陽秋の全体像の彼方へ -2ページ目

陽秋の全体像の彼方へ

ヨウシュウ
混沌の浜辺から 街の観察や交叉するところ

年末でその年末への思いが深まる、ということはないが、年末ということを考える回数がこれほど多い年

 

もない。それは職場にいる暇な時間が長いせいである。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今日は年末、明日も年末、まだ三日も年末か、と

 

考える。僕らはこうして暇と言って喋ることで、またその言葉を思い浮かべることで時間に相対して

 

いる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朋(とも)あり、遠方より来る、亦楽しからずや、

 

と論語にあるらしいが、それは楽しいに決まっている。それは退屈ではないから。ではその友が

 

"退屈というもの"だったら?喜ばしくないだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

退屈には中味がないから、ないと思われているから。それは一応正解⭕。ここからが別な世界。

 

退屈にいて、退屈を忘れるほどにその中に留まると、自意識という五感を越える瞬間が訪れる。

 

面倒なのは、それを期待するほどのわずかな自意識でも、訪問の邪魔をしてしまうこと。瞑想というの

 

は、おかしなもので、気絶しないで気絶することをいう。確かに、別世界ふうだ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昔は娯楽が少なく、街を歩いていてやたらと眼に

 

つくということもなかったのだろう。それでなくとも耳にイヤホンで歩きながら音楽を聴いている、そのうち

 

スカウターで目の前にテレビ画面を見ながら歩くようになるのだろう。ほんの数年のうちに車内も

 

スマホからスカウターだらけになって寝ながらスカウターはつけっぱで ・ ・。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そう言えば、数年前に自分の好奇心の方向が

 

いくつあるのかノートに書き出してみたら、百と少しあった。ほとんど休眠しているが、20以上は活動中

 

だと。それで歩きながらも考えているのだろう。イヤホンもスカウターもいらないわけだ。元手がかからな

 

い。経済を考えたわけでもなかろうが ・ ・ 。

 

年末も考えて過ごす職場かな、とか。

もういい

 

なにも 思い出さなくて いい

 

わかっているから

 

ソ ラ シ ド あの通りが  見える

 

秋だったのか  春だったのか

 

木枯らしが 吹いたような

 

陽光が 石畳に  明るすぎた

 

思い浮かぶ  あの通り

 

ポツン ポツン と

 

水玉の中に 浮かぶような

 

あの頃の  世界

 

あの頃の  音  ピアノ

 

本を 開いてください

 

私が 読んで 差し上げます と

 

あれは 夢だった

 

犬が  僕に ため口きいて

 

日本間には  黒い家畜が

 

ちまちまと  たくさん たくさん いて

 

君は  僕を 叱るように

 

洗濯ものを  干しながら

 

暗誦で  本を 読み上げる

 

その声は  朗々と

 

晴れた日の  声だった

 

あなたを 愛しています、とは

 

言わないで

 

君は  僕が 好きなんだね と

 

照れを  隠す

 

聞こえたかのように  あなたは

 

私が 好きなんでしょ  だったら

 

もっと  大切に してください と

 

はい

 

和歌山にある  明治の粘菌学者の家だった

 

君は 誰だろう  知らない人

 

いつも 知らない人だったが

 

姿を 変えて  夢に

 

現れる    夢の 案内人のように

 

歌いあげるように  空で

 

本を読む 人よ

 

君が 好きだ

 

どうして  この言葉を  君に 言えない

 

どうして  君の顔を  覚えていない

 

どうして  この気持ちだけが

 

愛おしく  残るのか

 

僕は 玄関先で  猛獣を

 

待ちうけるが

 

近づいてきた 獣は

 

もう 紙切れになって ヒラヒラと

 

頼りなく  帰って行った

 

僕は 君をリード したいのか

 

されたいのか

 

どちらも いやなのか

 

どちらでも いいのか

 

門前の 格子の その先を

 

蝶が  ゆくよ

 

まだ 手入れが 完全には

 

終わっていない 庭に はいって

 

僕は  なにかに  出会う

 

それも 君なのだろうか  と

 

思ってみる

 

この気持ち

 

この  湖  ミズウミ

 

この ・・

 

この なんでもないよ

 

ただ  胸が  ・・

 

高鳴る る る ル ル

 

 

この気持ち

 

この  湖

 

この ・・

 

この なんでもないよ

 

ただ  胸が  ・・

 

( 高鳴る る  る  る ル ル)

 

 

 ル ル ル ル ル ル ゥ ゥ ゥ

 

 

ただ 君を

 

 

 ル ル ル ル ル ル ゥ ゥ ゥ

 

 

( あ )

 

 

 ル ル ル ル ル ル ゥ ゥ ゥ

ドラマを見ていると、第1話は俳優の気が入っているせいか、先入観なしで見るせいか、

 

人物の演技に違和感を感じないで、楽しめる。それが3話くらいを越えてくると、如何せん

 

俳優の演技がうまいなぁという感心に変わる。演技をしている俳優の集中の微妙な

 

途切れを拾ってしまうらしい。それは演じやすい性格の人や俳優の人格に沿ったものなら

 

感じないのだろうけれど、微妙な人格・性質で俳優とまったく違うものを演技するのは、

 

やはり演技がうまくても苦しさを、つぎはぎではあるけれどもその瞬間瞬間に感じてしまう。

 

特に最終話となると、いろいろなものをまとめる必要が出てくるので、俳優も感情移入しに

 

