碧海純一著『法と社会』にこんなことが述べられている。

【一九四五年以前の日本の「少国民」がどのようなイデオロギー的雰囲気の中で育てられたか、ということを想起してみれば、このことは非常に明白である。小学校では、「修身」の時間ごとに、先生から「君の恩、親の恩」についてきかされ、家庭で読む少年雑誌も「忠君愛国」的読み物で埋まっている、というような雰囲気での少年の人格形成がどんなものであったか、またこのような社会化の過程を経て「人となった」善良な老若男女が八月十五日の敗戦とそれにつづく国民的価値体系の革命に直面して、どのような精神的虚脱状態を経験したかは、後世のために詳細にドキュメントしておくべきことであろう。】
他方、ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ著『神話の力』にはこんなことが述べられている。
【(キャンベル)私は二十世紀を生きてきましたが、子供のころ、まだわが国の敵ではなく、かつて一度も敵であったこともない国民についてなんと言われたかを憶えています。その国民を潜在的な敵と見なし、彼らに対するわが国の攻撃を正当化するために、憎しみとデマと侮辱のキャンペーンが始められていました。いまでもそれが耳に残っています。
(モイヤーズ)しかし、私たちは神は愛なりと教えられています。先生はかつて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となれるように。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」という聖書の言葉を引いて、キリスト教のなかでこれが最高の、最も高潔な、最も大胆な教えだと言われました。】
日本でのドキュメントの一例としては、河盛好蔵氏の「人と付き合う法」という著書の中の一節が良い例ではないだろうか?。
【私は昭和19年1月から終戦の時まで、海軍大学校研究科事務嘱託というのを勤めていた。初めて学校へ出たとき、教頭の某少将から、「君がこれからやる仕事は軍の機密に関することが少なくない。したがって交友関係には十分注意してほしい。できるなら、これまでの友人とのつき合いをやめてほしい」と申し渡された。これにはびっくりした。しかし私の命じられた仕事は、海外の雑誌や新聞の翻訳やダイジェストを作ることで、軍の機密とはなんの関係もなかったが、場所が場所だけに、深刻なニュースがどこからともなくもれてくる。しかし、そのような悪いニュースは、たとえ本当のことであっても、自分で信じたくない気持があるのであろう、口にすることが恐ろしかった。私は流言をきくことも、飛ばすことも好きな方であるが、あまり本当のことばかり耳にするようになると、かえって口が固くなったから不思議なものである。そのころ、往来で親しい友人に会ったことがある。彼は空襲で家を焼かれて、着のみ着のままであったが、意気軒昂たるものがあり、「今に連合艦隊が出撃してやっつけてくれるよ」と確信ありげに話していた。私はそのとき、「連合艦隊などはとっくの昔になくなっているよ」と口のさきまで出かかっていながら、だまって手を握っただけで別れた。いかにも友達甲斐がないようであるが、私としては、そんなことを、したり顔にしゃべって何になるという気持だった。その場合、もし私が友人の立場にいて、「バカだなぁ、連合艦隊なんて一隻も残っていないよ」と言われたら、たとえそれが本当であっても、きっとイヤな気がしたろうと思う。それはともかく、人の知らない秘密を自分だけが知っていて、しかも、それを他人に絶対にもらしてはいけないということは、私などにはとっては堪えがたいことである。そんな重荷は最初から背負いたくはない。】
他方、アメリカでは、マイケル・サンデル教授が1950年代のドキュメンタリーの1場面を教室で紹介している。
タイトルは「獲得すべきものを見据えて」。これは一九五〇年代のアメリカ南部を取り上げた作品である。
当時、南部には「人種分離」を、社会の共通認識である伝統だと考える人々がいた。
サンデル教授は、映像が流される前に、「彼らが、忠誠心と伝統について話しているのを聞くと、正義の議論を、ある時代のあの社会において広まっている共通認識や伝統に安易に結びつけてしまうことに対して、君たちも不安を感じるのではないだろうか。では映像を見てほしい」と述べている。(映像が流される)
【ハンター】
この土地には 白人と黒人 二つの文化があります。
生まれてから今まで両方を身近に感じてきました。 しかし今~
「私たちのしてきたことは虐待であり変わらなければならない」と言われている。
変化は思っていたよりずっと早く始まっている。新しい考え方で決めろと言われても
私にとって
そしてすべての南部人にとっては難しい。
(以上)
ここで現代日本の状況を見てみよう。
以前からもヘイト本が書店にたくさん並んでいることを書いてるが、日刊ゲンダイ(8月1日発行)の「今日の新刊」というコーナーでもこんな本の紹介があった。
「フェイクと憎悪」永田浩三編著
今、ネットや書店に、他者を傷つけることが主眼の憎悪があふれている。官邸がリークしたが産経新聞が掲載を見送った、前川喜平前文科省事務次官の出会い系バー問題を、読売新聞が記事にした。マスコミの政権との癒着を疑われてもしかたがない事例だ。
 書店の棚には「嫌中」「嫌韓」本が並ぶ。出版不況下で出版社が「売れるコンテンツ」として嫌韓本やネット右翼系のヘイト記事に飛びついたという。保守論壇は劣化し、安倍政権に批判的な論客は姿を消して、安倍の応援団的な者が重用されている。ジュンク堂書店の店長は、ヘイト本があふれているという現実を可視化するためにあえて棚に並べている。
   ジャーナリストや研究者がマスコミの危機に警鐘を鳴らす一冊。
  (大月書店 1800円+税)
戦前の日本とそっくりの状況だが、これは書店だけではない。
現在私のブログに「いいね」してくる人の中でも、読んでみたらヘイト本同様のヘイトスピーチを繰り返している人がいる。
現在の日本のネットでは、この人と同様に歴史をリフレーミングしている内容の記事をよく見かける。

こういう人たちに共通しているのは、日章旗とか国歌というような形式的な伝統を一九五〇年代のアメリカ南部の人々のように安易に正義と結びつけているということだ。
マイケル・サンデル教授は、「人間は正義より、連帯(コミュニティー)の忠誠心を優先する傾向がある。それは、その選択の方が連帯の利益になるし、そのコミュニティーに依存する自分にとっても利益になるし、義務と呼べるものにまでになっているからだ。」と述べているが、これは例えると、カエル先生の話みたいなものだろう。
 
(つづく)