救急病棟で再会したとき母は生きる気力を無くし、「死にたい」と言っていましたが、見舞いに行く度「死にたい」「殺してくれ」と繰り返すようになりました。
染井自身、幼い頃から自分の障害と戦い続け、治療やら手術やら続けてきたので辛いのは解ります(※)。
しかし、最後に病症と戦うのは結局自分しかないのです。
医者は治療をしてくれますが、本人が治す気力がなければなんにもならないのです。
嘆いてばかりでは先に進まない。
そう伝えてみたのですが、母は「死にたい」としか言いません。
段々、見舞いに行くのが億劫になりました。
元々、染井は母のことがあまり好きではありません。
他人に厳しく、自分に甘い母。
明らかに障害のある自分より、健常者の弟を露骨に可愛がる母。
好きになる要素がないし、母親としての愛情を求めては手を振り払われてきたので、高校生ぐらいから母を母親だと思うことをやめて同居してる家事名人ぐらいにしか思ってませんでした。
そう思わなければ、染井の心はぶっ壊れていたと思います。
今後始まるであろう介護生活も不安しかなくなり、早くも染井の心が悲鳴を上げ始めました。
ところが、母の体は精神と反比例するようにメキメキと回復していきます。
入院後3日目くらいにはリハビリが始まり、右側に麻痺があるものの歩けるようになりました。
手はなかなか動かし辛いようですが、それでも少しずつ指の曲げ伸ばしができるようになりました。
喋ったり、飲食しにくいようですが、口もなんとか動きます。
それでも母は「死にたい」と繰り返します。
…じゃあ、死んでくれ!
と言いたいところをグッと堪えて、染井はなんとかなだめ透かしました。
そして2012年のゴールデンウィークが開ける頃、母の退院が決まりました。
いよいよ介護生活が始まるのですが、この時は「この調子でリハビリを続けていれば、1年後には仕事に復帰できるかも?」と楽観視していました。
まさか自分の母親があそこまで手に負えないとは思いもせずに。
続く
※染井は障害者手帳4級を持っていますが、6回の手術と20数年に及ぶ通院治療によって現在はほとんど障害者には見えません。子供の頃は言語障害があったので分かったようですが、今では手帳を出すと驚かれます。しかし先天性の奇形による障害で、一見障害がないように見えても「手帳を返せ」とは言われません。