悟りとは

悟りについて、私、三悟空が大真面目に書いていますが、動機は人気がでたらいいなーという不真面目そのものです。お暇だったらお付き合いくださいませ・・・ (よかったら、あなたの思うことなど、感想を書き込んでいってもらったら嬉しいです。一緒に考えましょう)


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落合陽一と仏教と悟り

落合陽一さんという方がいる。

 

自分より年齢は下だが、大変頭のいい方で尊敬している。

 

さて、彼はよく仏教のたとえを出す。

 

例えば事事無碍法界などである。

 

事事無碍(じじむげ)とは、いわゆる事物を事物として捉えて全体を分離させない捉え方で、海外の言葉でいうとワンネスと似ている。

違いといえば、ワンネスにはどことなく神様のにおいが香り立つが、事事無碍は「ただある」という感じだろうか。

 

彼の著書を読んだり、話を聞いていて思うのは、自らが名乗るように、本当にアーティストなのだということである。

 

彼の興味関心の対象は、事事無碍そのもので、そこに見え隠れしてくる物性やエントロピーや深淵などに強烈に惹かれているわけであり、人間存在もそのような事事無碍観で捉えている。

 

彼のやっていることは「進化の過程にある今において、何か自分が果たす方がよい役割がある」という気持ちを持ちながら、それをかなぐり捨てて「深淵と対峙している姿勢」という意味で、アート活動そのものであり、ただそのアーティストが社会とコミュニケートするスキルを持っているが故に、とても器用に立ち回っているにすぎない。

 

そういう意味で、彼の姿はすでに禅であり、いわゆる私が思う悟り状態に近いのだと思う。

 

本当の意味での悟りは、涅槃にいたることではなく、「ただある」ことを理解し、受け入れ、実践することであると思うからである。

 

とにもかくにも落合さんはとても面白い人である。

これからも活躍して欲しい。

 

ゴルフと悟り

悟りとは、普遍の原理を掴むようなことを指す。

従って、何も人生だけに限らずとも悟る分野はたくさんある。

 

その中でも抜群に面白いのは「ゴルフ」だと思う。

 

興味深いことに、ゴルフにおいては「悟った」という人が山ほどいる。

ところが、これも興味深いことに、多くの人にとって悟ったはずの何かは、するすると手の平からこぼれ落ちてしまう。

そして、「掴んだはずの何か」は永遠に思い出されることなく、またその人自らが暗闇の中に入ってしまうこととなる。

 

人生の悟りも似ている。

悟ったはずなのにすぐに迷い、また似たような暗闇に入ってしまう。

まさに人生のとゴルフは、似て非なるものどころか、ゴルフは人生そのものと言えるかも知れない。

 

では、なぜそのようなことになってしまうのか。

 

それは、「悟ったこと」が間違っているからに他ならないと思う。

 

ゴルフにおいて顕著なのは「自分の身体感覚でわかってしまうこと」である。

これは煩悩というか、まさに迷いの一種であると考えられる。

 

それは、こちらのページを読んで凄くよく分かった。

ゴルフの物理

 

ゴルフにおける真理、すなわち悟りとは「ゴルフクラブがボールを物理法則に従って飛ばしている」ということである。

それが故、自分自身の身体感覚で掴んだこと、は完全に幻であり、迷いであり、惑いである。

 

人生における悟りもそのようなところがあるかも知れない。

悩みに対する解決策を自分の身体感覚で掴んでいては、結局、何か間違ったものに導かれてしまうのであろう。

 

結局は、ゴルフも人生も「物理に代表されるような何らかの法則」が働いているこの世界において、自分がどう合わせるか、の問題にすぎないということだと考えられる。

 

とても残念なことは、世の中の法則は人間にとってある観点から見れば無慈悲なことが多いことである。

たとえば物理法則に従って飛行機が落ちたとして、その中の善人と呼ばれる人だけが助かるといったことは一切ない。

 

おそらく世の理というのは、人間と関係なく進んでいる。いや、人間も包括しながらすべてを含めて進んでいる。

それが故、その1つのパーツにすぎない私達は、その理法に従って、どのように生きるのかを選択するという、まったく受け身な姿勢が求められるのだ。

 

ただ、ゴルフからは学べるところがある。

プロゴルファーは、その受け身な姿勢を求められる中で、鍛錬を積み、なるべく自分の思うような結果を残せるようトライし、そして実際に高確率でよい結果を出している。

 

つまり努力はしないよりすれば、それは報われる、ということも、またゴルフからわかるのである。

 

 

 

性善説と性悪説。結局どっちなのか?

性善説と性悪説というのがある。
言葉は有名だけど、いつが出自なのか?
どうも性善説は孟子(紀元前300年くらい)で、性悪説は遅れること数十年、荀子の言葉っぽい。

で、この時代の人も悩んだのだろうけど、僕達をも悩ませる性善説と性悪説。
人間は進化せずに変化するというのは素晴らしい言葉だと思うけど、まったくそのとおりである。

さて、ぼくの結論では、そもそも悪と善と考えた時点で”やっちまっている”と考えている。

というのは、善悪というのは、あくまで人間社会の話であって、そのグループの大きさや信念などで、どうとでも変化してしまうからである。つまり絶対的な基準を作ることが不可能である。

極論だが、人を殺すことすら、善になりうる。
だって、戦争せずに人間が増殖して動物絶滅させたら、それは地球を愛する気持ちからしたら悪という考え方もあるからである。

なので、善悪を考えるのは無限の回答がでないスパイラルループであって、非常に心が折れてしまう。僕もそうだったからすごくよくわかる。

では、どう考えたらいいのか?というと、生命の神秘をそのまま不思議として受け入れる覚悟が必要になってくると思う。

僕は、生命は、この世だけで終わるとは到底考えていない。これは直感に近いインスピレーションだから信じるも信じないも自由である。

ただ、もし信じるとすると、この世で死んでも、結局死なないのである。近いイメージでいえば魂というのが普遍的に存在する。

これはある意味恐ろしい。

いつまでたっても死なないのだとすると、何もしても自由である。善悪もへったくれもない。

ところが。

実は誰もが、唯一絶対的な基準を持っている。
それは、自分が死ぬときに自分を誇れるのか?良かったと笑うことができるか?という基準である。

これだけは、消せない。なぜか絶対的な尺度をもって、僕達に襲いかかってくる。

これこそ、僕は僕達が魂をもつなんとなくの証拠だと思っているのだけど、それは感じる人感じない人様々だから、どっちでもいい。

まぁ、ということで、今回のタイトルである性善説も性悪説も、人類を一塊にして、理想郷を作りたいと考えたが故の悲しくも美しい”問い”であって、実際は、全ての判断と生き様が、各一人一人に全て任されている人間社会が、諸行無常に漂っているだけという恐ろしい状況なのである。
進化もへったくれもないのである。ただ生きろというメッセージは、結局それしか残らないからである。

これを考えるに、僕はつくづく絶対的な生命の不思議を受け入れざるを得なく、もしそれを神様と呼ぶのであれば、完敗を認めざるをえないのである。

「それでも人生にイエスと言う」というナチスの収容所にとらわれていた方の講演をまとめた素晴らしい書物に書いてあった思想を引用しよう。

「人生をどう生きてやるかなんかおこがましい。人生が私達に問を突きつけてくるだけである。それに対する態度だけが選べる。」

追伸:
この態度も、優しすぎて迷ってしまう人がいるかも知れない。
もしそうであれば、それは”愛”がなせるわざだと信じてほしい。
そして、その愛すべき存在は、周り、そして何よりあなた自身を愛するのだと信じてほしい。


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