先日、毎年恒例の日本音楽コンクールのドキュメンタリーがNHKで放映されました♪ ご覧になられた方も多いと思います。


 筆者は今年は日程が合わず、いずれの本選会も拝聴できませんでしたが、先週BSクラシック具楽部で放映されていたハイライトは観ることができました。


 さて、今年も大変興味深い演奏が数多く披露されたようですが、その中でも一際筆者の関心を引いたのが作曲部門第一位、網守将平さんの作品「Drunky Jet Addiction-for 6 players-」


細部のレポートは割愛し、簡単に筆者が感じた大まかな作品の「ポイント」を挙げてみたいと思います。


1)アンサンブルが一つの「テクノロジー」にまで高められ、究極まで先鋭化された現代感覚が音楽作品として結実していること。


2)従来の知性の枠を大きく超えた刺激的な音楽体験がむしろ主体となり、私たちに具体的に働きかけること。


私たちの知性では直接把握できないものを統御するテクノロジーの力はある意味で私たちの知性を超えており、それは私たちの生活に役立てられつつも私たちの主体性に大きな不安の影を投げかけています。このように、「テクノロジー」や「知性の死」といったテーマは優れて現代的なテーマですが、私たちは日ごろこのことをあまり強く意識したりはしません。


感覚的にいえば、この「作品」において一番ユニークなのは、もはや私たちは「優れた現代作品を聴く」という体験を超えて、まるで何か人間によって生み出されながら人間を超えた「生き物」を前にしているかのような不思議な感覚に襲われることです。


この点が網守さんの作品を全く独自なものとしていて、それは第二位の中村ありすさんの作品と比較するとより明瞭です。


中村さんの作品も、日常では目に見えない無意識化の運動や自然の営みを「音楽化」した素晴らしいものでしたが、中村さんの作品ではそれがむしろ心地よい響きやリズムとして「表現」されています。(そのため彼女の作品は大変分かりやすく楽しい。)これは一つの「ソナタ」や「組曲」を「聴く」という従来の音楽体験の枠内での創意工夫だと言えるでしょう。他方、網守さんはこの無意識性を「テクノロジー」において統御しつつ、現代感覚を作品において炸裂させています。これは、ロックのアーティストも常にこのようなことを目指しながら常に不十分な試みに終わって来た(広い意味での)「現代性」と言っても良いかもしれません。


あるいはもう少し踏み込んだ言い方をすれば、両者の「違い」は、「イメージ」か「出来事」かの違いに等しい、と言っても良いでしょう。


一言だけ添えておくと、このような現代作品に多くみられる、自然や無意識へのアプローチは決して奇妙奇天烈な思い付きではありません。これは古典的にはバッハの複雑なフーガにおいても典型的に体験されることですし、ベルクの叙情組曲などもその好例として挙げることができるでしょう。知性が明瞭な意識や把握を超えて無意識化の運動へとアクセスすることは、音楽史上偉大な作品において常に起きてきた現象であり、才能あふれる現代作曲家やこれに意図的にアプローチすることはむしろ当然と言わなければなりません。


 ところで、このような「作品」で「日本音楽コンクール」に乗り込んだ網守さんとはどのような方なのでしょうか?




(これは網守さんが高校生の頃の作品だそうです。すごい完成度ですね。)








(こちらはアンサンブル室町の委嘱作品♪)







以上の限られた動画からですが、網守さんの「現代っ子」としての「顔」が見えてくるようですね。




 最後に感じたことは、音楽は決して象牙の塔の遊戯にすぎないのではなく、社会に関わるということ、それも政治や経済とは全く異なる特別な意味で関わるということです。


ある一つの時代感覚を極限まで先鋭化し、一つの「音楽」として纏め上げたとき、もはやそれは単なる「作品」という枠を超えて普遍的な体験となり、出来事となるということ。


音楽は社会との本質的な結びつきを私たちに思い起こさせ、美の中でそれに関わらせる大きな力を持つということ。


今回の網守作品から特に実感したことは以上のことです。



それは古代の世界では「預言者」といった人々の果たしていた役割にむしろ近いものかもしれません。


現代社会における音楽家の果たす役割は限りなく広大だと感じました。