私事で恐縮ですが、今春、生命保険会社より新しいプランに契約をやり直すと、毎月の掛け金が安くなるとの提案を受けました。但し、その為には健康診断を受けて健康体であることが証明されなければならないとの事でした。
私は不摂生の為、コレステロール、γGTP、中性脂肪が基準値を相当オーバーしている事が分っていましたので、何とか一ヶ月間で上記数値を基準値内に下げ健康診断をパスする術は無いかと考えました。
そこで私はこの時、『ビールは一日一本以内にし、土曜日・日曜日はアルコール抜き。朝食はご飯と味噌汁ですが、昼食・夕食はお米の御飯を食べない。麺類や魚肉などおかずは従来どうり。』とのルールを決めました。
そしてこれを一ヶ月間を続けたところ、体重は6kg下がりコレステロール、γGTP、中性脂肪も基準値内に下がり、目出度く保険の再契約が出来、掛け金も安くなりました。
こんな話をして、お米が体に良くないのではないか等と言う気持ちは毛頭ありません。私の症状などは贅沢病で、むしろ、お米が人体に如何に影響力を持っているかを再認識した次第です。
そこで、農耕を始めて以来、何千年間にわたり、世界の人々を育んで来たお米に対して想いを寄せて見ました。
1: 「お米を食べろ。」と言ったイラクのフセイン元大統領の政策
イランがホメイニ革命で反米化し、アメリカ大使館を占拠され、大使館員が人質になってしまいました。アメリカはサダム・フセインに支援策を提示し、イランへの侵攻をそそのかし、8年間に及ぶイラン、イラク戦争が始まりました。
1986年イ・イ戦争最後の激戦バスラ攻防戦ではアメリカの支援を得たイラクの空軍は圧倒的に優勢でありながら、地上戦では人海戦術で押し戻され、最終的にイランを屈服させる事が出来ませんでした。
この激戦の後、サダム・フセインはイラク国民に 『ナン(パン)を食べるのを止めて、米(コメ)の飯を食べろ。』 と言い出しました。イラン人は羊肉と乳製品の他に米(コメ)を食べ、イラク人はナン(パン)を食べますが、人口はイランが5000万人、イラクは1500万人です。サダム・フセインは地上戦の人海戦術になると、アメリカの支援を得てもイランを屈服させられないのは、コメを食べないためイラクはコメを食べるイランより人口が少ないせいだと考えたのです。
世界の人口は中国、印度などアジアの大半、スペイン・南米・アフリカの一部、等のお米を食べる国の人口が世界の全人口66億人中40億人を占めています。サダム・フセインはイラク国民にお米を食べさせることにより人口増加を図ったのです。
このお米に豊富に含まれるアミノ酸の一つにアルギニンがあります。このアルギニンは鮭の精子の85%を占めオスの生殖に関連があることは知られていました。最近になってこのお米より取り出したアルギニンを23人の男性不妊患者に継続投与したところ21人の患者に精子の増加が認められたとの報告が出されています。お米を食べると含まれるアルギニンが精子の製造を活発にすることになるそうで、これは他のアミノ酸には見られない現象だそうです。
サダム・フセインの政策もまんざらの思い付きでは無かったのかもしれません。
2: 日本の人口の推移・・・弥生時代より増え始めた人口
日本の縄文時代・弥生時代と連なる人口の推移は色々な説がありますが、一般的に発表されている人口の推移を下記に記してみます。
①縄文時代 現代より8100年前 20,000.人
中期 260,000.人
末期 70,000.人
②弥生時代 紀元前500年頃より
中期 600,000.人
末期・古墳時代 AD300年 1,000,000.人
③奈良時代 AD700年 4,510,000.人
④平安時代 AD900年 5,500,000.人
⑤関が原の戦い AD1600年 12,200,000.人
⑥江戸時代 中期 32,000,000.人
⑦明治5年 AD1872年 34,800,000.人
⑧昭和42年 AD1967年 100,000,000.人
⑨現在 AD2008年 127,000,000.人
