「安息日にしてはならないこと」 マルコ3章1-6節

 安息日の律法は「七日目はあなたの神、主の安息日であるから、なんのわざもしはならない」というのです。この日は神様の日なのだから、人間的なわざをいっさいしてはならないというのです。

 人間的なわざとはなにか。

 竹森満佐一の説教のなかでこういう言葉があります。
「人が誰からも教えられないで、生まれた時から習得している技術がある。それは人を裁く技術だ」というのです。

 人間が生まれつき、誰からも教わらないで身につけている技術というのですから、これはもっとも人間らしいわざであります。そして考えてみれば、人を裁くということは、人間だけがやることなのかも知れません。動物はしないのです。そうしますと、安息日に、一番してはならないことは、人を裁くことなのかも知れません。

 イエスが現れることによって、「人の心のなかにある思いが現れる」と聖書は語ります。それはわれわれ人間のなかにある、もっとも人間的なわざ、「人をさばくわざ」がわれわれの心のなかに現れるということであるかもしれません。

 人を裁くということがはいけないのでしょうか。

 イスラエルの社会にも裁判制度ありましたし、裁判制度のない社会などどこにもないのです。

 なぜ裁判制度が生まれたかといえば、それは人があまりにも裁きたがるということから生まれたということであるかも知れない。人はほうとくとすぐ人を裁きたがる。だからその裁きをやめさせるために裁判制度が生まれたといってもいいかも知れない。つまり自分勝手に裁くことをやめさせるために、公の裁判制度が生まれたのです。つまり、リンチ、私的制裁をやめさせるために、公の裁判制度が生まれたのであります。

 なぜ、リンチがいけないのか。それは公正さを欠くからであります。
 利害関係があるものが、直接裁くことになると、どうしても自分の正しさを一方的に、過度に主張して、人を裁くことになる。だから第三者である公的な裁判官とか陪審員が裁こうという制度が生まれていったのです。

 人は本当に人を裁きたがるのです。それはただ人の悪を指摘して、その悪を正そうとするのではなく、人の悪を指摘して、自分の正しさを主張し、自分の正しさをあらためて知って安心したいからなのではないか。

 自分の行動の正しさを知るためには、人の過ちをみつけ、それを非難するのが一番わかりやすいのです。

 ちょうど、自分の成績を知るためには、人の成績を知るのが一番変わりやすいのと同じであります。

 人を裁きたがる背景には、自分の立場を正当化したいという気持ちがあるのではないか。

 人は結局は自分の立場を守るために人を裁きたがらるのであります。何かを正すということに関心があるのではなく、本当はただ自分の立場を守りたいのです。


 それは自分の生活は自分で守る以外にはないとどこかで考えているからではないか。

 イエスはそういう人々の心を見抜いて「安息日に善を行うのと、悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちからがよいか」といわれた。イエスはいわれたことは、あまりにも極端であるかも知れない。

 この場合、片手の萎えた人の手を安息日にいやさなくても別に命に別状ではないはずです。

 善いことならば、安息日にも積極的にしなさいというのでは、安息日の主旨から逸脱していることにもなりかねないのです。

 安息日というのは、悪いことはもちろん、われわれがよかれと思っている善も、ともかく中断するということに意味があるからであります。

 このときのイエスの行動は挑戦的ですし、また「安息日に善を行うのと、悪を行うのと、命を救うのと殺すのとどちらがよいか」という論理も飛躍しすぎているし、極端であります。

 しかしイエスはこのとき、あえてそうしたのであります。そうすることによって人々の心のなかにあるものをあらわにさせたかった。

 人を裁くということ、自分の立場を守り、自分を正当化するために、人を裁くということ、人を裁くということが、どんなに深い人間の悪であるか、それは神の安息の日に一番してはいけないことであるかを明らかにしようとしたのであります。

 人々はイエスの問いかけに黙っていました。彼らにとってイエスの問いかけはどうでもいいことで、ただ自分の立場を守ることに終始していた、ただ自分のことしか頭になかったので、イエスの問いかけに沈黙し、それを無視した。

 それをイエスは見て、「怒りを含んで彼らを見回し、その子心のかたくななのを嘆いた」のであります。