私事で恐縮ですが、今春、生命保険会社より新しいプランに契約をやり直すと、毎月の掛け金が安くなるとの提案を受けました。但し、その為には健康診断を受けて健康体であることが証明されなければならないとの事でした。

私は不摂生の為、コレステロール、γGTP、中性脂肪が基準値を相当オーバーしている事が分っていましたので、何とか一ヶ月間で上記数値を基準値内に下げ健康診断をパスする術は無いかと考えました。

そこで私はこの時、『ビールは一日一本以内にし、土曜日・日曜日はアルコール抜き。朝食はご飯と味噌汁ですが、昼食・夕食はお米の御飯を食べない。麺類や魚肉などおかずは従来どうり。』とのルールを決めました。

そしてこれを一ヶ月間を続けたところ、体重は6kg下がりコレステロール、γGTP、中性脂肪も基準値内に下がり、目出度く保険の再契約が出来、掛け金も安くなりました。

こんな話をして、お米が体に良くないのではないか等と言う気持ちは毛頭ありません。私の症状などは贅沢病で、むしろ、お米が人体に如何に影響力を持っているかを再認識した次第です。

そこで、農耕を始めて以来、何千年間にわたり、世界の人々を育んで来たお米に対して想いを寄せて見ました。


1: 「お米を食べろ。」と言ったイラクのフセイン元大統領の政策


イランがホメイニ革命で反米化し、アメリカ大使館を占拠され、大使館員が人質になってしまいました。アメリカはサダム・フセインに支援策を提示し、イランへの侵攻をそそのかし、8年間に及ぶイラン、イラク戦争が始まりました。

1986年イ・イ戦争最後の激戦バスラ攻防戦ではアメリカの支援を得たイラクの空軍は圧倒的に優勢でありながら、地上戦では人海戦術で押し戻され、最終的にイランを屈服させる事が出来ませんでした。

この激戦の後、サダム・フセインはイラク国民に 『ナン(パン)を食べるのを止めて、米(コメ)の飯を食べろ。』 と言い出しました。イラン人は羊肉と乳製品の他に米(コメ)を食べ、イラク人はナン(パン)を食べますが、人口はイランが5000万人、イラクは1500万人です。サダム・フセインは地上戦の人海戦術になると、アメリカの支援を得てもイランを屈服させられないのは、コメを食べないためイラクはコメを食べるイランより人口が少ないせいだと考えたのです。

世界の人口は中国、印度などアジアの大半、スペイン・南米・アフリカの一部、等のお米を食べる国の人口が世界の全人口66億人中40億人を占めています。サダム・フセインはイラク国民にお米を食べさせることにより人口増加を図ったのです。

このお米に豊富に含まれるアミノ酸の一つにアルギニンがあります。このアルギニンは鮭の精子の85%を占めオスの生殖に関連があることは知られていました。最近になってこのお米より取り出したアルギニンを23人の男性不妊患者に継続投与したところ21人の患者に精子の増加が認められたとの報告が出されています。お米を食べると含まれるアルギニンが精子の製造を活発にすることになるそうで、これは他のアミノ酸には見られない現象だそうです。

サダム・フセインの政策もまんざらの思い付きでは無かったのかもしれません。


2: 日本の人口の推移・・・弥生時代より増え始めた人口


日本の縄文時代・弥生時代と連なる人口の推移は色々な説がありますが、一般的に発表されている人口の推移を下記に記してみます。


①縄文時代    現代より8100年前           20,000.人

            中期                   260,000.人

            末期                    70,000.人

②弥生時代    紀元前500年頃より

            中期                    600,000.人

            末期・古墳時代 AD300年    1,000,000.人

③奈良時代     AD700年              4,510,000.人

④平安時代     AD900年              5,500,000.人

⑤関が原の戦い  AD1600年            12,200,000.人

⑥江戸時代 中期                    32,000,000.人

⑦明治5年      AD1872年           34,800,000.人

⑧昭和42年     AD1967年          100,000,000.人

⑨現在        AD2008年           127,000,000.人


縄文時代(現代より約8000年前~2500年前の5500年余りの間)は日本の人口は主に関東、東北地方に集中し、近畿以西の人口は東国の五分の一程度であったと言われています。

上記のように日本全体でも人口は数万人、ピーク時の縄文中期でも26万人と推定されます。

このように縄文時代、約5500年の間、僅かな人口しか居なかったのに、弥生時代になって先ず西日本に稲作が始まり、西日本の人口が圧倒的に多くなりました。

その後、稲作は東国にも広まり、古墳時代の始まる頃には日本の人口は100万人を超えるようになっていました。

この様に稲作は弥生時代より始まり、お米は日本の人口を飛躍的に増加させる原動力に成っていたのです。


3: 太陽神と稲作


天孫降臨の神話では天照大神は高天原で作った稲を二二ギノ命に与え日本へ行って米を作るように命じました。

その後の皇室の永い歴史を通して、稲作に纏わる祭祀は大嘗祭、新嘗祭等、最重要祭祀となり、世界に類例の無い日本の伝統として、歴代の天皇に引き継がれて来ました。

そして日本書紀等では日本の国土のことを「豊葦原瑞穂の国」、つまり葦が豊かに生い茂り、みずみずしい稲穂の実る国と自称しています。

そして米を実らせるため、太陽が生命のエネルギーを与える訳です。

          天照大神

          卑弥呼(日御子・日巫女)

