ちゃんばらトリオ | バンビのブログ

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『医療水準』の観点から、「医事考証」も交えながら「白い巨塔」での医療ミスや訴訟について読み解きたい。

小説内の事例
 繊維卸業の社長をしている54歳の男性。33歳時に肺結核の既往がある。約3か月前から、嘔気、おくびなどがあり、1か月前からの胃部不快感が主訴であった。患者はまず、内科の里見助教授を受診した。

 主な検査は終了しており、胃液検査:低酸、胃エックス線検査:胃炎、検便鮮血反応:陽性、血液検査:軽度貧血となっており、エックス線フィルムを見直し、明白ながんの所見は認められなかったが、里見は何か感じるものがあり、胃カメラをすることにした。

 胃カメラの所見では、胃の上部、噴門部は完全に撮影できないこともあるから、フィルムでは異常所見が見当たらないが、100%では異常なしを言えない旨のことを伝え、患者に、彼が現在研究中の生物学的診断を試みた。微妙という結果になった。データ上は、がんである可能性が7割強であったが、確定まで至らなかった。

 里見が財前に相談に行ったところ、財前は胃カメラフィルムを丹念にチェックしたが、がんの所見はないと言い、自らレントゲン透視を試みることを提案した。

 造影剤は噴門部をくねるように通過し始めたが、噴門部の下部あたりまで来ると、造影剤流路の異常と細りが見られた。通過異常、やはりクレブスだ。財前は透視台撮影のシャッターボタンを押した。

 財前による手術は胃全摘と食道、空腸吻合がなされた。手術の所要時間は、今までの自己記録を20分短縮する、2時間10分であった。

 術後1週間後に、患者は発熱と呼吸困難、咳嗽、喀痰の症状を起こした。財前は教室員に指示して、術後肺炎として、抗生物質の大量投与を命じた。翌日にはドイツでの招聘学会講演のため、約1か月半の外遊に出かける予定になっていた。

 財前の渡欧後、患者の容態は悪化の一方で、肋膜穿刺の結果、血性でがん性肋膜炎であることが判った。その後、患者は酸素テントやカンフル注射など行ったが、効果なく術後3週間で死亡した。

 剖検では原発巣は胃噴門部の進行がんで、左肺下葉に転移したものであった。何かの契機でがん細胞が増殖し、がん性肋膜炎を引き起こしたと考えられた。

 財前五郎が帰国すると、例の患者の妻から誤審を理由に、800万円の損害賠償と慰謝料請求の訴えが起こされた。

 1審では原告の請求が棄却された。肺の異常陰影は鑑定所見および、現在の「医学水準」に基づいて判断すると、たとえ断層撮影を行っても、肺炎や結核とがんの転移巣との鑑別は困難だったというのが判決の理由であった。

 2審(控訴審)では、肺の転移巣を術前に鑑別することは不可能だったとする1審の判決を支持しながらも、がん性肋膜炎が判った時点で抗がん剤の投与で、術後22日間で死亡することは、まずありえず、少なくとも6か月は延命できたと認定されるので、遺失利益と慰謝料合わせて149万円の支払いを被告、財前五郎に求めた。

 財前が、診療、教育、研究の指導に当たる国立大学教授であることに考えを及ぼすとき、一般医師の水準を超えていると判断し、厳しく責任を求める判決であった。

 財前は直ちに最高裁に上告手続をとった。

『医事考証』から見て、対応は適切だったか
 胃がんの診断を、財前はエックス線透視の方法で行った。これは一つの方法であるが、別の方法も存在していた。千葉大の白壁チームは既に世界に先駆け、胃のバリウム造影法の一つとして、二重造影法を確立し、噴門部の病変部も綺麗に描出できるようになっていた。

 更に胃カメラ(最初の呼称はガストロカメラ)は、現在のファイバースコープと異なり、直接、病変部を観察することや生検は不能であったが、手を手刀様に臍部のところで圧迫し、カメラを進めると軟性なので容易に反転可能であった。フィルムも最初は白黒であったが、カラーになり、鮮明に噴門部の病変を描出できたはずである。

 1952年(昭和27年)には、胃カメラは一般に販売開始となり、1962年(昭和37年)、財前が胃カメラフィルムをチェックした時、かなり、機械も操作手技も進歩し、容易に反転可能になり、噴門部病変もかなり鮮明に捉えられたはずである。

