今から40年ほど前、鳥取県中部の倉吉市で向山〈むこうやま〉309号墳の発掘調査に携わりました。直径が10数mの円墳でしたが、大形の箱式石棺と思われる埋葬施設はすでに盗掘を受けていて石材も失われていました。古墳の周りからは転落したと思われる埴輪〈はにわ〉が出土するのですが、円筒形埴輪や朝顔形埴輪にしては突帯(タガ)や透かし穴の部分が一向に見つかりません。不思議に思っていると、棺として利用したのか全形の分かる埴輪が穴の中から見つかりました。それは口が大きく開いた壺形〈つぼがた〉埴輪だったのです。口径33㎝、高さ39㎝の大きさで、別づくりの口と胴を接合する、上下を逆さまにして内側を粗く削り上げる、口から肩に赤い顔料を塗るといった特徴を備えていました。

 実はこれとよく似た埴輪はすでに見つかっていました。戦後間もなく岡山大学の近藤義郎さんが発掘した蒜山原〈ひるぜんばら、現真庭市〉四つ塚13号墳の壺形埴輪です。鳥取県との県境に近い中国山地にあるこの古墳は、小さな造り出しを持つ直径20mの円墳で、長さ3.2m、幅1mもある大きな箱形木棺には鏡や玉、竪櫛〈たてぐし〉のほか多様な武器や豪華な馬具などを副葬しており、6世紀前半にこの地域を基盤とした有力者の墓と考えられています。この古墳の壺形埴輪は、形や大きさはもちろん、つくり方や仕上げ方、彩色の仕方も向山309号墳のものとそっくりです(もっとも、発掘当時、大きく開いた口は朝顔形埴輪の一部と見なされていましたが)。その後、こうした特徴を持つ壺形埴輪は倉吉市周辺で出土例が増加し、古墳時代の終わりごろ(6世紀前半~後半)にこの地域で生産されたものと考えられるようになりました。四つ塚13号墳では、三段につくられた円筒形埴輪や簡略な造形の家形、馬形、鶏形、人形埴輪も出土していますが、やはり倉吉市周辺のものとよく似ていて、壺形埴輪とともに運ばれたのでしょう。

 今から約1500年前、100を超える山陰の埴輪がはるばる中国山地まで運ばれた背景にどのような政治的な繋がりがあったのか興味はつきません。

 

左は岡山県四つ塚13号墳の壺形埴輪(近藤義郎ほか1992「蒜山原四つ塚古墳群」から)、 

右は鳥取県家の上1号墳の壺形埴輪(鳥取県立博物館2008「因幡・伯耆の王者たち」から)

 

岡山県四つ塚13号墳の家形・馬形・鳥形埴輪(近藤義郎ほか1992「蒜山原四つ塚古墳群」から)