リスト作曲ペトラルカソネット





(No123)
  私はこの地上で天使の姿を、
  比類なき美をこの目で見た。
  それを想うと嬉しくなり、悲しくもなる。
  目に見えるものはすべて、まるで夢か幻のようだ。

  また、太陽を何度も嫉妬させた、
  あの二つの美しい目から涙がこぼれるのを見た。
  そして大地を揺らぐほどの言葉が、
  ため息と共に語られていた。

  愛が! 知が! 徳・憐れみ・そして悲しみが、
  泣きながら甘美な音楽をかなでたのだ、
  それはこの地上におけるどの美しい音楽よりも甘美だった。

  そして大空はそのハーモニーに耳を澄まし、
  枝の上の木の葉一枚とてそよぎもしない。
  それほどの甘美さが、この地上全てを覆っていたのだ。


♪♪♪



 先日、プラトンを巡って詩と哲学の葛藤をテーマにお話をさせて頂きましたが、今日はこのテーマに関して最も深い葛藤を抱えていたイタリアの大詩人フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)について考えてみたいと思います。



ペトラルカの詩人としての名声や彼の詩が常に大作曲家によって音楽化されてきたことは改めて述べるまでもありません。しかし、彼が哲学にも並々ならぬ関心を寄せ、『我が秘密』という哲学的な対話編と残していることは知られておらず、哲学史においても現在に至るまでほぼ完全に無視されてきたと言って良いでしょう。



筆者もこれを研究している友人からその存在を初めて知ったのですが、これは筆者にとっても最も衝撃を受けた作品の一つ。まずは常に関心を持ち続けたこの対話編のエッセンスを以下に枚挙してみることにしましょう。



♪♪♪



・この作品はうつ病のどん底に苛むフランチェスコが真理の女神によって語りかけられ彼女に見守られつつ、彼が敬愛するキリスト教の最も偉大な教父アウグスティヌスの霊と「魂の病気」の克服を巡って三日間に渡って対話するという一見して異常な設定の対話編。



・「真理の女神」は哲学史において重要な役割を果たしている「真理そのもの」の象徴的存在。『わが秘密』ではペトラルカの大作叙事詩『アフリカ』で描かれた存在として彼自身との関連が言及される。古くはパルメニデスの哲学詩に登場し、ボエティウスの『哲学の慰め』は政治犯として獄中で死を待つボエティウスと真理の女神との対話であり、直接的には『我が秘密』はこれに倣っていると考えられる。『我が秘密』の設定は真理の女神の沈黙の見守りのうちに(彼女に代って)アウグスティヌスによって対話が進められるところにポイントがある。



・筋書きは、まず一日において現世に対する一切の甘い希望を打ち砕き省察へと向かわせるために死についての徹底した省察が試みられ、第二日においては省察を妨げる様々な想念(ファンタスマ)を具体的に退ける試みがなされ、そして、第三日においては問題の根源が愛と名誉欲であることが明らかにされその克服が試みられる、というもの。



・「愛と名誉欲」とは具体的には、ペトラルカが終生に渡って愛した恋人ラウラのこと。ペトラルカは青年期から終生に渡って現実には交際関係には至らなかった彼女を愛し続け、彼女が人妻となった後死後に至るまで彼女を賛美するために詩を書き続けた。



・また、ペトラルカは桂冠詩人(Poet Laureate=政府等によって公式に任命された詩人またはその称号、古代ギリシア・ローマ時代に、詩人たちが詩作の競技を行い、勝者が月桂冠を頭に乗せたという故事に基づく)の称号を熱心に追い求め、実際にこれを獲得している。が、これも実はラウラの名と同名(月桂冠=ラウレア)であるという理由に基づく。彼女への賛美は具体的な詩作を通して彼女の名によって実は自らの名声を不滅のものとしようとする隠微な名誉欲へも通じているのである。



・ペトラルカの病の根源は、「真理の女神」と恋人ラウラを同一視した点にあること。死すべき(おそらくは第三者的には平凡な人妻にすぎない)存在に不滅の美を求める倒錯した欲望がうつ病の根源。だが、なぜ彼がそのような倒錯に陥ったのかは決して自明ではない。



・教父アウグスティヌスの霊が対話相手を務めるのは、彼がこの哀れなフランチェスコと同じ病を生前経験し、それを克服した存在だからであり、彼が終生敬愛し続けた「師」でもあるから。



・真理の女神とアウグスティヌスというこの設定は対話篇の真実性を逆説的に保証する。この対話編は筋書きだけからすると、「一人の(平凡な)女性にぞっこん惚れ込んで満たされることのない欲望に苦しむ狂気じみた詩人」の独り言に過ぎない。だが、フランチェスコが単なる気違いではない限り、かえってこの設定は対話編が如何に切実な動機から発しているかを逆説的に証明する。(要するに、狂気は狂気でも単なる衝動的な出来事ではなく、彼の人格の中枢に関わる一大問題としてこの対話編は位置づけられている。内的な真実について第三者的な視点から評価を与えることはできない。)