          東大寺大仏・毘盧遮那佛(ビルシャナブツ・呉音)

          真言密教・大日如来・毘盧遮那佛(ヒロシャダフ・漢音)

上記太陽神をイメージした宇宙観に基ずく神仏はそれぞれを同一視する学説や、共通の起源とする説があります。

又、ペルシャ(イラン)のゾロアスター教の最高神アフラ・マズダが大日如来の起源に連なるかどうか等の議論もされています。

日頃、無信教と思われている日本人が正月になると、全人口の80%以上の人々が神社や寺院に初詣に出掛けます。

これは外国人から見ると異様な光景に映るそうです。

今年の初詣参拝者数の全国上位は下記の通りです。

     一位 明治神宮    312万人      皇室先祖神

     二位 成田山新勝寺 290万人      真言密教

     三位 川崎大師    287万人      真言密教

     四位 伏見稲荷    270万人      稲荷神

     五位 熱田神宮    235万人      皇室先祖神

日出ずる瑞穂の国の日本教の信仰の対象となる神仏とは如何なる存在なのでしょうか。


4: 米(コメ)神話の功罪・・・陸軍医監 森鴎外の誤診


脚気は日本にしかない病気で元禄~享保年間に江戸で大流行し、文化年間に大阪で大流行した記録が見られ、「江戸煩い」、「大坂腫れ」と呼ばれました。

この頃より米食が玄米又は半つき米から精白度の高い白米に移行した為と思われます。

13代将軍徳川家定は1858年35歳で脚気のため死亡しています。明治天皇の伯母に当たる静閑院宮(和宮)も脚気でなくなり、和宮の夫の14代将軍徳川家茂も1866年20歳で脚気で亡くなりました。明治天皇も西南戦争の頃、脚気を発病し、その後治癒されました。


海軍では明治11年(1879年)の時点で総人数4528名の内、脚気患者が1485名、脚気による死亡者32名となりました。

明治15年(1883年)艦艇「龍驤」が10ヶ月間の遠洋航海を行った際、乗員371名のうち160名が脚気を発症し25名が死亡すると言う事態も発生しました。

明治17年(1885年)英国留学帰りで「脚気栄養失調説」を取っていた海軍軍医高木兼寛は重臣や明治天皇への拝謁を行い、兵食の洋食化(パン、肉食)の実施の了解を取り付けました。そして、艦艇「龍驤」に前回と全く同じコース、同じ期間の航海をさせ、全乗員に洋食を与えることにより、乗員334名のうち脚気罹病者15名、死者ゼロ名と言う画期的な成果を得ました。

この結果、その後海軍ではその「脚気栄養説」に基づき、予算の都合や、パン食を嫌がる兵士のため洋食の代わりに麦米混合の主食を与えるなどとしましたが、献立の栄養価に配慮することにより、脚気問題は解決しました。


陸軍では近衛連隊(東京)、歩兵八連隊(大阪)など大都会に駐屯する部隊を中心に脚気の被害が広がり、罹病率が30%を超える部隊が出てきました。

この時、大阪陸軍病院長の堀内利国軍医大佐は栄養、環境ともに劣悪なはずの刑務所にいる囚人に脚気患者の極めて少ない事に着目し、その原因を麦や大豆を与えていた刑務所の食事にあると考えました。

明治17年(1885年)より、大阪八連隊の兵士に麦飯を配膳したところ、前年まで30%を超えていた脚気罹病率が1.3%まで低下すると言う成果を得ました。

この大阪八連隊の成功の結果は全国の部隊に知れ渡り、ほとんどの部隊で麦飯が採用され、陸軍からも脚気はほとんど駆逐されました。


脚気問題は陸海軍ともに現場の各部隊サイドでは解決していたのですが、戦時の出征となると、食料他の補給は中央の大本営より受け取る事になります。

陸軍は石黒医務局長、森林太郎(鴎外)等の東大医学部卒業者が「脚気細菌説」を唱え、海軍医監高木兼寛の「脚気栄養失調説」を非科学的と激越な言動で罵倒し、日清戦争・日露戦争共に白米を支給しました。

海軍は高木軍医監の意見に従い、米麦混合で支給しました。


その結果日清戦争では陸軍では脚気患者は4万1431名にもなり、戦闘による戦死者977名に対して、脚気による死亡者は4064名と言う悲惨な結果となりました。

海軍は日清戦争では米麦混合支給のため、脚気発病者34名、死亡者0名でした。


日露戦争では陸軍は脚気患者25万人、戦病死者3万7200人中、脚気による死亡者は2万7800人(約75%)でした。日露戦争では屍の山を築いたと言われる旅順戦等含めて戦闘による死者4万6400人に対して、脚気による死者2万7800人は真に悲惨な数字と言わざるを得ません。

それに比して海軍では員数、条件が異なるとはいえ、米麦混合食のため脚気患者は87名、死亡者は3名に過ぎませんでした。


陸軍の森林太郎(鴎外)等は「命を掛けて戦う兵士に麦飯を食べさせるとは何事か。」との気持ちが先ずあり、ドイツ留学で学んだ細菌学の知識も影響し、臨床的に事態を判断する能力を失ってしまったのでしょうか。

