(前回のモンデル教授の講義)

 

レクチャー1

「嘘」と言い逃れ

 

 
 

 

 
赤塚不二夫「いまの若い人って、かたちからものをおぼえていって、
 

モンデル「そう、そのとおりだ。純粋理性とは、どんな外部条件にも左右されずに自分自身に適用されるものをいうが、自律といえるためには、どうして?などの原因となるこの自らに課す格率となる動機(理性)が重要になる。

 これを岩崎武雄氏は原理的価値判断と呼んでいるが、、プロンプターを見てその通りに喋るだけでは、自律とは呼べない。

 もし、プロンプターに間違ったことが書かれあったとしてもそのまま読み上げるのか?という話だ。これは『やらせ』にも通じる問題なんだ」
 

 
モンデル「具体的事物についての価値判断をする上で、その前提となる原理的価値判断自体が存在しないなら、唯物論者や『もやウィン』がいうように、『在るから思う』と在るがままを善悪の区別なく受け入れるしかなくなってくる。つまりそれが真実である必要がさして重要ではなくなるんだ。」

 
カリントウ「原理的価値判断があったとしても、帰結主義的倫理学に属する考えなら理性に反することでも正当化しますよね?」
 
 

 モンデル「そうだね。帰結主義的(目的論的)倫理学ではマキャヴェリズムに代表されるように目的のために手段を選ばないので、原理的価値判断と矛盾しても手段を正当化してしまう。

 だから、やらせや嘘のように、具体的事物についての価値判断を誤らせる情報でも帰結主義的倫理学に属する考えでは正当化される。

 カントも『それが(嘘が)間違っている理由は、帰結を考慮に入れ始めると、定言命法に例外を設けなければならなくなり、道徳の枠組み全体を諦めることになってしまうからだ』と述べているが、彼は、原理的価値判断と矛盾することを容認することで枠組み全体を諦めることに繋がることを危惧している。

 また、『行為の帰結はわれわれの力・予測の範囲外にあると指摘し、よかれと思ってつく嘘でも実際に思い通りのよい結果を生むかどうかは、たぶんに偶然性に左右される。当人の力の外にあることに対して責任を問うても無意味である』とも述べている。

 嘘や原発や戦争でもそうだが、結果がどうであれ、そこに巻き込まれ被害にあう人々のことを道具的理性でみて、自己の利益を目的に、人間を目的自体であることを考慮しなければ、悲劇は繰り返されるのではないかと思う。(拍手)