③隠蔽と誇張 | ぷうちゃんていうの★脳脊髄液漏出症低髄液圧症候群脳脊髄液減少症線維筋痛症慢性疲労症候群胸郭出口症候群

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高等学校教諭専修免許状
高等学校教諭一種免許状
中学校教諭専修免許状
中学校教諭一種免許状
国語
静岡県立伊東高校
運動会で背面タックル転倒 後続が踏み気絶 放置
公務災害1998年5月

2018年7月
脳脊髄液漏出症判明
合併 胸郭出口症候群手術血圧低下し副損傷

はな

@hanakija38

昨年亡くなった戦争体験者の老父は、日本はアメリカではなく「自国の極右に騙されて国土を焼け野原にされた国」と言っていた。その意味が物凄くよくわかる。そして「もう一回焼け野原にならんとわからない国民」と言っていた意味も。

午後7:41 · 2025年11月24日



社会

由木直子記者

戦後80年

ビジュアル特集・戦後80年

隠ぺいと誇張で戦意をあおった大本営とメディア 東京新聞の報道責任<ビジュアル特集・戦後80年 3>

2025年1月18日 17時00分

東京新聞


太平洋戦争で、新聞は勇ましい戦況報道を続け、最終的には軍部の宣伝機関と化しました。日本軍の損害や空襲での被害を詳細に書かず、戦果を誇張して国民の戦意をあおりました。東京新聞の紙面を振り返りつつ、国内外で多くの犠牲者を生んだ戦争への新聞の責任を考えます。

当時の東京新聞などをビジュアルストーリーにまとめました。写真をクリックまたはスワイプしてご覧ください。


<東京新聞の誕生と戦争報道>

戦争で新聞用紙の不足が深刻化し、国は「一県一紙」という国策のもと、新聞社の統合を進めた。東京新聞は都新聞と國民新聞が合併して誕生した。

1942年10月1日の創刊号では、当時首相の東条英機が寄せた祝辞を掲載した。「総力戦下の一翼へ」「思想戦の兵器たれ」という見出しが並んだ。他にも軍幹部の「言論指導の飛将軍」「進め強力”紙の爆弾”」などの祝辞が紹介された。


創刊した東京新聞に並ぶ陸海軍からの祝福



大本営は戦地の様子を、記者たちに口頭で伝えていた。大本営は天皇直属の日本軍の最高司令部で、陸軍部と海軍部があった。

戦況発表はそれぞれの報道部で、陸軍、海軍の担当者が務めた。


敵機来襲を発表する東部軍司令部の倉澤参謀=1942年4月19日の國民新聞(東京新聞の前身の一つ)より



新聞は新聞紙法にもとづき検閲を受けた。軍事に重大な支障を及ぼしたり、皇室の尊厳を冒したりする記事と判断されると罰金などが科せられ、国には発売禁止とする権限もあった。検閲担当者が新聞社に常駐し、記事の指導をするまでにエスカレートしたという。

新聞用紙の供給量もコントロールされ、開戦前に十数ページあった新聞は戦争末期には1枚で表裏の2ページになった。社の経営存続が危ぶまれる状況になり、新聞は大本営発表に沿った記事を書くようになっていた。



<敗北の印象を与えない>

1942年6月のミッドウェー海戦で、日本軍が空母4隻を失った事実を、大本営は1隻と発表した。1942年8月に始まったガダルカナル島の戦いでは、圧倒的物量に勝る米軍を前に、日本軍は撤退。これを「転進」と言い換えた。




ミッドウェー海戦を報じる1942年6月11日の國民新聞(東京新聞の前身の一つ)。日本軍は空母4隻が沈没したが、1隻と書かれている



ミッドウェー海戦で炎上する空母飛龍。飛龍は数時間後に沈没=米海軍歴史遺産司令部


ガダルカナル島からの「転進」を伝える1943年2月10日の東京新聞



大本営は日本軍の損害よりも、戦果を大々的に伝えた。戦果はだんだんと誇張して書かれるようになり「勝てない」なら「負けなければいい」という詭弁きべんで、敗北の印象を国民に与えないようにした。



<初の東京空襲・ドーリットル空襲>

被害をわい小化した発表と報道は、開戦後まもなくからあった。

1942年4月18日、川崎や横須賀、名古屋などとともに、東京が始めて空襲された。米側の指揮官の名前をとって「ドーリットル空襲」と呼ばれ、87人が死亡した。軍幹部は東京が初めて空襲されたことに大きく動揺したという。




しかし、新聞には「冷静沈着」「揺るぎもなし」と強調する見出しが1面トップで掲載された。




ドーリットル空襲を伝える1942年4月19日の國民新聞(東京新聞の前身の一つ)


<「玉砕」という名の全滅・アッツ島の戦い>

1942年6月、日本軍は北方の守備を固めるため北太平洋アリューシャン列島にあるアメリカ領のアッツ島を占領した。だが1943年5月に米軍が島に逆上陸して日本軍は全滅。この戦いで初めて「玉砕」という言葉が使われた。



