ハイどうもみなさんこんばんは! そうだいでございますよっとぉ。

 いや~、私の住む山形は、6月に入ってからいきなり朝夕寒くなっちゃってね。日中はそこそこ暑くなるんで、ほんとに何着たらいいのかわかんなくなりますよね! 梅雨もまだ始まってないしさぁ。今年の夏は一体どうなっちゃうんだろ? 今のうちに、このつかの間の気候を楽しんどきますかい。

 

 さてさて今回は、先月5月の週末に3週連続でずっと楽しんでいた、近所の映画館で開催の「昭和ガメラ映画祭」の最終プログラムとなる『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス 4Kデジタル修復版』を観てきた感想でございます。

 

 いや~、ついにこの日がやってきました。

 実は、この映画の感想については、旧ブログにてなんと10年以上も前につづろうとしていて、前作の『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』といっしょに映画に関する基本資料のみをあげていたのですが、資格試験の勉強やら引っ越しやらで肝心カナメの感想記事をあげることがかなわず、ついに2026年の今日まできてしまったということなのでした。塩漬けにしすぎだろ……でも、私の旧ブログって、そんなんばっかでした。

 

 まぁそれにしましても、うちにもちろん本作の DVDは置いてあるんですが、今回、考えうる限り最高の鑑賞環境である「4K デジタル修復バージョンを大スクリーンで!」本作を堪能することができましたので、これを年貢の納め時といたしまして、やっと感想をつづらせていただく運びとあいなりました。なげーわ!!

 

 

 いや~でも、前の『ガメラ対バルゴン』のときにも触れましたが、『対バルゴン』と本作は、私ほんっとに大好きな怪獣映画なんですよ。両作の魅力はそれぞれ別にあるのですが、ともかく私の中での「おもしろい映画の基本」みたいなメソッドが詰まっている、まさに教科書みたいな作品なんですよね。

 

 そうは言いましても、私は特に日本に数ある特撮フィクション作品の中で一番ガメラシリーズを愛しているというわけではなく、やっぱり世間一般のご多分に漏れず、ゴジラシリーズに代表される東宝特撮映画群や、円谷プロのウルトラシリーズ(昭和)を観て育ってきたという自認があります。やっぱり、シリーズ全体が比較的安定しておもしろいのは、そっちの現役有名シリーズですよね。

 

 ただ! そんな私でも、この『対バルゴン』と『対ギャオス』の2作だけは、有無を言わさず「奇跡的超傑作」としか言いようのない輝きを放っていると思うのです。これがもう、東宝や円谷プロといった特撮王道の作品群とは違った方向性で面白さを追求し、その結果、私の見立てでは少なくとも『対ギャオス』は明らかにそれら超えた境地に達していると思うのです!

 

 先の『対バルゴン』の感想記事の中で私は、『対バルゴン』は娯楽映画としての傑作、『対ギャオス』は怪獣映画としての傑作という違いがあると申しました。

 すなはち、『対バルゴン』は言うまでもなく面白いわけなのですが、その面白さは「怪獣同士の決闘」と「人間ドラマ」の2パートがほぼ互角に競り合っている中で生まれるものだったのです。人間パートの小野寺というモンスターの存在感が、ほんとにバルゴンなみに周囲を食いまくってる! ま、最後は喰われちゃったけど。

 

 ところが、それに対して次作の『対ギャオス』はどうかというと、明らかに意図的に「怪獣同士の決闘」パートを増強し、とにかく「属性の違う怪獣たちの決戦」の見せ方の工夫に全力を注いでいる点が特色と言えるのです。ただし、だからと言って人間パートをないがしろにしているわけでもないのが、本作の脚本を担当した高橋二三のすごいところ。ちゃんと過去のガメラ2作品に引き続いて「きわめて道徳的なメッセージ」をしっかり入れていながらも、絶妙なさじ加減で怪獣パートに見せ場を譲っているんですよね。これはやっぱり、本編と特撮の両監督を一人の人物が兼任している体制だからこそできる阿吽の呼吸だと思うのです。前作の『対バルゴン』なんかが顕著でしたが、やっぱり本編と特撮はプライドの張り合い、作品の見せ場の取り合いみたいな関係になってしまいがちですから。その競争がいい場合もあるのですが。

