自由民権運動の盛り上がりにより「自由・民権」の思潮を無視できなくなった明治政府は、明治14年の詔勅をもって、明治23年には国会を開設する旨を約束するに至った。この「期限を切っての国会開設約定」は岩倉具視をして『数年ヲ出ズシテ上下顚倒、秩序紊乱ノ覆轍ヲ踏ムベシ』と言わしめて、同人を心配かつ嘆かせた、と伝えられているが、明治憲法とは、自由民権という「下からの声」を押さえこむためにつくられたものであり、その内容は権力集中制と国家無責任の原則を軸として、支配獲得説の帝国主義的国家観(社会ダーウィニズム)により天賦人権(基本的人権)を否定するものであった。

 
 
 

「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民は、その内容に大きく失望しているが、1887年(明治20年)『三酔人経綸問答』を発表してこう述べている。

彼はこの中で、民権を大きく二つに分けている。
一つは、「恢復(=回復)的民権」と呼ばれる、イギリスやフランスのように人民が自らの手で民権を勝ち取る形態、もう一つは「恩賜的民権」という、為政者から恵み与えられた民権である。
この分類によると、日本の民権はいわゆる恩賜的民権である。それ故に兆民は、日本が取り組まなければならない課題は、まず第一に恩賜的民権を発展させ、人民の努力によってそれを恢復的民権へと変革していくことであると述べた。
兆民は、この課題をスムーズに進めるためには、目の前の利益ばかりを追求するのではなく、それぞれの人民が深く思索するような風潮作り、すなわち、皆が哲学する世の中に変えていかなければならないと主張した。
中江兆民は著書『一年有半』においても、「我日本古より今に至る迄哲学無し、……哲学無き人民は、何事を為すも深遠の意無くして、浅薄を免れず」と述べているが、哲学するとはどういうことか?。
哲学するとは「Xとは何か?」という真理を探求(考える)ことであるが、真理というのは、命題ないし言明がもつ属性である。
あるものについてあるといい、ないものについてはないというのが真理であるとアリストテレスは定義している。
命題「PならばQ」が真となるのは①Pが真でQも真②Pが偽であってQは真か偽かはどちらでもよいの2つの場合である。
仮定Pが真であればフレーム(枠組み)をつくれるが、仮定Pが偽であれば結論Qは真か偽かどちらでも命題は真でありフレームが崩れる。
帰納的推論と演繹的推論の違いは未来の時点において不確実か確実かという点において顕著にあらわれる。
そのため「嘘は許されるのか?」ということが問題になるのだが、ここでハーバード白熱教室【下】の第7回の一節を見て見よう。
ハーバード白熱教室ではフランスの哲学者、バンジャマン・コンスタンのカントに対する反論が紹介されている。
「嘘をつくことを完全に禁止するのは間違っている。それが正しいはずがない。」もし殺人犯が、君の家に隠れている友達を探して、玄関に現れたらどうする?殺人犯から「友達は家にいるのか?」と訊かれたらどうする?哲学者コンスタンは、「そんな場合であっても道徳的に正しいのは真実を告げることだと言うのはおかしい」
それに対しカントはこう答えた。
「それが間違っている理由は、帰結を考慮に入れ始めると、定言命法に例外を設けなければならなくなり、道徳の枠組み全体を諦めることになってしまうからだ。」
前回のブログで、フレームとリフレーミングについてご紹介しました。
心理学の世界では、一人ひとりが持っている物事を捉える枠組みを「フレーム(frame)」と呼び、この枠組みを変えることを「リフレーミング(reframing)」と呼んでいます。

出典リフレーミングとは?役立つリフレーミング一覧と事例は? - 知育ノート

中江兆民は民権を「恢復的民権」と「恩賜的民権」に分類しているが、同じ民権であってもそのフレームは大きく異なる。

前者の主権は国民にあり、後者の主権は国家にあるのだ。

ここで次の「義務を果たせば権利を主張して良い」という発言を考えてみよう。ネットでも話題になっているが、権利と義務の関係にしても難しく考えすぎている人を見かけるが、権利と義務とは、AとBが何らかの関係にある場合において、権利とはあることを要求する主体から見た場合であり、客体から見ればその要求は義務である。

少なくとも近代法においては人は物とは違うからAという人がBという人をその意思に関係なく直接的に支配するという関係は禁止されている。
ここで小林節教授の日刊ゲンダイの記事を読んでみよう。
 
