3月29日、今日は野木宿から間々田宿、そして小山宿までおおよそ15キロ歩くことになる。

早朝に自宅を出て電車を乗り継ぎ10時前にはJR野木駅に着いた。

野木宿本陣跡から少し速足で歩き出す。

間々田宿に入り、乙女交差点から思川の乙女川岸に向かった。

 

ここは江戸との物資の集散地としての重要な場所で日光東照宮造営の際には江戸からの資材はここで陸揚げされた。

そしてもう一つあるが後で!!

逢いの榎の碑の前に立った。

ここが日本橋と日光の中間点だ。やっとと言うかついにと言うか・・

 

琴平神社の老桜の頑張っている姿に声援!!

 

間々田八幡宮では「間々田のじゃがまいた」(蛇まつり)と言う江戸時代から400年も続く奇祭が5月5日にある。

国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 

 

境内の桜が満開を迎え美しい!

 

昭和5年創業の手打ちそば屋の五色手打ちそばで腹ごしらえして、間々田を後に小山宿に向かう。

心なしか気合が入り足も軽い感じがする。

 

現在の小山市は東北新幹線、東北本線、水戸線、両毛線が走り、人口も16万人になっているが、江戸末期の人口は1400人位だったらしい。古河の人口約4000人の三分の一位か・・

一概に比較できるものでもないが、藤原秀衡が築城した小山城は徳川譜代の本田正純が城主になり、のちに宇都宮へ国替えとなり小山城は廃城になったことが原因だろうか・・・

ただ、ここは歴史上極めて極めて重要なところである。

いわゆる「小山評定」が開かれたところである。

 

家康が会津の上杉景勝を討つべく、慶長5年(1600年)7月24日、この小山に陣を進めていた時に、石田三成が家康に向けて挙兵したとの知らせを受けた。

急遽この小山で軍議を開き、三成討つべしで一決。

間々田の乙女河岸から江戸に引き返した。この軍議が「小山評定」と言われる。

家康、秀忠のまわりに本田忠勝、本田正信、井伊直政、福島正則、山之内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らがいたが、ほとんどが豊臣譜代の武将であり、軍議が混乱していてもおかしくない。

戦国の世の裏切り寝返りは当たり前の時代、家康の人力が圧倒的だったのか。

そして、慶長5年9月15日に関ヶ原の戦いが始まった。

関ヶ原の戦いは、小早川秀秋が西軍から東軍(家康)に寝返ったことが勝敗を決したと言われているが、もしもと言う言葉を使えば、軍議が混乱していたら、そしてその間に様子見を決め込む武将がいたら、その間に三成と景勝が手を結んでいたら歴史はどうなっていたのだろうか・・

・・まさに、どうする家康!!・・

 

▲市役所の敷地に小山評定跡の碑が建っている

「小山評定は」諸説もあるので興味があれば調べてください。

 

妙建寺の天井には「百人一首格天井絵」がある。

百人一首を題材にした歌と人物が描かれた版画55枚がある。

作者不詳だが、妙建寺が建てられたのは約300年前らしいからこの天井絵も300年もの前のだろうか。

 

平安時代前期の創建と言われる興法寺参道の桜には目を奪われた。

 

小山市は結城市と並んで、高級絹織物「結城紬」の産地でもある

・・ユネスコ無形文化遺産に登録されている。