海軍では主食以外の副食品(おかず)も栄養を考慮した上で現物支給していたのですが、陸軍では主食の白米支給以外は現金を支給し、副食品(おかず)は各自で買う事になっていました。日清・日露戦争に徴兵された兵士は大半が貧しい小作農の次男、三男で、白いお米を腹いっぱい食べられた事で満足し、梅干以外の副食は買わず、ほとんどのお金を故郷の父母や兄弟の養育・学費として送金していたと言われています。

日清・日露戦争において、お国のために命をかけて戦うつもりが脚気に罹り、かえって足手まといとなってしまった30万人に及ぶ戦病者、不幸にも脚気により命を落とした3万人を超える陸軍兵士達の無念さは如何ばかりであったでしょうか。

鈴木梅太郎が「オリザリン」(ビタミン)を発表(明治43年1910年)する前で、未だ脚気がビタミンB不足が原因であると分かる前の話しであったとは言え、森鴎外以下陸軍大本営の医監達の責任は重いと思わざるを得ません。

これはお米に対する日本人の思い入れの深さがこのような不幸を生んだと言えるかも知れません。


5: 終章


近年日本では人口の減少が始まり、国力の低下を心配する人も出てきています。

学校給食が御飯よりパン食になったり、日本酒の飲酒量が減り、米の消費量が減った事が、日本の人口減少の原因かどうかはともかく、弥生時代より、2500年間増え続けてきた人口が減少に転じた事は、国家安寧の為の大きなターニングポイントなのかも知れません。

しかし、一時的に人口が減少したことは戦国時代、飢饉の時、敗戦の時等、何度か体験していますので、いろんな学者が予測しているように、何年後かに日本の人口は何分の一になり、その後も減少し続けるなんて事を前提に心配しても仕方ないのではないかと思います。

それよりも、100年前に20億人だった世界の人口が現在66億人になり、毎年8000万人ずつ増加し続けている事の方が気掛かりで、こんな状態がこの地球上で永久に続けられる筈はありません。

自由・民主・平等の理念を掲げながら、戦争に訴えることなく、この世界の人口爆発に如何に対処し共存を図るかを、世界の人々と話し合い智慧を絞る事の方がより重大なテーマではないかと思います。







            


銅鐸は紀元前一世紀から紀元二世紀の末くらいまでの間に、形状、大きさ、出土地域等に変遷を遂げながら製作されてきました。

銅鐸は住居跡からの出土はほとんど無く、また、銅剣や銅矛、銅鏡、等の他の青銅器の様に墓からの出土の例は一度も有りません。

この為、個人の所有物ではなく、村落共同体や部族全体の所有物で、宗教上の祭器として使用されたものと思われます。

 平安時代に成立した扶桑略記に「天智天皇御宇七年(668年)、近江京の崇福寺建立の時、5尺5寸の宝鐸が発見されたが、それが何であるか解らなかった。」とあるが、古事記・日本書紀には一切触れられていません。

天智天皇の時代のことは記紀にはこと細やかに記述されているのに、何故銅鐸に関しては全く触れられていないのでしようか。

銅鐸は中国の銅鈴を起源とするとの説もありますが、形状が全く異なり、宗教上の祭器として、日本で独自に発達したものと思われます。その為、銅剣や銅鏡のように彼の地で刻印された文字の入ったものは一切出土していません。

又、卑弥呼が魏に使者を送り、金印と銅鏡100枚を与えられたと記載されている魏志倭人伝(239年)には銅鐸が製作されなくなってまだ何十年しか経っていないのに、全く触れられていません。このように文字・文献によって理解する術のない、神秘に包まれた出土品なのです。

銅鐸に祈りを捧げた人々は大和朝廷の三種の神祇の一つである「草薙の剣」のように妖力を持った武器か、新しい製鉄技術によって量産された鉄製武器によって攻め滅ぼされ、銅鐸と共に地下の幽界に入ってしまったのでしようか。


全国の銅鐸の旧国別の出土数は下記の通りです。


国別               出土数


出雲                50個

摂津                34個

河内                18個

大和                19個

紀伊                38個

讃岐                20個

淡路                15個

阿波                41個

近江                36個

三河                28個

遠江                29個

その他              135個          合計463個


1: 幽界に入ったとされる人々


幽界に入ったとされている人々には、大国主命、大炊皇子(淳仁天皇)、早良親王(崇道天皇)、菅原道真、平将門、崇徳上皇、等が語り継がれていますが、ここでは大国主命、菅原道真、崇徳上皇について述べたいと思います。


① 大国主命

出雲は銅鐸、銅剣のそれほど出土する地域とは思われていませんでしたが、1984年、荒神谷遺跡より銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個もの青銅器が同じ場所より出土しました。銅剣に関してはそれまでの全国出土数300個を大きく上回りました。