意味は名誉を守って潔く、玉が砕け散るように美しく死ぬこととされる。




上陸した米軍は1万人以上。大本営は島の放棄を決定し、援軍をえられなかった日本兵約2600人が全滅した。生き残ったのは捕虜となった二十数人だった。


荒涼としたアリューシャン列島の墓地の前を行進する米軍兵士たち。一斉射撃の準備をしている=米海軍歴史遺産司令部


大本営は「皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮絶なる攻撃を敢行せり。爾後じご通信全く杜絶とぜつ、全員玉砕せるものと認む」と発表。東京新聞もそう報じた。全滅の事実を「玉砕」の言葉で覆い隠し、「アッツ島の戦いに続け」と死を戦意高揚に利用した。


近現代史研究者の辻田真佐憲さんは、「転進」や「玉砕」などの言い換えについて「隠しきれない敗退を、美辞麗句で糊塗ことする技法」と説明。「ありのまま発表すれば、国民の戦意がなえてしまうかもしれず、場合によっては、作戦を指導した大本営の責任も問われかねない」からだった。


アッツ島玉砕について「傳統(でんとう)の華」などの見出しが載る1943年6月2日の東京新聞


その後も大本営による戦果を強調する発表は続き、1944年の台湾沖航空戦では米空母を計11隻を沈めたと発表したが、実は1隻も沈んでいなかった。


米空母9隻を撃沈・撃破したと伝える1944年10月16日の東京新聞。最終的に11隻を沈めたとした


<終戦を迎えた東京新聞>

1945年5月25日。終戦の2カ月半ほど前に、千代田区内幸町にあった東京新聞の社屋が空襲で全焼した。取材資料や従軍したカメラマンが撮影した写真など、貴重な財産をすべて失った。

記者たちは朝日新聞に仮事務所を置かせてもらい、発行を続けた。一方で、自社の取材基地を建て直そうと奔走した。


社屋の焼け跡に集まった東京新聞の社員たち。ゲートルを巻いた人の姿が見える


朝日ビル4階にあったとされる東京新聞社仮事務所で記事を書く記者たち


仮事務所に身を置いたまま、東京新聞は1945年8月15日の終戦を迎えた。社屋全焼から終戦を挟んで4カ月あまりたった10月1日、東京新聞は仮事務所を出て内幸町に復帰した。


<戦後も続いた検閲>

1945年9月28日、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官のマッカーサーと昭和天皇の2ショット写真が東京新聞に掲載された。終戦直後でまだ機能していた日本側の検閲担当は、マッカーサーのラフな服装などが、天皇への不敬だとして東京新聞に発行停止と回収を命じた。しかしその後、戦勝国の優位性や天皇の権威否定の狙いがあったGHQが、日本側の命令を取り消したため、一部は回収されなかった。


昭和天皇とマッカーサーとの会談を報じる1945年9月28日の東京新聞


日本政府の検閲に代わり、1945年9月、GHQは「プレスコード」を発表。「連合軍に対し虚偽または破壊的な批判をしてはならない」などとした。違反すれば業務停止の処分もあった。1945年10月24日の東京新聞は一部記事が消されたまま発行されている。

プレスコードは1952年の日本の独立とともに失効した。
























1945年10月24日の東京新聞。左下の記事が削られている


<京都大の貴志俊彦教授(アジア史)はこう見る>

◆新聞は「加害者」

明治以降、日本の新聞は新聞紙条例(のちの新聞紙法)などによって取り締まられ、反政府的な記事などの掲載が禁じられた。これにひっかかって処分を受けることは、新聞社にとって大打撃だった。


新聞への検閲は、戦争が起こるたびに厳しくなっていく。1939年(昭和14年)のノモンハン事件の頃は、カメラマンのそばに軍の検閲官がついているためにシャッターを切れず、写真が残ってないということも起きていた。こうした現場レベルから、軍部や政府、公安の検閲、さらには新聞社内の自己検閲に至るまで、様々なレベルで検閲システムが重層的に構築されていた。


新聞の報道責任について話す京都大の貴志俊彦教授


戦争が進むと、報道機関と軍は一体化していった。部隊の機嫌を損ねると、取材を断られてしまうためだ。1931年の満州事変では最前線の取材は許されなかったが、37年の日中戦争が始まるとともに、従軍特派員の数が急速に増え、前線への侵攻を共にすることになる。太平洋戦争では両者の一体化が進み、記者やカメラマンが軍の報道班の一員として取材をするようになった。報道班という立場が、新聞記者としての役割を上回る形になり、新聞社と軍が実質的に一体化していった。


◆「負け戦」 伝えぬ仕組み

太平洋戦争が起こると、検閲制度が厳罰主義となり、検閲に「違反しそうだ」という段階で捕縛されるようになっていく。検閲制度から見ると、日中戦争と太平洋戦争開戦とでは決定的な断層がある。なにより、軍事情報の漏洩ろうえいの防止やスパイ摘発だけでなく、負け戦を国民に知らせないための仕組みを作りあげようとしたことが原因だった。一方、新聞社が軍との関係を一体化させていったのは、新聞発行の停止、紙やインクの物資のストップを恐れたためだったろう。客観的に見れば、新聞社もまた戦争の執行機関だったと指摘できるだろう。


