前回に引き続き日亨上人のインタビュー記事を掲載させていただきます。
大石寺の御法主は15代日昌上人〜23代日啓上人まで九代の間、京都の要法寺出身の僧侶が御登座されています。
その歴史的背景をお話ししている貴重なインタビュー記事です。
大白蓮華・昭和31年11月号より引用
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
#京都・要法寺
要法寺から来られたもとはですね、やはりこの、日尊上人と日道上人との関係からもきているのですね。
道師も尊師も奥州出身ですからな。
同郷でやはり日目上人やなんかに関係の深い人です。
それで同じ目師門下として付き合いが親密であった。
こんなわけで大石寺と要法寺との関係がなんとなく結ぼっていったのですね。
それで日有上人の晩年にもですね、三位阿闍梨という人が要法寺から来て、そしてこの大石寺の所化たちの監督をしていたんです。
その三位阿闍梨日猊なんていう人がですね、要法寺から来て日有上人の下に仕えて今の左京阿闍梨日教なんかと一緒に支えていたわけだ。
そういうこの日有上人の時代に要法寺との関係があった。
そんな関係に続いてですね、この大石寺の日主上人と向こうの要法寺の当時の貫主との関係が結ばれた。
その関係を結んだ人はですね、粟田口の清という豪族が取り持ってですね、要法寺から入ることになった。
そこで大石寺はですね、例の有名な日性(本地院日性)を入れるつもりだった。
日性というと日辰門下の一等学者でとても京都方面では幅がきく人で、そこら中の公卿から招待せられて講義に行く、又宮中からも呼ばれるというほどでね、学者でなんでもできるんですから、ええもう、神道の講義でも何でもやるんですから。
仏教の講義ばかりじゃない、重宝な人物だったんですね。
そういう人を連れて来たら大石寺が繁盛するじゃろうと言っていましたけれども、向こうじゃ離さない。
それは向こうで役に立ちますからね。
それでなんですね、日昌上人が来られたんです。
この人もものができるんですよ。
それから九代、九代ですけれどもそれは始めのうちはね、要法寺で相当出来上がった人が来たです。
後にはね精師(17代日精上人)以後はですな、精師そのものも出来上がって来たんじゃないんです、若い時来たんです。
そして大石寺に来て江戸へ出てそして偉くなった。
精師以前の人はですね(15代日昌・16代日就上人は)向こうから大きくなった成人した人が来たんです。
精師以後の人はみんな大石寺に来て大きくなった。
所化で来たのが多いですね。
ですから要法寺から来たと言っても、ただその躰をもらっただけです。
それですから学問なんかもですね、一々要法寺流を持って来たわけじゃないんですね。
でも、いくらか要法寺の弊害は残ったですね。
それをすっかり改めたのが同じ要法寺出身の(22代)日俊上人。
あの人が要法寺から出ていながら要法寺の弊害をキレイに大石寺から洗った人です。
(この日俊上人が)そういう仏像などをとっちゃった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
面白いですね〜
大石寺にあった謗法を要法寺から来た法主が取っ払った!
「事実は小説より奇なり」
創価学会では
「他山から法主を迎えるほど大石寺には人材がいなかった」とか
「要法寺から邪宗の坊主を迎えた時に血脈は切れた」などと言ってますが、昭和31年、この大百蓮華を出す時になぜ日亨上人言わなかったのでしょうか???
そしてその血脈が切れた後の26世日寛上人のコピー本尊を拝んでるのですから自語相違も甚だしい
これじゃ精神病になるわけです
現創価学会員のみなさん
精神疾患→精神病になるまえにさっさと脱会しましょう
妙光寺支部の城内でした