さらに1996年には加茂岩倉遺跡より銅鐸39個が発見されました。

これで和辻哲郎が九州を「銅剣・銅矛文化圏」、近畿地方を「銅鐸文化圏」と唱え、教科書にも記載されていた内容を再考せざるを得なくなりました。

このような出土品からも弥生末期に出雲が日本の歴史に大きな関わりを持っていたことを改めて認識せざるを得ません。

日本書紀の「第二の一書の項」に国譲りに際し、大国主命は高皇産霊尊に下記条件を示したと記されています。

    ⅰ;大国主命は以後、冥界を治めること。

    ⅱ;大国主命の宮を造ること。

    ⅲ;海を行き来して遊ぶ高橋、浮橋、天の鳥橋をつくること。

これは勝者大和朝廷側の記述でですが、青銅器を大量に所有し、大きな国の主であった大国主命は東征して来た大和朝廷により国譲りを強要され、最終的には大国主命は出雲に、最後まで抵抗した二男の建御方は諏訪に封じ込められたのであろうか。

平成12年(2000年)に出雲大社より直径1.3Mの杉材を3本組にした巨大な柱が出土しました。3本の柱の芯々間の距離から本殿規模を推定すると梁間13.4M、桁行11.6Mになり、想像を絶する巨大な神殿が実在していた事に成ります。

970年に源為憲が書いた貴族子弟の為の教科書、「口遊・くちずさみ」に「雲太、大二、京三」、(出雲大社が長男で一番高く、大和の東大寺が二番目に高く、京の宮殿が三番目に高い。)と記されている通り、当時言われていた出雲大社の高さ、16丈(48m)、東大寺は15丈(45m)を裏付ける事になりました。

大和朝廷は自らが権力を奪い取った大国主命の為に神官(出雲国造)を派遣し、何故この様なな巨大な社を建て、その後もそれ以上の高さの建物を建てることを口ずさみの歌にしてまで許さなかったのであろうか。

それは、大和朝廷は大国主命を幽界へ追いやった時、大国主命を怨霊にさせるような裏切りを成したとの自覚をしていたのであろうか。

今も出雲大社では大国主命は西(黄泉国)に向いて鎮座し、天之御中主神をはじめ大和朝廷の5神が正面(南面)の参拝者を向いて鎮座しています。

礼拝の仕方も明治政府の太政官は全国の神社の礼拝を「二礼、二泊、一拝」と定めましたが、出雲系の神社だけは「二礼、四(死)拍、一拝」を続ける事を認めました。

私は日本の怨霊の幽界の歴史はこの大国主命の物語から始まったのでないかと思います。


②菅原道真

菅原道真は藤原氏が権力を独占していた中で宇多天皇に重用され次第に頭角を現し、藤原氏に焦燥感を抱かせました。

そして藤原時平は宇多天皇が上皇に退いた後、醍醐天皇に讒言を行い、道真は右大臣を解任され、大宰府に左遷されました。

2年後の昌泰4年(901年)その地でこの世を去り、恨みは怨霊となって京都を襲ったと言われました。

先ず延喜9年(909年)道真左遷計画の主役の藤原時平が突然死したのを皮切りに関係者が次々と亡くなりました。この為、醍醐天皇は延喜23年(923年)菅原道真を左遷した詔を破棄し右大臣に復し、贈位を行う等の慰霊に勤めました。

しかし、延長8年(930年)御所内の清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫が胸を裂かれて即死し、醍醐天皇もショックのあまり7日後になく亡くなりました。

そして清涼殿落雷の事件の後から道真の怨霊は雷神と結び付けられ恐れられました。

後の永延元年(987年)一条天皇が勅令で道真公を祭るお祭りを催し、これを北野祭と称して、その後この神社は北野天満宮と呼ばれるようになりました。

天満宮系列の神社は天神さんと親しまれ、全国に14000社と神社数としては第4位の神社グループとなっています。


③崇徳上皇

崇徳上皇は父は鳥羽上皇、母は藤原璋子で、実の父とされる曾祖父の白河法皇に寵愛され、わずか4歳にして父の鳥羽天皇を退位させ、1107年に75代天皇になりました。

しかし、白河法皇亡き後、父の鳥羽上皇は22歳の崇徳天皇を退位させ、3歳の近衛天皇を即位させました。

近衛天皇が17歳で亡くなると今度は鳥羽上皇は崇徳上皇の弟の後白河天皇を即位させました。

そして鳥羽上皇の死後、崇徳上皇と後白河天皇の対立は極限に達し、保元の乱に至りました。

保元の乱は崇徳上皇と弟の後白河天皇が対決しました。

この争いの起こった根本原因は、崇徳上皇だけが御自分が母の藤原璋子と曾祖父の白河法皇との不義の子である事を、知らされていなかった為ではないかと言われています。

そして平清盛、源義朝が付いた後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳院側の藤原頼長、平忠正には平安期に入って何百年か執行されなかった処刑が実行され、崇徳上皇は讃岐(香川県)へ配流されました。

讃岐での9年間の配流生活の末、1164年46歳で失意のまま亡くなりましたが、その時「日本国の大魔縁となり皇を取って民とし、民を皇と成さん。」と言う呪いの言葉を残します。

結果的に保元の乱、平治の乱の後、天皇・公家の朝廷政治から平家、源氏による武士の幕府政治に移って行きました。この実権を失った原因を天皇や公家はこれは崇徳院の呪いの為だと思っていました。