「義務を果たせば権利を主張できる」という勘違い
 
自民党の若手参院議員が「(憲法上の)義務(勤労、納税、子女教育)を果たせば権利(人権)を主張して良い」と発言した。
それで行くと、失業者で子供のいない者は、参政権、表現の自由、信教の自由、学問の自由、婚姻の自由、職業選択の自由、生存権(生活保護受給権)、不当逮捕からの自由等の人権を行使できないことになる。要するに、「死ね!」と言われているに等しい。
しかし、「人権」とは、そもそも「人間」として生まれたそれだけの理由で先天的に与えられたもので、その中核にある価値は「個人の尊厳」である。つまり、人は、単に「人間であるから尊い」のであり、国家に対する義務を果たしたから尊いのではない。
その上で、誰でも、自分が正しいと思う投票行動を行い、自分らしく表現し、自分の好みに従い信心し、自分が選んだ対象と手段で科学し、自分の心に従い結婚するorしない自由を享受し、自己実現の手段として職業を選び、運悪く経済的弱者になってしまった場合には再起に向けて国から生活保護を受ける資格があり、国家権力により冤罪に追い込まれない自由等が保障されている。
その上で、それぞれ、働くことができて経済的余力が出たら納税の義務を果たし、結婚し子づくりを選択した場合にはその子を教育する義務を履行する。
ここで重要な点は、勤労の意欲があっても失業した場合は仕方ないことで、結婚と子づくりは各人の自由でそれは国家から強制されないということである。その結果、子を成さなかった者には子女教育の義務は具体化しないのである。
このような憲法のイロハ(人権の本質)も理解していない者が政権党の国会議員であることは、わが国の政治の劣化を象徴する事実であろう。
そして、その愚かな発言が非難されると即座に「誤解」だと言って釈明する。これもいつものパターンである。
しかし、これは断じて「誤解」ではない。その者が自ら天下に無知をさらして、それが正当に批判されただけのことである。恥知らずとは、そのような者を言う。
 
以上ではあるが、このような見解の相違が生じているのは自民党議員の人権に対する考え方のフレームが異なるからだ。
自民党議員は中江兆民がいうところの「恩賜的民権」の立場から発言しているのだ。
この「恩賜的民権」とは特権のことである。
ここで特権について復習しておこう。(2017年7月14日のブログ記事より抜粋)

「XがAする権利をもつ」というとき、「XはAするのを禁じられていない」と解釈される。Aすることが一般には禁じられ、Xについてその禁止が個別に解除されている場合、これは「特権(privilege)」と呼び、禁止の解除が一般化されている場合は「自由(liberty)」と呼ぶ。「~からの自由」というときはこの禁止の解除を指している。

そもそも国家が存在しなければ国家からの自由など論じるまでもなく、人はみな自由である。
(以上)

「恩賜的民権」に対し、「恢復的民権」とは、小林節教授が述べているように先天的なものなのだ。
それ故に「義務を果たせば権利を主張できる」という勘違いと小林節教授は述べているわけであるが、「恩賜的民権」だとそもそも天賦人権を認めていないから「義務を果たせば権利を主張できる」という特権的な発言になるのだ。
国家の起源について、大きく分けて次の二つの見解が存在する。
①【支配獲得説】当該地域の内部から、もしくは外部から強者が現れて、ほかの人々を実力によって支配することで国家が打ち立てられたとする見解。
②【設立説】当該地域の人々が社会の秩序を維持するために、あるいは外敵から自分たちの生活や土地を防衛するために、自らの意志によって国家を設立したとする見解。
この起源の違いにより政治の形態も大きく二つに分かれる。
専制(古代オリエントのようにただ一人の自由人たる専制君主が存在し、それ以外は皆その君主に隷属する奴隷状態の政治)
民主制(自由で平等な市民が、共通の法にのみ服従している。ポリスにおける自由人同士の結びつきこそが政治とする)
専制とは、たとえると次の漫画のようなものである。
「自由を手に入れた男」
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「男は自由を手に入れた」
 
国民はナイフを失った女のようなものである。
自由なのは男だけで、女は鎖に繫がれた奴隷と同じで男の許す範囲だけしか行動できず自由などないのである。
アベ政治ではこの許す範囲(特権)だけを自由と主張しているのだ。
これは次の発言からも分かるだろう。
 
他方、「恢復的民権」では権利の主体は国民であるから主権は国民に存在し、その権利は義務を果たせば個別に解除されるという特権の話ではない。
国民に「恢復的民権」のような主権者意識を持たせないようにするため戦前には治安維持法が存在した。
これは次の資料を読めばうかがえるだろう。
(孫崎享氏のメルマガより抜粋)
戦争をする国になる時には、言論弾圧が必ず起こる。実は第2次大戦に行く前も言論弾圧の動きがありました。『ゾルゲ事件』(現在編集段階。題名未定)執筆で解ったこと、戦争前には国内引き締めの法律制定。そして「ゾルゲ事件」のように全く犯罪性のない事件をでっち上げ戦争雰囲気盛り上げ。 ゾルゲ事件前に採択された法律の説明。
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東條が近衛追い落としにゾルゲ事件を使用したがったのは解ります。では当時の検察はどう対応しようとしたのでしょうか。「近衛グループを弾圧すべし」と考え人物が「思想課長」という要職にいます。
1939年に太田耐造が司法省刑事局第六課長刑事局第6課長についています。
彼は、1941年3月10日、治安維持法をこれまでの全7条のものを全65条とする全部改正を行いました。
彼は1941年3月、「改正された治安維持法について」の解説を行っています。
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・いま や我が国は内外共に非常なる難局に際会してゐるのでありまして、この難局を乗切つて、肇國の大理 想を顕現致す為めには、挙国一致 國體の下に固く団結致し、國體に弓引くが如き不逞の分子等をして いささかも乗ずる間隙を与へないことが、最も肝要であると存じます。
・我が國體の変革を企てるやう な不逞分子に対しては、徹底的検挙を行ひ、改悛の情なき場合には厳罰を以て之に臨み、なほ悔悟しない者は、之を社会より隔離し得るやうな法律なり、制度なりを整備することも、また極めて必要の事柄であります。
・結社の程度に達しない集団に関する処罰規定を設け、さらに宣伝その他國體変 革の目的遂行に資する一切の個人 行為を取締るべき包括的規定、類似宗教団体に関する処罰規定等をも新設し・・・。
・第三章は、予防拘禁に関する規定でありますが、その骨子は、非転向の思想犯人を、裁判所の決定に依り、予防拘禁所に収 容することが出来る。本人悔悟せず、拘禁継続の必要が存する限り、二年の期間はこれを何回でも更新し得ること になつて居るのであります。
・かやうに、場合によつては、本人を一生涯でも拘禁し得るやうな制度が設けられましたのも全く思想犯罪の特質に基づくものでありまして、これを実情に徴します るに、一旦感染した思想はなかなか払拭することが難しく、転向を肯じない詭激分子は、これを社会より隔離して、悪思想の伝播するのを防止し、一面強制の方法によ つて、思想の改善を図り、忠良なる皇国臣民に立帰らしむるの必要があるからであります。