 1962年(昭和37年)には、日本内視鏡学会で早期胃がんの形態分類が承認され、現在まで変更はない。胃カメラによる、生検なしでも形態学的観察でも、早期がんや進行がんの区別が可能になっていた。

 肺の病変は、断層写真や気管支造影は行うべきであったろう。注意義務違反に問われてもおかしくはない。

 他にも肺病変を診断に導く方法はあった。一つは、放射線診断のスペシャリストに一度、読影を依頼すべきであった。放射線科は大きく治療部門と診断部門に分かれる。
 当時、米国留学帰りの読影スペシャリストは少ないが存在した。

 築地の国立がんセンターで研修中、内科で肺がんの読影スペシャリストであるS先生の話を聞く機会があった。彼は、一枚の平面写真から、肺がんと結核などの他病変の鑑別、病変の広がりや組織所見まで当てられた。

 常日頃、国立がんセンターでは臨床と病理の合同カンファランスが行われていた。S先生は間もなく、地方の内科学教室の教授に招聘された。

 軟性の気管支ファイバースコープは1966年(昭和41年)、国立がんセンターの池田先生が世界に先駆け、開発したが、それまでは硬性のもので臨床現場での検査方法の対象になりえなかったので、財前の事例に行うにはもう少し時間を要した。

 肺の放射線診断や、当時有用であった胃の二重造影、胃カメラについては、財前の大学には熟達した医師がいなかったとも考える。
 原告もこの点を突けば、勝訴に持ち込めたかもしれない。

 現在であれば胃の病変は、胃ファイバースコープで、進行度(早期がん、進行がん)、組織診断は生検で、広がりは色素散布などで、容易に診断可能である。
 肺の病変は、非侵襲的な方法はCT、MRI、PETなど、侵襲的方法は気管支ファイバースコープで、容易に診断される。

 里見が研究していた免疫学的方法は、現在では腫瘍マーカー検査(TM)が使用されている。膵がんのCA19-9、肝がんのαFP、PIVKA-II、大腸がんのCEA、前立腺がんのPSA、卵巣がんのCA-125などの特異性は高いが、胃がんにはまだ確定されたものはない。

 当時は明らかでなかったが、現在ではHP(ヘリコバクターピロリ菌)の存在が、将来的に胃がんを惹起することが証明されている。胃がんは消化器疾患であり、また感染症疾患にも分類されることになった。

 大学の使命は診療、教育、研究の3本柱で構成されているが、研究に最も重点が置かれている。すべての大学の教授が必ずしも、市中病院の勤務医に比べて、際立って優れているとは限らない。

 山崎豊子氏が「白い巨塔」を書く動機となったのは、市中病院に入院した時の主治医が立派な医学部を卒業し、自分の主治医として極めて優れて、大学病院の教授以上の実力がうかがえるにも関わらず、なぜ、市中病院の医師でいるのかという疑問から始まったと聞いている。

 事実、大学病院の教授以上に臨床や研究に優れている医師は、市中病院や開業医にも多数存在する。
 ある大学の教授選挙に開業医が立候補した。英文を含め多数の臨床や研究論文の数は、他の立候補者を圧倒していた。新しい手術法の開発も含まれ、手術法に世界に彼の名前が冠されるほどであった。しかし結果は、辞退を迫られたか、最終選考に残ることはなかった。

 財前五郎は最高裁の裁判の開始を待たずに、努力と才能で勝ち取った教授の椅子に長く止まることなく、胃角部のボールマンIII型の進行胃がんでこの世を去った。

 現在は「医療水準」は、各学会が数年ごとに改定している「ガイドライン」が医療水準の基準になっていると考えられる。「ガイドライン」は「標準的」な診断、検査、治療を網羅しており、現在は医療機関の規模や能力に関わらず、日常の診療を行う際、「ガイドライン」に準拠することが要求されている。裁判の場合にも基準と考えられている。

 財前の頃は「ガイドライン」はなかったので、「医療基準」はすべての医療機関に一律ではなく、その医療機関や医師が最善に行いうる診断や治療が「医療基準」とされていた。

 財前が、基本的には胃の病変の判断ミスについて無責というのは、当時の「医療水準」の考え方からすると、当然であると思われる。


残された患者の家族には可哀そうだが、財前は無責であると思う。

 山崎豊子の小説は前後、2回に分けて執筆され、1審後、患者の家族に同情的な意見が寄せられ、2審では被告側が勝訴する記述になったと聞く。