明治維新の時、王政復古が行われました。幕府より大政奉還が行われ、元号が明治に変わる直前の慶応4年8月、朝廷の命令で勅使が崇徳上皇を祀る四国霊場第七十九番 妙成就寺摩尼珠院(神仏分離で白峰宮と高照院天王寺に分離、御陵は四国霊場第八十一番白峰寺にあります。)へ遣わされ願文が捧げられました。

そして崇徳院の神霊を移して京都まで持って帰り、神霊を祀る白峰神社を創建しました。

これは「武士に怨霊なし。」と言われる薩摩、長州の藩士達がどこまで思っていたかは別にして、天皇家や公家は保元・平治の乱以降、700年間に渡る武家の支配は崇徳上皇の怨霊によるものと信じ、それを鎮める為の手続きを取っているのです。


2:忌部氏と銅鐸


忌部氏は古来より、木綿(ゆう)、麻、織布(あらたえ)の生産・製造を行って来ました。そして玉や鏡、剣の製造管理、宮殿の造営など祭祀を司ってきました。

蘇我、物部戦争では近い関係にあった蘇我氏側に付き勝ち組になりましたが、仏教の興隆により、宗教の教義、作法に大きな変遷があり、その祭祀集団としての存在感は次第に薄くなっていったのだと思われます。

また、物部氏側に付き敗れて衰退したはずの中臣(藤原)氏が大化の改新後、政治力を発揮し、祭祀の役職をも中臣(藤原)氏に奪われるようになっていました。

この様な時、斎部(忌部)広成が平城天皇の召問に応じ「古語拾遺」を上奏しました。


この古語拾遺の中の注目点


①古語拾遺の中で広成は「天太玉命の子が天日鷲命(阿波忌部の祖)、手置帆負命(讃岐忌部の祖)、彦狭知命(紀伊忌部の祖)、櫛明玉命(出雲忌部の祖)、天目一箇命(筑紫、伊勢両国忌部の祖)である。そして、その子孫は当時も忌部神を祀りながら、夫々も地域でその職務を続けている。」と述べています。

序章の銅鐸の旧国別出土分布を見ますと、出雲や大和から突出して多くの銅鐸の出土があった訳ではありません。

それは銅鐸の時代が全国を統一し、大和や河内の巨大な古墳に葬られるのような大王の出現する以前の2世紀末までの倭の姿を示してと思います。

そして銅鐸の旧国別出土数は、第一位が出雲の50個、二位が阿波の41個、三位が紀伊の38個と上記の忌部氏の住み着いた旧国に出土数が多いのには如何なる意味があるのでしょうか。


②「天太玉命の末裔、天富命は手置帆負命(讃岐忌部の祖)と彦狭知命(紀伊忌部の祖)の2神の末裔を率いて斎斧(いみおの)と斎鋤(いみすき)を造り正殿を造営した。

天目一箇命(筑紫、伊勢忌部の祖)は斧、鉄鐸等を鋳造しその末裔たちは鏡、鋳、剣を造った。」と古語拾遺に記されています。

このように古語拾遺には金属関係の記事が多く、忌部氏が金属鋳造の専門集団を擁していたことを示しています。


③鉄鐸の記事は古語拾遺には下記のように著されています。

天照大神が怒って天岩窟に幽居し磐戸を閉ざした時、その前で滑稽な動作で歌い踊った天鈿女命が「手には鐸をつけたる矛を持たしめて」とあり、ここでは上記の天目一箇命が鋳造した鉄鐸を祭器として使っていたわけです。

このように忌部氏は舌(ぜつ)を持つ祭祀楽器としての鐸の存在を認識していたのです。

しかし、古事記・日本書紀には鐸の記載は一切ありません。何故、古い神代の昔より、日本には鐸の文化のあったことに言及しなかったのでしようか。


④忌部広成に古語拾遺の上奏を召問した平城天皇は桓武天皇の長子です。

新興貴族の藤原氏と、旧勢力の大伴家持一族が反目し、皇位継承も微妙な時に、長岡京造営の最高責任者であった藤原種継が暗殺されました。首謀者と見なされた大伴一族は処刑され、その計略に関わったと疑われた桓武天皇の弟の皇太子・早良親王は無実を主張し、絶食の末、淡路に配流される途中悶死ししました。そして代わりに桓武天皇の長子安殿親王(後の平城天皇)が皇太子になりました。

しかし皇室近親に不幸が続き、安殿親王も原因不明の重病に陥りました。

この原因を桓武天皇は弟の早良親王の怨霊のせいと恐れ、早良親王に崇道天皇の尊号を追贈しました。

早良親王の東宮侍従であった大伴家持が最終編纂者であったと言われる万葉集もその怨霊を恐れたのでしょうか、早良親王、大伴家持が共に死後赦免された後、平城天皇の御世に完成し公表されました。