戦時期の軍部による統制、GHQの規制がなくなった後も、新聞社が報道の在り方や体制を省みなかったことは罪深い。戦後には「新聞社は被害者」という新聞人もいたが、もとより戦争責任を回避する話法としかとらえることができない。被害者であり、同時に加害者であるという意識は、新聞社が戦争責任を回避する一因になっている。


戦争の終結を伝える1945年8月15日の東京新聞


ただ、軍部の戦況の発表に違和感を持つ記者は確かにいた。しかし、軍部や政府に反する内容は書けないし、そうした意識をもつ記者もマイノリティーであったろう。実際、日本の戦争は勝つんだと信じきって、命がけで取材活動を続ける記者も多くいたことは事実だ。


いかなる理由であれ戦争には、「正義」は伴わない。37年の日中戦争から太平洋戦争までの戦没者は310万人というが、戦没者の家族を考慮すれば、不幸に見舞われた人の数は半端ではない。出兵した若き父親が戦死し、その後に残された子どもは幼く、母親も定職はない。今考えても戦争が家族にもたらす災いの厳しさに胸がつまる。


◆現在の戦争に目を

新聞社をはじめ、報道機関は、当時の事実を理解するだけでなく、今も現実に戦争が起きているという視点を忘れないことが重要だと思う。ウクライナやガザでの戦争は現在進行形で進んでおり、明日は我が身だという危機感が必要だ。読者も、報道をうのみにするのではなく、どのように戦争が遂行されているかを注視しつづける必要がある。


報道機関は、事実を判断し、読者にその悲劇を忘れさせないように、公平な視点で伝え続けることがきわめて重要な役割だ。80年前の日本の戦争は遠い過去になりつつあると思うが、現実に起こっている戦争まで忘れてもらっては困る。新聞社は、80年前の戦争の悲惨さや報道の責任を顧みるとともに、現在の戦争の推移をつぶさに報じ、事実を伝え、広めていく社会的責任がある。

◇   ◇

<戦後80年を前に デジタル編集部・由木直子>

戦後80年を振り返ろうと、過去の東京新聞の写真や紙面をまとめることを始めた。改めて、大本営がずさんで作為的な発表をしていたと知った。


戦地の取材は従軍しなければできない状態で、従軍するためには軍部との関係を悪いものにはできなかった。そうした状況の背景に戦地での写真が載った新聞は売れたという、商業的理由もあった。


◆悩んだ先輩記者

1942年10月1日の東京新聞創刊号の1面。当時の東条英機首相の祝辞が載った=国立国会図書館所蔵


軍部の介入を不快に思う記者もいた。東京新聞が創刊する直前の編集委員会には当局の担当者が同席しており、創刊時に論説委員長だった渡部英夫氏は「熱心にして親切なるは感謝すべきも、まるで自分たちが新聞を作っているが如ごとき態度にはいささかウンザリする。今や新聞の自主性全くなし」と日記に書いている。


一方で、1943年から東京新聞の編集局長を務めた山根真治郎氏は終戦直後「情報が軍官に掌握され、記者はすべての真相から隔離されていた」とし、「我々は国民と共に被害者だ」とつづった(1945年12月6日「日本新聞報」)。検閲や用紙の制限など、当時の状況を考えれば仕方が無いかもしれない。ただ戦況の悪化を国民に正確に伝えず、勇ましい言葉で戦争をあおった自覚はなかったのかと思うと、信じられなかった。


◆伝えるべきを報道する

ある先輩記者は今から20年以上前に警察担当になったとき、事件を一日でも早くスクープするため、警察関係者を回って仲良くなり、情報を教えてもらっていた。その後、従軍記者の記録を読んだとき、記者が軍部と良好な関係を築いて従軍し、取材をしている様子が、自分と同じだったと気づいたそうだ。


取材対象と信頼関係を築き、情報を得る必要性は戦時中も今も変わらない。重要なのは取材対象に不利であっても社会に伝えるべき情報があった時に、きちんと報道していくことができるかだと思う。


◆奪われた日常…今を伝え続ける

新聞は戦争に加担し、人々の当たり前の日常を奪った。2022年に当時103歳の女性の戦争体験を聞く機会があった。権力者が思うように情報を操り、国民をばかにしていたと振り返った。寝不足になるほど続いた空襲の後、終戦を迎え「ああ、これで眠れる」と思ったそうだ。


日本は310万人の犠牲を出し戦争に負けたが、一人の女性が思ったことは「これで眠れる」という、当たり前の日常が返ってくることへの安堵あんどの気持ちだった。おそらく、彼女だけではなく多くの人がそうだったのではないか。


日常が一変する戦争はリアルタイムで起きている。ウクライナやガザの戦火は過去ではなく「今」だ。80年の月日が流れ、日本の戦争の記憶が薄れていく中、当時の新聞が書いた世界を繰り返さないために、伝え続けなければならないと思っている。


■症状で

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文章と画像あわせらんなかった

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