 今一つは国防保安法です。秋山要・司法省刑事局長が「国防保安法の施行」と題し解説を行っています。
「・近代戦の特色は、国家総力戦たる点に在る。従つて、総力戦下に於ける諜報活動の目標は単に軍事上の秘密に止ることなく、広く外交、財政、経済等各般の事項に及ぶ。
・我国は支那事変を遂行しつゝ東亜新秩序の建設に邁進。我国に対する敵性国家の秘密戦が今後愈々熾烈化する。
・我国の法制は従来斯様な国際的秘密戦に対処するに付き、遺 憾の点が尠くなかつた。即ち之を刑罰規定に就いて見ますならば、軍事上の秘密以外の国家的秘密を保護すべき直接の規定に乏しく、外国の行ふ宣伝謀略を防止すべき法規亦不備。
・第一条に依れば国家機密とは、 国防上外国に対して秘匿することを要する外交、財政、経済その他に関する重要なる国務に係る事項。
・国家機密は前述の通り、最高度の機密でありますから、官吏其の他業務に因つて国家機密を知得領有する者が之を漏泄することを厳重に取締ると共に、外喋又は其の手先の活動を抑圧すれば概ね防諜の目的を達し得る。仍て本法は先づ業務に因り国家機密を知得領有した者が之を外国に漏泄又は公にした場合に於いて最も重い刑を以つて臨み、更に外国に漏泄し又は公にする目的を以て国家機密を探知収集した者其の者が国家機密を外国に漏泄し又は公にした場合に対し重い刑を規定してゐる。(以上)
 
民主制において禁止されるものはフィリア(深く理解しあい共通の価値へ向けて互いに励ましあう友情)や黄金律「自分が人からしてもらいたいことを人にせよ、自分が人からされたくないことは人にするな(治者と被治者の自同性)」によって導き出されるような公平を要件とする共通善(共通の利益)に違反することである。
しかし、資料を読めば、共通善(カント的に言えば調和)からかけ離れ、国民の意志など無に等しいとみなしていることがわかるだろう。
(´・ω・`)以前「至難の業」というブログ記事で政治家が道路などのインフラ整備でよく使う「論法」として「ハゲの帰納法」をご紹介しました。

頭の毛がないのはハゲである。頭の毛がK本の時もハゲである。それに1本加えた程度でハゲにかわりない。つまりK+1本もハゲである。この考え方に基づけば、髪の毛を1本ずつ増やして、何本にしていこうと、人間全員ハゲだと結論できる。

この帰納法を論破するのはなかなか厄介で次の例を考えてみて下さい。

タバコを一本吸っただけで死ぬことはない。すでにタバコを吸っている人が一本よけいに吸ってもその一本が原因で死ぬことはない。ゆえに何本吸ってもそれが原因で死ぬことはない。

(=_=;)この例でどの一本のタバコが原因死んだのか証明するのは至難の業だろう。

安保法案ではこの論法で国民を煙に巻いていたが、今ではハゲをフサフサと呼び、煙草は一本でも死ぬ、軍国主義を積極的平和主義と呼び全く逆になってしまっている。
同様に国民主権から国家主権に憲法改正されてもいないのに、すでに改正されているかのように振る舞っているのだ。
リフレーミングといえばそれまでだが、命題「PならばQ」が真となるのは①Pが真でQも真②Pが偽であってQは真か偽かはどちらでもよいの2つの場合であるように、そのようなリフレーミング(解釈)を許せば、カントが指摘したように、前提が真でなければ成立しないフレーム(枠組み)全体を諦めることになってしまうのだ。
だがしかし、皆に考えてもらいたい。自民党議員は現行憲法(仮定P)を偽としてしまい法律(結論)を何でもありとしてしまっているが、そもそも法とは真であることを前提に守られるべきものであり、そのような違反が許されてよいのか?ということを…。