上皇になった後、「薬子の乱」で天皇への復位と平城京への復都を企んで失敗され、弘仁13年(822年)東大寺灌頂院にて空海より金剛界の灌頂を授かりました。

このような波乱に満ちた人生を送った平城天皇は古語拾遺や万葉集の編纂を通じ、何を知ろうとし、何を鎮めようと思っていたのでしょうか。


3: 万葉集と古今和歌集が編纂された背景


平城天皇は早良親王の怨霊を、醍醐天皇は菅原道真の怨霊を大変恐れて苦しみました。

①万葉集は平城天皇(51代)の延暦25年(806年)早良親王(崇道天皇)、大伴家持の死後赦免の後完成。


②古今和歌集はその約100年後の10代後の醍醐天皇(60代)の延喜5年(905年)下命により編纂を始め、延喜13年(913年)完成。


古今和歌集を編纂した紀貫之は序文(仮名序)を書いていますが、当代一流のインテリジェンスを持った人らしく、格調高く著述しています。

その構成はⅰ:本質論、ⅱ:起源論、ⅲ:歌体論、ⅳ:変遷論、ⅴ:歌聖評、ⅵ:六歌仙、ⅶ:撰述論、ⅷ:未来論、となっています。

その一部を抜粋して見ます。


古今和歌集・序文(仮名序)抜粋


・ 「やまとの歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」で始まります。


・ 人の世となりてスサノオノ命よりぞ三十文字あまり一文字は詠みける。

出雲の国に宮造りし給う時に、そのところに八色の雲立つを見て詠み給えるなり。

やまとの国、最初の歌

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を。


・ いにしえより和歌は伝はるうちに、平城天皇の御時よりぞ、おおいに広まりける。

かの御時に正三位柿本人麻呂なむ歌の聖なりける、これは「君も人も身をあわせたりというなるべし。」


上記序文(仮名序)の中の「君も人も身をあわせたりというなるべし。」の下りは平城天皇、柿本人麻呂は100年以上も生きた時代が異なり、会う筈が無いので、これは紀貫之の間違いであると論じられてきました。

これに対して梅原猛氏が自著「水底(みなそこ)の歌 柿本人麻呂」で平城天皇と不本意な亡くなり方をした柿本人麻呂は、時空を超えてお互いに共感し合った、と文学的に述べているのであり、「身をあわせる。」は同時代に存在したと言う意味ではない、と論じました。

この梅原氏の意見にも批判、議論が相次ぎました。


古今和歌集は平安中期以降は貴族の間では暗誦出来る事が常識になっていました。しかし、編纂者紀貫之が詠まれる事を最も意識したのは菅原道真の怨霊を恐れ、古今和歌集の編纂を下命した醍醐天皇であったと思います。


平城天皇も、醍醐天皇も藤原家の母、藤原家の妃を持っていますが、激しい権力闘争の中にあり、衰退していった他の豪族達の無念、怨みを鎮魂する必要に迫られていたのだと思います。

平城天皇は神代より生きた人々の「心を種としたよろづの言の葉」を集めそれを世に残す事により、早良親王、大伴家他不本意な生き様に終わった人々を慰霊しました。


紀貫之は上記のような序文(仮名序)を叙述し、古今和歌集を編纂する事により、醍醐天皇の慰霊の気持ちに答え、万葉集編纂後の100年間に、この世に生きた菅原道真他、様々な立場の人々の「魂の言の葉」を世に伝えることにより、鎮魂を図ったのだと思います。


終章


倭の国は四面を逃げる場所の無い、大海に囲まれた島国で、殆ど侵略された事もありませんでした。

そして、聖徳太子の制定した十七条の憲法の第一条にある「和を以って貴としと成す。」のルールを破り、敗者を追い詰め、恨みを持ったまま死に至らしめた場合、恐ろしい怨霊の復讐を受ける事になる、と日本人は信じていました。


陸続きで侵略と民族の興亡の歴史を辿ってきたユーラシアには、そのような思考習性はありません。

旧約聖書のヨシュア記に「 ヨシュアはヨルダン川西岸のカナンの地を攻略する時、聖絶せよ!との神・ヤハウェの命令に従い、エリコ、アイ等すべての都市国家を焼き払い、王から女子供に至るまで生きとし生ける家畜まで、すべてを殺戮し、その地を廃墟とさせた。」とあります。

西欧人のコメントやハリウッドの映画のセリフ、パレスチナ問題、等で彼らには知っている事が常識の聖書の基礎知識を知らないと理解できない場面があります。                                     しかし、日本の教会ではこの様な神の言葉は説法には使いません。


本来の仏教の教えは輪廻転生と言う、生きる事の苦しみから悟りを開いて解脱を目指すものでした。そこには怨霊信仰はありませんでした。

しかし、日本では怨霊を鎮めたり、供養のために経文を唱えてきました。供養により極楽往生できれば、怨霊でなくなると考えたのです。

幽玄の世界を深層心理に秘めた日本人はどんな宗教や教えをも、日本式に変質させてしまうのでしょうか。


銅鐸に想いを寄せるとき、何故か遠い昔に、ふるさとで母がはなしてくれた、おとぎ話のような、懐かしい記憶が蘇るような気がして来るのです。

                          修行者




















 



 明治維新はわが国近代化のターニングポイントとして誰もが評価する大変革でした。廃藩置県から明治憲法発布まで、西洋列強に飲み込まれずに対等に存立するため、数々の改革を断行していきました。

 しかし、これらの変革の中で明治元年3月に発令された神仏分離令に始まる、神道の国家神道化への政策は記紀神話の原理主義とも言えるもので、廃仏毀釈により日本の伝統的な文化と人心の破壊を招きました。