・『我が秘密』が対話編でなければならなかった真の理由とは、この作品が詩人自身うつ病の最中に書かれているから。この点で満を持して孤独な閑暇を選んでなされるデカルトの『省察』とは趣旨が異なる。省察は省察でも、フランチェスコの省察はうつ病の最中で試みられる省察だからである。彼がこの病から脱却するためには文字通り白日の下に自らの内的な真実を曝け出し、それと向き合う必要があった。異常な設定もこのための措置と考えてよい。


・ペトラルカは序章において「話題の多くは、現代の習俗を難じるものや、われわれ人間に共通の罪にかんするものであったので、私自身にたいするというよりも人類全体にたいする告発であるようにおもわれた」(『わが秘密』近藤恒一訳、岩波文庫21ページ)と述べているが、これはペトラルカの体験を通じて本論で一貫して問題となる間違った自己愛や倒錯した欲望が如何に根深く根強いかが各人をして自ずと悟らしめるという程度の意であろう。実際、第三者的には自明の(滑稽でさえある)これらの問題が如何に私たちにおいて根深いかということは本論を読み通す中で各人が省察する仕方で評価されるべきである。



♪♪♪



 以上、まだまだ研究中ではありますが、筆者なりに要点を纏めてみました。



 それにしても、ペトラルカはなぜ恋人ラウラと真理の女神を重ね合わさざるを得なかったのでしょうか?





(No104)
  祝福あれ、あの日、あの月、あの年
  あの季節、あの時間、あの時、あの一瞬
  あの場所で私は捕われたのだ
  美しい二つの目に、そしてあなたの奴隷となった。

  また祝福あれ、はじめて知ったあの甘美な苦しみに、
  それに私は苦しむ 愛に圧倒されつつ
  私を射当てたあの弓に祝福あれ、
  そして私の心臓にまで達したあの傷に。

  祝福あれ、多くの声
  私がラウラの名を何度も叫んだあの声に、
  そしてため息と涙とあこがれに。

  また祝福あれ、すべての恋文に
  ただ彼女のことだけを胸にわずらい、
  彼女だけしか見ることのできない私の想いに。




確かに、哀れなフランチェスコの悩みは私たちの涙を誘うところもあります。たとえば、フランチェスコは常にラウラのことを心に留め、しかも彼女に一切見返りを求めてはいません。ただ、彼女を賛美することだけに生涯を捧げているわけです。ところが、アウグスティヌスはその一見けなげなフランチェスコの愛を容赦なく罵倒し、断罪します。




「きみの現在あるは彼女の賜物と思っているのなら、きみはあきらかに嘘をついている。だが、現在のきみ以上になることを彼女が許してくれなかったと思っているのなら、真実を語っている。」(『我が秘密』近藤恒一訳、岩波文庫177ページ)




繰り返しになりますが、フランチェスコは自らの思いを遂げることもないまま、そのことに愚痴を言うでもなく、ただ彼女を賛美することのみに命を捧げ、しかも後世の私たちを感動させる詩を残しています。したがって、次のようにフランチェスコが叫ぶのも当然でしょう。




「わたしがあなたに、いつ、どんなことをしたからというので、わたしのいちばん美しい関心事を奪りあげ、わたしの魂のいちばん晴朗な部分を永遠の暗黒へ断罪しようとなさるのですか。」(上掲書160ページ)




「じっさい、青年期のわたしがひたすら望んでいたのは、ほかでもなく、わたしの好きな唯一の人である彼女にだけ気に入られたいということでした。この望みを達成するためにわたしは、ご存じのように、おびただしい悦楽の誘惑をしりぞけ、どれほど多くの心労や苦労を進んで引き受けたことでしょう。それなのに、彼女を忘れよ、あるいは愛するのをひかえよとお命じなさるのですか。」(上掲書176ページ)




しかし、アウグスティヌスは容赦なく断罪します。




「不幸な、こんなことをしゃべるくらいなら、黙っているほうがどれほどよかったことか! たとえ黙っていても、きみのそういう内面を見通していたことだろうし、それに何よりも、こんなにしつこい主張そのものが嫌気や吐き気を催させる。」(上掲書176ページ)





このように、アウグスティヌスは無情にもこの哀れなフランチェスコから「たった一つの希み」まで奪おうとします。



けれどもアウグスティヌスにはわかっているのです。フランチェスコの魂は彼自身が考えるよりも遥かに高貴で可能性に満ちたものであることを。そして、一人の女性を愛しすぎたために、如何に視野が狭くなり、自らの可能性を閉ざしてしまっているかということを。これを鑑みるならば、アウグスティヌスの処置は常識的に考えても決して不当とは言えません。




「創造主愛するゆえにあらゆる被造物を愛するべきであるのに、きみは逆で、被造物である彼女の魅力にとらえられ、正しい仕方で神を愛しはしなかった。神は万物のうちで彼女より美しいものは何ひとつお創りにならなかったのように、神を彼女の創作者としてたたえたにすぎない。ところが、肉体の美しさは美のなかでは最低のものだ。」(上掲書180ページ)





