なんか、焦りますね。

桜が満開だと焦る。お花見の予定だってまだ立てていないのに、桜がきちんと咲いてる週末なんて限られている。急がないと。まだ、まだ、まだ、散らないで。待って待って。気持ちが春についていかない。なのに春は必ず行ってしまう。それをみんなが知っている。かならずさようなら、それが春。

さらにやっかいなことに、今週の東京はあんまり天気が良くない。晴れは明日くらい。よいお花見をするためには、タイミングが重要。今日もぱらぱら雨が降ったりしていたしなぁ。でもこんな日は「外に出て桜を見なければもったいない、春の無駄遣いだ」という強迫観念にもかられずにすむ。私が満開の桜を無視しているのは、今日がくもりだからです。オフィシャルな無視です。

そんなわけで今日は落ち着いてミシンと向き合うことができた。ひたすらワッペンを縫っていた。黒色ばかりを選んでいたので、16時頃には黒い糸をひと巻き使い切ってしまった。私の手元には30色以上のきれいなミシン糸があるのに、黒がないことには今日はもうだめだった。黒、黒、黒がないと。こげ茶で代用してみたけれど、だめだった。ひとつのことにとらわれるともう他になにも手につかなくなる私は、黒い糸を買いに外に出た。雨も肌寒さも桜も気にならなかった。黒い糸がほしい。

高円寺駅北口を出て、中通り商店街をまっすぐすすみ、ライブハウスShow boatを背にして北北西に77歩、まわれ右してさらに9歩あるいたところにその店はある。
日本唯一の黒い糸専門店だ。

「いらっしゃいませ、すみません。」
ここの店員は60代半ばの女性で、いつもなにかと謝ってくるのだった。でも、長い間通っているのでもう慣れた。「黒い糸が欲しいんです。」「ええ、わかります。うちには黒い糸しかないので。すみません。」

もう4月だというのに店員はストーブの前でふるえていた。座りながら接客をするのは感じが悪い、と思う人もいるかもしれないが、私にはこのぐらいの距離感が落ち着くのだった。とくに、黒を選ぶときには。
店内は棚だらけだ。棚にはたくさんの黒い糸が隙間なく並べられている。まず、入り口のすぐそばの新商品が並んだ棚を物色することにした。店員がしわがれた小さな声で「new arrival.」と言った。
私は並べられた黒い糸を一巻きずつ手に取って、裏側に貼られた手書きのラベルを読んでいった。


"不眠症の人だけがみている夜の色"
"怒ったイカが吐いた墨色"
"隣の部屋の住人が驚いたときの瞳の色"
"よく焦がしたトーストの色"
"海の底にずっと落ちている石の色"
"あなたが思う闇の色"


ずいぶん悩んでから、"あなたが思う闇の色"、を買おうかと一瞬レジに向かいかけたけれど、よく考えてみたら、私にもそれがどんな色なのかわからないのに、どうして誰かに決めつけられなきゃいけないんだろう、と思い、だんだん腹が立ってきた。

「すみません、買わないんですか。」
「はい、やっぱり今日はやめます。」
「すみません。」

店員が悪いわけではないけれど、謝られてすこし落ち着いた。今日だけは彼女の癖がしっくりくるな、と思った。なんとなく気まずくなって、店をあとにした。


外に出ると雨は止んでいて、なまあたたかい春風がアスファルトの匂いを背負ってやってきて暴力的に頬を撫でたので、私はむせながら「春が嫌いだ」と思った。私は機嫌が悪かった。



そのあと中央線に乗って新宿で降り、高島屋に入っているユザワヤで糸を買った。
それは本当です。



4月1日