それは皇統とその功臣のみを神とし、それ以外の神仏は廃滅の対象とするという、それまでの日本の歴史と成り立ちを否定した、暴挙と言える政策でした。

その後、民衆や仏教界の抵抗、諸外国からの圧力により、下火になり明治憲法にも信教の自由が認められていますが、一度発令された神仏分離令の残した制度はそのまま超宗教の国家神道として機能しつづけました。


1:寺院破壊の実態

神仏分離令は明治4年の廃藩置県の前に発令されたため、藩によってその実態に差異があります。

薩長土肥等、維新の指導的な立場にあった藩ほど破壊が激しく、薩摩藩ではすべての寺院に廃止令が出されました。土佐では寺院総数615ヶ寺のうち、439ヶ寺(70%)が廃寺となりました。九州では今でも古刹と言える寺院は有りません。

修験道は日本古来の山岳宗教が本地垂迹説により仏教と融合したもので、むしろ仏教のほうが日本化したと言うべきなのですが、修験道場の金峯山寺蔵王権現、羽黒権現、金毘羅大権現、英彦山権現、愛宕権現等、修験の寺は強制的に神社に変えられました。

又、鎌倉鶴岡八幡宮寺、石清八幡宮寺、竹生島弁財天等、多くの神宮寺が強制的に神社に変えさせられました。

このように全国の半数以上の寺院が廃寺となりました。

梅原猛氏によれば、この時日本の文化財の2/3は破壊されたと言っています。

そして残った寺院も明治4年の上知令により、古来より所有していた寺領を政府に取り上げられ、由緒ある寺も維持することが困難に成りました。


2:明治政府太政官の内部抗争と国家神道の成立

太政官内部の神学論争は顕界は天皇家、幽界は大国主命の領域と規定し、伊勢神宮派と出雲大社派の2派に別れて抗争しました。

国家の祭神は、造化3神と天照大神に、大国主命を加えるかどうかが抗争の争点となりました。この論争に薩摩、長州、津和野の各藩や後期水戸朱子学派、平田後期国学派が入り乱れて争い、収拾が付きませんでした。

最終的には明治14年に明治天皇の勅裁と言うことで、国の祭神に大国主命を入れない伊勢神宮派が勝ち、『顕幽』の論議はその後は禁止され、国家神道が成立しました。

そして前後して全国に国家によって神社を建立していきました。主だったものは下記の通りです。

白峯神社      明治元年

東京招魂社    明治2年      明治12年靖国神社に改称

湊川神社      明治5年

吉野神宮      明治22年

橿原神宮      明治23年

平安神宮      明治28年

明治神宮      大正9年

乃木神社      大正12年

近江神宮      昭和15年

昭和14年の内務省令により戦没者慰霊のため各府県に1社、内務大臣指定護国神社を設立し、それ以外の村社を指定外護国神社としました。

海外

台湾          社格あり 68社    社格なし 200社

朝鮮          社格あり 82社    社格なし 913社

満州           295社

樺太           127社

ミクロネシア       29社


3:神仏分離令の発せられた背景

一般に幕末、明治維新のときに一部の指導者を神仏分離・廃仏毀釈の狂気に走らせた背景に後期国学者、後期水戸朱子学者の存在があると言われています。

この時の状況を作家の司馬遼太郎は下記のような論旨で述べています。

『中華ナショナリズムによる宋学の亡霊のような水戸朱子学が封建制の壁をぶち壊してしまった。その唯一のキャッチフレーズは尊皇攘夷と言う、決して自讃に耐え得るものではなかった。この矛盾がその頃も、その後も続き、そして今もどこかにある。』

このような水戸学や国学は当初はこれほど過激な『学』ではありませんでした。

国学は真言密教僧の契沖が水戸光圀の要請により元禄時代に「万葉代匠記」を著し、実証的な姿勢で「古今余材抄」、「和字正濫抄」、「勢語断」「源註拾遺」等膨大な書籍を著した事が基礎となりました。

契沖は曼陀羅院妙法寺を弟子の如海に譲り、円珠庵に退きましたが、末期には庵を弟子に引き継いでもらう事、遺品の書籍等を誰彼に譲ることなどの遺言を残して僧侶としての人生を全うしました。

そして、加茂真淵とその弟子本居宣長は「万葉代匠記」を読み、そこに大和の心と、この国の成り立ちを見出そうとしました。

宣長は契沖が水戸光圀の出仕の話を辞退し、生涯無我、無私を貫いた孤高の生き様に感銘を受け、契沖のその他の書籍を全国に捜し求めたと言われています。

そして、加茂真淵、本居宣長はそれぞれの国学を纏め上げました。

本居宣長は遺言に自らの葬儀、墓、追善供養にまで細やかに指示をしています。

葬儀は本居家菩提寺・浄土宗 樹敬寺で仲の良かった住職宝樹院の読経で行うこと、戒名は「高岳院石上道啓居士」とすること、墓は樹敬寺境内に立てること、もうひとつの墓は樹敬寺の隠居寺 山室妙楽寺に立て「本居宣長の奥墓」と刻印すること、そしてそこに桜の木を植えること等です。