明らかにプラトン主義を匂わせる表現ですが、現代的に言い直すならば「あるものをあるがままに愛するのではなく、ただ一つのものだけに着目しそれを偏愛するのは到底それが何であれ正しく愛しているとは言えない」という程度の意でしょうか。




「同時に考えてみたまえ。彼女はしばしばお高くとまり、つれない高慢な態度をとり、そしていくらかやさしいことがあっても、それはつかのま、夏のそよ風よりも移ろいやすかったことか! きみはどれほど彼女の名声を増大させ、彼女のほうはきみの生から、どれほど多くをひそかに奪り去ったことか。きみはどれほど彼女の評判を気づかい、彼女のほうはいつも、きみの身のうえにはどれほど無頓着であったことか。」(上掲書231ページ)




全くみもふたもありません。実際、ペトラルカのような愛がラウラにとって何だというのでしょうか? 所詮は一人の女にすぎない彼女がおびただしい彼の作品を見て涙でも流してくれるとでもいうのでしょうか? それはあまりにも図々しく独りよがりな願いだと言わなければなりません。




 したがって、哀れなフランチェスコに同情の念は禁じえないとしてもそれでもどうしても最後、筆者には次の点が腑に落ちません。



 つまり、ペトラルカほどの人がなぜ、ある意味では私たち凡夫と同じ悩みをこれほどまでに執拗に持ち続けたのでしょうか?



 実際、『我が秘密』を読む限り、恋人ラウラがペトラルカにそれほど関心を寄せた様子はありません。つまり、いくら読んでも(つまり、彼女が美しいという以外に)ラウラが具体的にどのような人物であったのかがさっぱりわからないのです。



このため、研究者の間では「ラウラは本当に実在したのか?」という疑問まで提起されているようです。



しかし、仮にラウラが実在しないとすれば、ペトラルカは本当に気違いということになってしまうでしょうし、彼の膨大な賛歌は彼の妄想の産物以外の何ものでもないということにならざるを得ないでしょう。



確かに、恋人の方では何の関心もないにも関わらず、それゆえに掻き立てられるような恋の炎、一切を捧げたにもかかわらず、そこにあるものは自ら自身の影でしかないようなドッペルゲンガ―という(シューベルトの歌曲の詩などにありがちな)「古典的」な恋愛問題にぺトラルカもまた置かれていたというのは間違いないでしょう。



しかし、それだけだとは到底信じられません。やはり、ペトラルカはラウラをよく知っていたはずですし、普通の凡夫が持つような思いやりも持っていたでしょう。



結局、『我が秘密』においてラウラの描写が抽象的で無性格的に描かれているのは、彼女の存在がペトラルカにおいて真理の女神と重ね合されているというそのこと自体に理由を求めざるを得ないようです。


もちろん、ラウラ自身は真理の女神ではあり得ません。両者を同一視してしまったことはペトラルカの最大の愚かしさ以外ではないでしょう。しかし、これは不可避的な同一視ではなかったでしょうか。


なぜならば、ラウラなくしてはペトラルカにとって真理の女神が臨在することがなかったということもまた真実でしょうから。



「愛する」とか「賛美する」というのは人間の(エゴイスティックな)本質に根ざした極めて具体的なあり方なので、第三者的な客観的な評価というものがあまり意味をなさない領域ということもあるでしょう。そもそも、この聖なるエゴイズムとでも呼べそうな心の領域を断罪できる人間は神以外にあるはずもありません。(アウグスティヌスは真理の女神に任命されてこの役を買って出ていることに注意。)



ペトラルカがそこまでラウラを愛さずにはいられなかった最大の理由、それは結局彼の詩作の情熱とその葛藤における哲学的な精神から理解が求められるべきなのではないでしょうか。



実に、自らが何も生み出すことなく他人の愚かさを断罪したり、笑う者には決して彼の「秘密」は決して共有しえません。また、単に過去の遺産の上に安住し、他者との気楽な会話だけに終始する凡俗の輩も同様でしょう。つまり、このことは人が人を理解できるか、という問題でもあるのです。



そして、詩も哲学も共に「人間がそこからしか立ち上がることができないような究極的な価値」「一切を動かすアルキメデスの点」を求めています。



両者の葛藤から見えてくるもの、それは人間存在そのものの真実にほかならないように筆者には思えてなりません。







(No47)
  平和が見つからず、さりとて戦う気にもならず、
  恐れ また希望し、燃えては氷となり、
  空高く飛ぶかと思えば地上で凍える
  何も持たないが 世界を抱いている

  僕を牢獄に入れ、開放しなければ閉じ込めもしない。
  自分のものだとも言わず、だが縄は解かず
  殺しもせず、愛は 自由にもせず、
  生かしておこうともせず、枷をはずしてもくれない。

  目がないのに見ようとし、口がないのに叫ぼうとする、
  死を望みながら、命乞いをし
  自分が嫌になりながら、他人を愛している。

  苦しみを糧として、泣きながら笑い、
  死も生も同じようにいとおしい、
  こんな私にしたのは、奥様、あなたなのです。




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