土曜日、筆者はベートーヴェンの晩年の大作荘厳ミサを聴きに、オペラシティまで出かけてきましたのでその感想を以下に記してみたいと思います。



ベートーヴェンの荘厳ミサは筆者にとっては長年「難曲」と言うイメージが非常に強く、中学生の頃にクレメンスクラウスの名演に心打たれはしたものの、その音楽的な魅力や核心は未だ謎のヴェールに包まれています。ライブで全曲を聴くのはもちろんはじめて。オペラシティの3階正面の非常に良い席で拝聴することができ、素晴らしい体験となりました。(ちなみに、2階席までは満席でした。)



第一に、筆者が感じたことは、タケミツメモリアルの空間とオケ、そして合唱の音響が抜群にマッチしていたこと。録音だとどうしても細切れに聴こえてしまう各「楽章」も一まとまりの音楽として鳴り響き、それぞれキリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュスデイという言わば「5楽章」の各々音楽的メッセージがバランスよく表現されていました。


第二に、以上の点とも関連していましたが、テンポの設定が大変「絶妙」であったこと。キリエ、グローリア、といった各「楽章」における各々のセクションのテンポの関連性いかんでは、全体がまとまりのない雑然としたものとなってしまいますが、そのテンポ設定、間合いは非常に優れていたと思います。これは指揮者の水野克彦さんの手腕に拠るところが大きいと思われました。


第三に、オケと共に合唱の情熱が素晴らしく、見事に歌い上げられていたこと。とりわけグローリアやクレドでは非常に速いテンポや高音が持続する箇所、また歌唱としては非常に不自然なバックビートのオンパレードなど、荘厳ミサは合唱にも多くの負担を強いる曲だと思いますが、決して「力負け」することはなく、最後まで見事に歌い上げられていました。とりわけ、各「楽章」にはオケが休符になって合唱だけが重要な歌詞を歌い上げる大変魅力的な個所がありますが、指揮者のテンポ設定の手腕とも相まって見事な演奏効果を発揮していたと思います。また、華やかで色とりどりのソリストの歌唱を邪魔することもなく、大変調和した響きを聴くことができました。


 弦楽器のアンサンブルに比べると若干管楽器が乱れていたり、クレドの受胎告知の部分合唱のテナーパートの歌い上げがやや貧相に感じられたり、もう少しソリストの「見せ場」を創り出してもよかったように思われるところはありましが、全体としてみれば水準の高い演奏であったと言えると思います。



 さて、全体を通して聴いてみて筆者が感じたこと、考えたことは次のことでした。



「ベートーヴェンはこの作品でいったい何を表現したかったのだろうか?」



荘厳ミサについて長年筆者が抱いてきた疑問は、この作品があまりに高揚する箇所が多く、ミサ曲としての美学に欠ける、というものでした。たとえば、ブルックナーのミサと比べた場合、ブルックナーには管弦楽法一つとってもその宗教的な意味や美意識が際立ちますが、荘厳ミサには筆者にとって「理解不能」な多くの楽想が目立ち、全体としてのそれがどのような「美学」なのか、よくわからないという印象がありました。「アーメン!」「アーメン!」と強迫観念的にバックビートで何度も連呼したり、一つのフレーズが二倍の速度で繰り返されたり、そうかと思うと突然ベネディクトゥスのような美しいヴァイオリンが垣間見えたりと、「何がしたいのか、どういう美学なのかわからない」という気持ちが強かったわけです。


また、「ベートーヴェンが万感の想いで託した人類に対する崇高なメッセージ」という観点から理解しようにも、それが非常に押しつけがましいだけの音楽としての美意識に著しく欠けた、破天荒なものというふうにしかなかなか受け取ることはできませんでした。


さらに付け加えれば、「いったいこの曲はそもそも<ミサ曲>である必要があったのだろうか?」という根本的な疑問がありました。確かに、グレゴリオ聖歌風の旋法から着想を得たと思われる節も見受けられはしますが、それが本質的にどのようなアプローチなのかは今一つはっきりしません。特に、受胎告知の際の取ってつけたような標題音楽風のオケの描写はおよそベートーヴェンの精神とはかけ離れた安易なものと思われて仕方ありませんでした。



 もちろん、筆者としても以上の疑問に正当性があると考えていたわけでは決してありません。しかし、以上のような個人的な偏見の少なくとも一部は、今回の素晴らしい実演に接して解消させられたと考えています。


何といっても、ベートーヴェンがこの作品において、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュスデイの各「楽章」に、各々生命の息吹を吹き込み、全体として大きな音楽による祝祭を実現していることがはっきりと体感できたこと。


キリエにおける荘厳な慈しみ。グローリアの栄光。クレドの生命の躍動。サンクトゥスにおける神秘。アニュスデイにおける無常観と祈り。


この作品には到底汲み尽くすことができないほどの大きな可能性が眠っていることは間違いない、と確信しました。


ただし、「この曲を真心から演奏する」あるいは「この曲を真心から聴く」というそういう「ポイント」に立つことは依然として難しい、ということも同時に感じました。


改めて、このような大作を「味わう」場合、ライヴで実演に接することは何より幸せで大切なことだと痛感しました。


また、プログラムノートもこの作品の全体としての意義やとりわけアニュスディの比較的あっさりとした終わり方の意味について言及されるなど大変力のこもったものであったことも添えておきたいと思います。作品を巡って、表現する側と、表現を受け取る側が共に作品という神秘を巡って感じ、考える。そこにもコンサートの醍醐味があることを再確認致しました。



今回この作品に挑戦された皆様に心からの拍手を改めて贈らせて頂きたいと思います。