縄文時代(現代より約8000年前~2500年前の5500年余りの間)は日本の人口は主に関東、東北地方に集中し、近畿以西の人口は東国の五分の一程度であったと言われています。
上記のように日本全体でも人口は数万人、ピーク時の縄文中期でも26万人と推定されます。
このように縄文時代、約5500年の間、僅かな人口しか居なかったのに、弥生時代になって先ず西日本に稲作が始まり、西日本の人口が圧倒的に多くなりました。
その後、稲作は東国にも広まり、古墳時代の始まる頃には日本の人口は100万人を超えるようになっていました。
この様に稲作は弥生時代より始まり、お米は日本の人口を飛躍的に増加させる原動力に成っていたのです。
3: 太陽神と稲作
天孫降臨の神話では天照大神は高天原で作った稲を二二ギノ命に与え日本へ行って米を作るように命じました。
その後の皇室の永い歴史を通して、稲作に纏わる祭祀は大嘗祭、新嘗祭等、最重要祭祀となり、世界に類例の無い日本の伝統として、歴代の天皇に引き継がれて来ました。
そして日本書紀等では日本の国土のことを「豊葦原瑞穂の国」、つまり葦が豊かに生い茂り、みずみずしい稲穂の実る国と自称しています。
そして米を実らせるため、太陽が生命のエネルギーを与える訳です。
天照大神
卑弥呼(日御子・日巫女)
東大寺大仏・毘盧遮那佛(ビルシャナブツ・呉音)
真言密教・大日如来・毘盧遮那佛(ヒロシャダフ・漢音)
上記太陽神をイメージした宇宙観に基ずく神仏はそれぞれを同一視する学説や、共通の起源とする説があります。
又、ペルシャ(イラン)のゾロアスター教の最高神アフラ・マズダが大日如来の起源に連なるかどうか等の議論もされています。
日頃、無信教と思われている日本人が正月になると、全人口の80%以上の人々が神社や寺院に初詣に出掛けます。
これは外国人から見ると異様な光景に映るそうです。
今年の初詣参拝者数の全国上位は下記の通りです。
一位 明治神宮 312万人 皇室先祖神
二位 成田山新勝寺 290万人 真言密教
三位 川崎大師 287万人 真言密教
四位 伏見稲荷 270万人 稲荷神
五位 熱田神宮 235万人 皇室先祖神
日出ずる瑞穂の国の日本教の信仰の対象となる神仏とは如何なる存在なのでしょうか。
4: 米(コメ)神話の功罪・・・陸軍医監 森鴎外の誤診
脚気は日本にしかない病気で元禄~享保年間に江戸で大流行し、文化年間に大阪で大流行した記録が見られ、「江戸煩い」、「大坂腫れ」と呼ばれました。
この頃より米食が玄米又は半つき米から精白度の高い白米に移行した為と思われます。
13代将軍徳川家定は1858年35歳で脚気のため死亡しています。明治天皇の伯母に当たる静閑院宮(和宮)も脚気でなくなり、和宮の夫の14代将軍徳川家茂も1866年20歳で脚気で亡くなりました。明治天皇も西南戦争の頃、脚気を発病し、その後治癒されました。
海軍では明治11年(1879年)の時点で総人数4528名の内、脚気患者が1485名、脚気による死亡者32名となりました。
明治15年(1883年)艦艇「龍驤」が10ヶ月間の遠洋航海を行った際、乗員371名のうち160名が脚気を発症し25名が死亡すると言う事態も発生しました。
明治17年(1885年)英国留学帰りで「脚気栄養失調説」を取っていた海軍軍医高木兼寛は重臣や明治天皇への拝謁を行い、兵食の洋食化(パン、肉食)の実施の了解を取り付けました。そして、艦艇「龍驤」に前回と全く同じコース、同じ期間の航海をさせ、全乗員に洋食を与えることにより、乗員334名のうち脚気罹病者15名、死者ゼロ名と言う画期的な成果を得ました。
この結果、その後海軍ではその「脚気栄養説」に基づき、予算の都合や、パン食を嫌がる兵士のため洋食の代わりに麦米混合の主食を与えるなどとしましたが、献立の栄養価に配慮することにより、脚気問題は解決しました。
陸軍では近衛連隊(東京)、歩兵八連隊(大阪)など大都会に駐屯する部隊を中心に脚気の被害が広がり、罹病率が30%を超える部隊が出てきました。
