『キリスト教の真実』 竹下節子(たけしたせつこ) | 前山和繁Blog

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このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

英語学習の記事も時折書くことにした。

キリスト教の真実: 西洋近代をもたらした宗教思想 (ちくま新書)/筑摩書房

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『キリスト教の真実』 竹下節子(たけしたせつこ)

竹下節子は「キリスト教なしには「西洋近代」が成立しえなかった」(p11)という歴史観をもっている。

『キリスト教の真実』の内容は、一つ一つの部分は歴史的記述として妥当なのだろう。しかし、全体的には整合性が合っていない。ちぐはぐなつくりの本だった。

竹下節子は通説とされる歴史観の誤りを指摘している。私は、歴史の記述の妥当性については検証できません。しかし、竹下節子は、真面目に通説の誤っている部分を指摘し、妥当な説明を記述している。おそらくはそうだろう。

歴史の知識がない私にすらも引っかかる箇所があって、気になる部分があった。

一つは、近代という語の捉えかた。二つ目はユダヤ教の捉えかた。

近代とは何かという問いは難しい。近代の定義がされていない限りは正解がない問いだとも言える。、

竹下節子の言う「西洋近代」とは、どういう定義をされている概念であるのか判然としない。西洋人とは、欧州で暮らしていた白人を指すのか、それとも欧州で暮らしていた有色人種も含めた人々すべてを指すのかが判然としない。そしてユダヤ人は西洋人に含められていないようだ。アシュケナジムは西洋人ではないのだろうか、そんな疑問も浮かんだ。

私なりに近代社会とは何かについて説明しておく。あくまでも私なりの解釈の説明である。

近代社会とは、その社会の成員の大部分に知識の共有が可能なインフラが整備されている社会。

というのが私なりの近代社会とは何かの解釈である。社会の成員の大部分が知識を共有するためには、公用語の開発と制定が必要である。ドイツはマルティン・ルターによる聖書のドイツ語訳等を通じて公用語として機能するドイツ語の開発がされてきた。フランスは1635年に設立されたアカデミーフランセーズにより公用語として機能するフランス語の開発がされた。(この段落のドイツやフランスという呼称は便宜的な用法。)

特定の社会の成員の大部分が定められた公用語を用いることができれば、その社会の成員同士で学問や技術の知識が広く共有される。そういう社会が近代社会と言えるのではないか。

社会の成員の大部分が、さまざまな知識を共有するためには規格化された公用語の開発と制定がどうしても必要である。

キリスト教が西洋近代社会の礎になったという捉えかたは見当違いにしか思えない。

『キリスト教の真実』にはキリスト教は世界各地でさまざまな人種によって信仰されてきた、というような指摘もある。それはその通りだ。アフリカ大陸にも中南米にも世界中にキリスト教徒は存在している。しかし、国民への教育が不十分な国々は、容易には近代化できないのである。社会の成員の大部分にさまざまな知識の共有がされていない限りは、その社会の内部にキリスト教徒がいくら多く存在したとしても、その社会は近代社会ではない。

キリスト教の信仰者が多い社会がすなわち近代社会であるとは言えない。私の解釈に過ぎませんが、こそれなりに妥当な解釈だろう。

日本は近現代化を短期間に成し遂げた。日本が近現代化を短期間に達成できた大きな理由は、日本人の大部分が方言による違いはあるにしろ同じ言語である日本語を使用していたからである。だから公用語として機能する日本語を開発し使用させることが容易だった。日本の近現代化にキリスト教は、ほぼ関係がなかった。

中華人民共和国の近現代化は容易にいかない。中国大陸はもとから多民族が暮らす地域であったので、公用語である普通話の教育に非常に手間がかかるはずである。それでは簡単に近現代化は達成されない。キリスト教徒は中華人民共和国にもそれなりにいるが、そのキリスト教徒たちのおかげで中華人民共和国の近現代化が進んでいるとは言えないだろう。

そしてユダヤ教の捉えかたの問題に移る。

竹下節子はユダヤ教を民族宗教であると書いている。しかし、ユダヤ教は民族宗教ではない。昔から今にいたるまでユダヤ教は改宗者がいたはずである。なぜ、ユダヤ教を民族宗教と記述するのだろうか。キリスト教徒の立場からはユダヤ教を民族宗教と記述しなければならないのだろうか。竹下節子がキリスト教徒であるかどうかはわからないが、ユダヤ教がなぜ民族宗教になるのか私には理解不能だった。

トーラー(Torah)を持っているユダヤ人は律法を遵守し、唯一の神を正しく信仰している人々である。昔からユダヤ人には改宗者もいた。なぜ竹下節子が不正確な記述をするのか理解できなかった。

ローマ時代から、ユダヤ人に改宗者がいたという説明はシュロモー・サンドの『ユダヤ人の起源』に説明がある。改宗者が存在していたがゆえに一貫してユダヤ教は民族宗教ではない。

リンク 『ユダヤ人の起源』


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