社会ダーウィニズムの優勝劣敗、弱肉強食、生存競争の世界観では、劣った人間は優秀な人間のために犠牲になることは必然的な帰結である。

 必然的な帰結のはずなのに牛でも涙を流す。

アホだからこの道理がわからないのだろうか?。 

 

 屠殺を逃れた牛は喜んでいるようにも見える。人間のために死ねなかったことが悔しくないのだろうか?。

 このような感想には違和感をおぼえる人もいるだろうが、『天皇の御ために身命を捧げることのできない人間は日本人じゃない!』という見解は、『屠殺されることをなぜ喜ばないんだ!』という見解に近いものを感じる。

 社会ダーウィニズムの思想に染まった戦前・戦中の日本※においては、国民は学習能力や考える能力が劣ると見なされたため、何も考えずに上の命令には黙って従い、犠牲になることを強いられた。

 丁度、ロックフェラーが「バラの一種である『アメリカ美人』は、周囲に生長している若芽を犠牲にして初めて、見る者をうっとりさせる絢爛さと芳香を持った花に育てることができる」と述べたように…。

 このような見解に納得して忠誠を誓い、自ら犠牲になるのなら美談かも知れないが、このような見解を支持するのは大抵犠牲にならない側の人間だ。これはスペンサーが初めて社会ダーウィニズムを唱えた頃、支持したのは強欲な資本家ばかりだった事実からもわかるだろう。

 アダム・スミスは『胸中の公平な観察者』ということを言っているが、ミラーニューロンの働きにより、人間は他人の痛みや苦しみを理解することができる。しかし、社会ダーウィニズムのように他人の痛みや苦しみを理解せず(理性を否定し、相手を見下して無に等しいとみなす)、犠牲を強いることが公平と言えるだろうか?。

 社会ダーウィニズムに対し、納得できず、苦しむ仲間を助けようという感情を抱く人が出てきても不思議ではないだろう。

 社会ダーウィニズムを支持する者の中にもそのような感情は正しいと思う者がいるかも知れない。しかし、社会ダーウィニズムを支持する人間は、「それは同じ人間だったら正しいという感情だ」と反論することだろう。なぜなら豚や牛の命乞いに耳を貸すような真似をしていたら、腹を満たすことができなくなるからだ。ご主人様の言うことに反発し、苦しむ仲間を助けようとする感情を抱く家畜には鞭あるのみだ。かくしてミノタウロスの皿にのることを喜ぶ家畜のような国民ができあがる。

 

 そしてご主人様のために身命を捧げることが正義と位置づけられる。だが、それが正義と位置づけられるからと言って、このような犠牲に怒りを抱いたり、異議を唱えたり、犠牲になることに疑問を感じる人間は本当に日本人じゃないのだろうか?。

 

 

 

 

 

 

 

※社会ダーウィニズムの思想に染まった戦前・戦中の日本

 

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