この時、大阪陸軍病院長の堀内利国軍医大佐は栄養、環境ともに劣悪なはずの刑務所にいる囚人に脚気患者の極めて少ない事に着目し、その原因を麦や大豆を与えていた刑務所の食事にあると考えました。
明治17年(1885年)より、大阪八連隊の兵士に麦飯を配膳したところ、前年まで30%を超えていた脚気罹病率が1.3%まで低下すると言う成果を得ました。
この大阪八連隊の成功の結果は全国の部隊に知れ渡り、ほとんどの部隊で麦飯が採用され、陸軍からも脚気はほとんど駆逐されました。
脚気問題は陸海軍ともに現場の各部隊サイドでは解決していたのですが、戦時の出征となると、食料他の補給は中央の大本営より受け取る事になります。
陸軍は石黒医務局長、森林太郎(鴎外)等の東大医学部卒業者が「脚気細菌説」を唱え、海軍医監高木兼寛の「脚気栄養失調説」を非科学的と激越な言動で罵倒し、日清戦争・日露戦争共に白米を支給しました。
海軍は高木軍医監の意見に従い、米麦混合で支給しました。
その結果日清戦争では陸軍では脚気患者は4万1431名にもなり、戦闘による戦死者977名に対して、脚気による死亡者は4064名と言う悲惨な結果となりました。
海軍は日清戦争では米麦混合支給のため、脚気発病者34名、死亡者0名でした。
日露戦争では陸軍は脚気患者25万人、戦病死者3万7200人中、脚気による死亡者は2万7800人(約75%)でした。日露戦争では屍の山を築いたと言われる旅順戦等含めて戦闘による死者4万6400人に対して、脚気による死者2万7800人は真に悲惨な数字と言わざるを得ません。
それに比して海軍では員数、条件が異なるとはいえ、米麦混合食のため脚気患者は87名、死亡者は3名に過ぎませんでした。
陸軍の森林太郎(鴎外)等は「命を掛けて戦う兵士に麦飯を食べさせるとは何事か。」との気持ちが先ずあり、ドイツ留学で学んだ細菌学の知識も影響し、臨床的に事態を判断する能力を失ってしまったのでしょうか。
海軍では主食以外の副食品(おかず)も栄養を考慮した上で現物支給していたのですが、陸軍では主食の白米支給以外は現金を支給し、副食品(おかず)は各自で買う事になっていました。日清・日露戦争に徴兵された兵士は大半が貧しい小作農の次男、三男で、白いお米を腹いっぱい食べられた事で満足し、梅干以外の副食は買わず、ほとんどのお金を故郷の父母や兄弟の養育・学費として送金していたと言われています。
日清・日露戦争において、お国のために命をかけて戦うつもりが脚気に罹り、かえって足手まといとなってしまった30万人に及ぶ戦病者、不幸にも脚気により命を落とした3万人を超える陸軍兵士達の無念さは如何ばかりであったでしょうか。
鈴木梅太郎が「オリザリン」(ビタミン)を発表(明治43年1910年)する前で、未だ脚気がビタミンB不足が原因であると分かる前の話しであったとは言え、森鴎外以下陸軍大本営の医監達の責任は重いと思わざるを得ません。
これはお米に対する日本人の思い入れの深さがこのような不幸を生んだと言えるかも知れません。
5: 終章
近年日本では人口の減少が始まり、国力の低下を心配する人も出てきています。
学校給食が御飯よりパン食になったり、日本酒の飲酒量が減り、米の消費量が減った事が、日本の人口減少の原因かどうかはともかく、弥生時代より、2500年間増え続けてきた人口が減少に転じた事は、国家安寧の為の大きなターニングポイントなのかも知れません。
しかし、一時的に人口が減少したことは戦国時代、飢饉の時、敗戦の時等、何度か体験していますので、いろんな学者が予測しているように、何年後かに日本の人口は何分の一になり、その後も減少し続けるなんて事を前提に心配しても仕方ないのではないかと思います。
それよりも、100年前に20億人だった世界の人口が現在66億人になり、毎年8000万人ずつ増加し続けている事の方が気掛かりで、こんな状態がこの地球上で永久に続けられる筈はありません。
自由・民主・平等の理念を掲げながら、戦争に訴えることなく、この世界の人口爆発に如何に対処し共存を図るかを、世界の人々と話し合い智慧を絞る事の方がより重大なテーマではないかと思います。