このように、この時代の国学者には廃仏毀釈を煽動するような姿勢はありません。

その後、本居宣長の自称門人平田篤胤が宣長の「古道論」を「後古道論」に展開してしまい、それが後期水戸朱子学と結びつき、尊皇攘夷、皇国史観を理論付け、神仏分離・廃仏毀釈を導いたたと言われています。


4:個と普遍

哲学として、個と普遍の相互関係を理解することは難しく、ひょっとしたら、個というものも、普遍というものも、共に無いのかもしれない、なんてことになります。

ここでは、日本文明をひとつの個ととらえ、世界の歴史の潮流を普遍的なものとして、述べたいと思います。

仏教の入ってくる前の日本は日本海に隔絶された中で、縄文時代より培われたアイデンティティーを持つ倭と呼ばれる社会の中にいました。

この倭の社会が印度、中央アジア、中国、朝鮮を経て国際的な信仰を得た仏教に接したのです。仏教は同時に文字と国際色豊な文化をも伝えました。

このとき日本人は戸惑いながらも智恵を絞り、自らの個としての存在を見失うことなく、この普遍的なものに融合することに努めました。そして神仏融合の歴史がこの時に始まったのです。それは様々な価値観と存在を包含した曼荼羅のような世界観に自らを組み込ませようとする営みであったと思います。

それを神仏分離は一方的に切り裂きました。


戊辰戦争に敗れた幕府軍は彰義隊の生き残りや同志と共に新天地を求めて咸臨丸で北海道に向かいました。しかし、官軍の砲撃や悪天候のため沈没し、多くの水死者を出しました。このとき朱子学に染まった官軍は賊軍と規定した死者に触れるだけでも厳罰に処すると発表し、助けることも、弔うことも許さず、浜辺に打ち捨てられたままになっていました。元寇の時でさえ、鎌倉幕府の執権・北条時宗は元軍、高麗軍の死者を丁重に弔うように指示し、敵味方双方の供養の為、円覚寺を創建しているのです。

そしてこの時、清水次郎長が官軍の指示に従わず、「神仏になった死者に官軍、賊軍の違いは無い。」と子分を集め、遺体を回収し石碑を立てて弔いました。これは次郎長の義侠心の美談として浪曲になり、今に伝えられています。

官軍のこのような手法は伝統的な日本人の感性とは全く相容れないものでした。


契沖は空海以来の悉曇学を通じ、日本の音韻を最終的に五十音図に纏め上げ、当時千年近く経って解読不能だった万葉集を、実証的に大和言葉で解き明かすことにより、日本文明の個の探索を始めました。それは普遍と通ずる為の自己研鑽ともいえるものでした。自らの個の確立が無ければ、他の個に吸収されるしかないからです。


しかし、後期国学者平田篤胤の著した「三代考」になると「皇国は天地のもとから生まれたのであって、諸外国は少彦明神と大国主命が後から造った国々だから、必ずや天に近い皇国のもとに、諸外国が臣従する筈だ。」と言った珍妙な思想に変形し、勤皇の志士たちを煽りました。

それは、昭和期に平泉澄学派が国粋思想を煽り、北一輝・西田税の「日本改造法案」でもって純真な青年将校を2・26事件に引き入れた流れにつながっていくのです。そして政府や政治家まで暗殺を恐れ正論も吐けない社会となり、マスコミは百人斬り競争のように、架空のニュースをでっち上げてまで、戦線の拡大を煽りにあおりました。

このような、普遍とは何の脈絡も無い独善主義が日本を奈落の底に貶めたのであると思います。


5:終章

敗戦後日本は一転して神風頼みの狂信や独善主義に対して60余年に渡り、反省、自省を余儀なくされてきました。

それは「外国はこうなのに、日本はこんなことではダメだ。」と言った形で執拗に、最初は7年半に及ぶGHQの占領中の日本改造政策と報道検閲により、その後は内外の様々なイデオログーにより、自己改造を迫り続けられて来たわけです。そしてそのため、本意、不本意に係わらず、自らの自己分析を忍耐強く行ってきました。自分自身を知り、理解することが普遍に近ずくことになるからです。


そして、戦勝国になった国々の実態をも注意深く観察し続けてきました。

そこにはやはり、簡単には解き放たれない軛があることに気付きました。それは民族主義であったり、宗教であったり、イデオロギーであったりしますが、それぞれの国が内部に矛盾を抱えているわけです。西欧は民主・自由・平和を謳いながら、15世紀以来、現代に至るまで世界の植民地化、人種差別を続けながら、国益の為に自陣を独善的に正当化して来ました。共産主義国家は平等で豊かな理想の社会を吹聴しながら、史上空前絶後の他民族、自国民の殺戮を行ったファシズムであり一党独裁でした。

このように先ず、自らの来し方を振り返り自省しながら、世界の他の国々の実態・本意を知る事により、我々は普遍に近かずくには自らの何を見直し、何を護り、何を構築すべきかを学びました。


そして神仏融合(印度、中央アジア、中国、日本)の達成で発揮した日本人の智恵で、神仏基融合(西洋、印度、中央アジア、中国、日本)の姿はすでに我々の中に出来上がりつつあるのかもしれません。


そしてこの神仏基融合の姿を、世界の人々に期待され、求められる姿に昇華させることこそが、これからの我々日本人に与えられた使命であると思います。

                                       修行者