くいのだろう。前のパターンの演技ですませるので、新鮮さがない。

 

素晴らしいシリアスなドラマほど、そうで、韓国ドラマだったら脚本がなんでもありなので、

 

あまり気にしないで見ていられる。どんな物語もそれは人生の小説・一小節であるので、

 

終わってみればその範囲・限界という、その思考世界においての区切りが見えてしまう。

 

そう考えてから、いつも、これはこれでいいのだと思う。好きか嫌いかで見るのがドラマだから

 

視聴者にまるで合わせないドラマはあり得ないのだから、僕は自分の観察の批判をして

 

感覚を験すことができる部分を確認していればいい、と。

 

という面白くない自己批判に終わる。ドラマに涙し、酔いながら、観察は欠かさない。

 

ものを知ると、それの変態につき合うには最低でも二重の眼が必要になると、思っている。

 

これもどちらかに偏ってしまうと、むなしく不幸になるか、感傷的で心が弱くなってしまうか、

 

する。心は単純だが、バランスの様相は複雑なので、感情の中点は真ん中ではなかったり、

 

思考の中点は中間とか妥協点とかはなかったりする。無印の力はこの2つ3つの天秤を支える

 

ために必要になる。

 

順番に調整するしかないのだが、まったく時間がない時もある。突然、自分の親が本当の親では

 

ないと知ったり、とか。知ってから、親に会わす顔がない。あまり話さないように、顔を合わさない

 

ようにするだろう。

 

これは自分というアイデンティティを心から落とした例になるだろう。

 

はじめて自分はどうして生まれたとか、愛されたのか、とかそういうことが、今まで気になら

 

なかったことが気になる。どうして人は自分と向き合わないのかという問題を考える立場に

 

なると、面白い現象だ。

 

というように、僕らは知らないことばかりに囲まれているのだが、はじめからそれはそうだ、と

 

決めてしまっていることが多すぎる。なにもかもがそうなのだが、それに気づくことがないのは

 

あまりに当然のことだろう。そこでそういうものを探すと、著名な(ノーベル賞とか)人物の

 

エッセイを読むと、物理学賞なら数学や物理の欺瞞が教科書になっていることが書かれて

 

いたりする。反常識なので、大々的には書かれていないが、そういう断片は他の人にも書かれ

 

ていてそれぞれの業界や学界や専門家団体がその表向きとは関わりなく、正しい整合性と

 

整合性のないほころびによって合成されている。古典に類した有名な著者にはそうしたエピソード

 

があり、それは表だって書かれない。むしろそれを売りにしたような題のついた「~の謎」とか

 

「~陰謀」とかのほうが怪しい。

 

そういう世界に散らばったほころびの情報を集めて、それぞれを考えて結び付けてゆくと、ある時点

 

で、この世のすべてがほころびだけでできていると結論してしまう結果が出てくる。思いがけないの

 

で、すぐには信じる気にはなれない。

 

僕らの宗教や法律や信条や常識や家庭や行事もそういうものでできている。それが自分をつくって

 

いる。そのからくりに気づくと、僕らは批判者になる。いずれ自分を否定するという壁にぶつかる。

 

受け継いできたものや祭りごとを捨てることはできないと強く感じる。それはそれこそが自分を

 

構成しているものだから。自分は否定できない。

 

それ以上先には進めないと”考えられる”ので、進もうとすると自己嫌悪が待っている。それが、

 

つまりは世間や世界を批判することが自分を完全否定することにつながると、今まで見えていな

 

かったから。

 
多くの人はここまで進んで戻ってくる。だから、自己を知ることはできない。それを非難するのでは
 
なく、そういうことになってしまう仕組みを説明している。
 
戻ってくるつもりだが、戻ることはできない。すべての変化に対応できずに今あるように見えるものを
 
守って、どんどん後退する自分を肉体的にも心的にもつくっているので、遅れた対応しかできなく
 
なっている。本人は気づけない。自分に向き合わなければ、常に別の方を向いているからだ。
 
うまくいかない。いかないから、他人に、つまり世間に転嫁して、自分をカバーしようとする。
 
カバーしなければならないほど、あなたは苦しんでいる、悩んでいる、ということを早く認めて
 
あげないと。
 
大筋はそうだが、成長部分は人それぞれ違うし、得意なことはそれなりに進化するから、全体で
 
成長が止まることはない。部分で向き合った(知り得た)自分は変化させるから、それなりに成長
 
する。向き合わない部分がいつか人生に仕返しをするだけだ。手入れをしない植木は枯れてしま
 
うのと変わらない。因果であるが応報ではない。枯れるのは自然の摂理で、あなたを苦しめる
 
ために植木は枯れてしまうのではない。応報は迷信だ。
 
 
遠くから 来るものがある
 
なんだろう
 
宇宙のものと 呼べるものだろうか
 
迫りくるもの
 
鼓動のように 速くなるもの
 
神話や  原始の  太古からのもの
 
ただの 感傷で 呼び出そうとしているものではない
 
忘れているが  忘れられない印象  心象  意識というもの
 
 
地球では 地軸が回転して
 
時間という感覚の  朝と 日没を つくり続ける
 
日本では  日本時間の 31日23:59 を 待っている
 
0:00になると  もう待つことはできないのは
 
奇妙な感に 襲われる
 
で 
 
なには ともあれ
 
明けまして ・・  と 挨拶がはじまる
 
いやいや
 
ともかくも  ・・
 
 
おやっとさんでした
 
 
無事に ここまで  やってきました(笑)