福岡県豊前市より
占い庵です
私は龍馬さんの大ファンです
四国お遍路八十八寺霊場巡礼の際も
土佐を巡る時は
龍馬グッズを買い込んでます(笑)
土佐では
龍馬さんの名前入りのタオルやファイルなど
龍馬グッズが沢山販売されていて
アイドルのよう(^o^)/✴❤❤
時代の寵児。風雲児。
坂本龍馬の力で
日本の明治維新が100年早まった❗とも、云われておりますよ。
宿曜占星術では
坂本龍馬は『鬼宿』だったと伝わっております☆☆
鬼宿の方は
自由奔放。
人懐こくて誰にでも合わせることができます。
犬猿の仲であった
薩摩藩と長州藩を仲良くさせることができたのは
→薩長同盟。
坂本龍馬さんが
くったくのない笑顔と誰からも愛される
魅力溢れる鬼宿だったからこそ
成功出来た
同盟だったのかもしれません。
更に鬼宿は
型にはまることが大嫌いなので
坂本龍馬が書いた
『船中八策』には
→船中八策(せんちゅうはっさく)は、
江戸時代末期(幕末)に
土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が慶応3年(1867年)に起草した新国家体制の基本方針とされるものの俗称。
明治維新になった場合の
新しい総理大臣や様々な大臣たちの名前など、新体制の中に
自分の名前を入れていませんでした。
坂本龍馬さんは鬼宿なので自由人。
きっと、堅苦しい、国のお役人になることを嫌ったのでしょうね。
明治時代になったなら、
『わしゃのう、海援隊で海を航海したい』と、仰っていました。
でも、もしかしたら
龍馬さんは霊感がある方で
近々、暗殺されることを予感していたのかもしれませんね。
坂本龍馬が徳川家康のように
長生きされていたなら❔❔❔
日本はどんな感じに
変わっていたのかな?と、思うと
う~~ん、
益々、
ロマンは広がりますよね。
坂本龍馬(1836年~1867年)
江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。脱藩後は志士として活動し、倒幕、明治維新に大きな影響を与えた。
【 生涯概略 】
1835年、土佐(現在の高知県高知市)の郷士(下級武士)坂本家に次男として生まれる。
龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ夢を見たことに因んで龍馬と名づけられる。
商家出身の坂本家は下級武士であったが、非常に裕福な家庭であった。
少年時代の龍馬は気弱な性格であり、いじめにあって抜刀騒ぎを起こし、
漢学の塾を退塾させられたという。
以後、姉の乙女が武芸や学問を龍馬に教えた。
12歳のときに母が死去。13歳で剣術道場に入門して小栗流を学ぶ。
1853年、18歳のときに剣術修行のため江戸に出て、北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となる。
同年、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航。
1854年、江戸修行を終えて土佐へ帰国。翌年に父が他界する。
1856年に再び剣術修行のため江戸に出て、武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿。
1858年に土佐へ帰国する。
1861年、武市半平太が土佐藩を尊王攘夷の方向へ導くため、土佐勤王党を結成。龍馬も加盟する。
しかし、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができず、1862年3月に龍馬は土佐藩から脱藩。
この時期に、長州藩の久坂玄瑞、高杉晋作らとも交流。
1862年8月に江戸に出て小千葉道場に寄宿。
その後、勝海舟の門人となる。
その後は日本の未来のために志士として活動し、1865年には、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成。
1866年には、雄藩として大きな影響力をもつ薩摩藩(西郷隆盛ら)と長州藩(木戸孝允)の同盟の斡旋や江戸幕府の終焉となる1867年の大政奉還の成立に尽力し、倒幕および明治維新に影響を与えた。
しかし、
大政奉還成立の1ヶ月後に龍馬は近江屋事件で暗殺され、満31歳の生涯を閉じました。
坂本龍馬の 名言・格言
日本を今一度
せんたくいたし申候
世の人は我を何とも言わば言え
我が成す事は我のみぞ知る
義理などは夢にも思ふことなかれ
身をしばらるるものなり
事は十中八九まで自らこれを行い
残り一、二を他に譲りて功をなさむべし
恥といふことを打ち捨てて
世のことは成るべし
何の志も無きところに、
ぐずぐずして日を送るは、
実に大馬鹿者なり
時勢に応じて自分を変革しろ
われ、はじめて西郷を見る。
その人物、茫漠としてとらえどころなし。
ちょうど大鐘のごとし。
小さく叩けば小さく鳴り。
大きく叩けば大きく鳴る。
感涙とどめず、
遥か江戸の地より拝し、
龍馬かならずこの恩に報うべし、
と天地神明に誓ふ。
- 坂本龍馬 -
※父が亡くなった時に詠んだとされる句
世界の海援隊でもやりますかな
丸くとも
一かどあれや人心
あまりまろきは
ころびやすきぞ
- 坂本龍馬 -
ブログにお越しの皆様に
愛と幸運のシャワーが降りますように☔☔