 

 本作の魅力を一言であらわすのならば、それはもう

 

 

「理屈なんかどうでもいいから陸海空の怪獣対決に酔い痴れろ!!」

 

 

 これに尽きてしまうでしょうか。とにかく特撮パートのサービス精神にほぼ全振りしてる映画なんですよね。

 

 まず「理屈」という視点から本作を観てみますと、もう冒頭からして設定がムチャクチャです。

 最初、物語の開幕を告げる先ぶれとして、日本海溝の太平洋プレート沿いに連なる東日本火山帯に属する、伊豆諸島の明神礁や三宅島の雄山(おやま)が連続して噴火し、それに刺激される形で富士山までもが噴火してしまうのです。その富士山のマグマエネルギーに誘われて、我らがガメラが日本に舞い戻ってくるというわけ。

 

 

え? 富士山が噴火? それ、ガメラがどうとか言ってる場合じゃないんじゃ……

 

 

 そうなんですよ。この作品、冒頭のお膳立てになるはずの天変地異が、もうすでに怪獣2頭が鉢合わせとかいうレベルを軽く超えちゃってる規模の国難、いやさ世界的な自然災害になっちゃってるんですよね! いやいや、そんな状況でガメラがどうとか、ましてや新幹線の線路開発とか言ってる場合じゃないでしょ! 用地開発なんかどうでもいいから東海地域のみなさんは全員避難しろや!!

 

 ままま、そんなこと言っちゃったらお話が全然進まないので、そこはなんとか富士山サマにもこらえていただいて、「なんか噴煙とかマグマは大したことないから避難しなくてもいいかも~」程度の都合の良すぎるプチ噴火にとどめつつ、ガメラの飛来とギャオスの覚醒を招くトリガー役だけに徹してもらってます。いや、富士山なめすぎでしょ……時代は違うけど、黒澤明監督の『夢』(1990年)と同じ山が噴火してるとは思えない平和っぷりですよね。

 

 これはシリーズ第1作の『大怪獣ガメラ』から言えることなのですが、昭和ガメラの初期3作に共通していることとして、高橋二三脚本には「怪獣も地球自然の一部」というか、なんなら怪獣以上に大いなる力を持つ自然現象の存在感がハンパないという特色があります。

 

 すなはち、『大怪獣ガメラ』においては人類が国家の枠組みを超えて団結した「ガメラ誘導作戦」が台風によっていったん頓挫しかけた後、奇跡的に起こった伊豆大島三原山の大噴火によって復活、最終作戦「 Zプラン」へとつながってゆきます。

 第2作『ガメラ対バルゴン』では、なにはなくとも「水に弱いバルゴン」というキーワードが強い影響力を持ち、最終的にバルゴンは琵琶湖の湖底に沈んでいくのです。当然バルゴンを倒したのはガメラだったわけですが、琵琶湖の豊富な貯水量なくして勝利はなかったでしょう。しばらくは水が真ムラサキになって滋賀県や近畿地方のみなさまは飲料水不足に困るでしょうが……

 

 そして今回『対ギャオス』の伊豆諸島&富士山の連発噴火となるわけなのですが、これもまた作品と怪獣対決の行方に大きな影響をもたらし、ついには紅蓮の炎を上げる富士山火口が、最終的に2大怪獣の雌雄を決するファイナルステージとなるのです。ま、その時点ではもうギャオス死にかけてますけど。

 

 つまり、これら高橋脚本に通底するスタンスとして無視できないのは、「人間も怪獣も、地球の大自然の前では等しく無力」という価値観なのです。これは、怪獣が「科学を過信して自然を破壊する人類に罰を与える神の代弁者」でもなく、「滅びゆく自然からやって来る復讐者」でもないという、東宝特撮シリーズとは全く違う観点ではないでしょうか。これはまさしく、「人も神も妖怪もみんなおんなじ登場人物」であるという、『ももたろう』や『うらしまたろう』といった日本古来の昔話や民話の語り部の視点に近いのではないでしょうか。♪ぼうや~よいこだねんねしな!!

 

 なるほど……これで解せました。だからギャオスは、あれほど「冷酷」と「ユーモラス」が同居してもキャラクターが破綻してないんですね。これはゴジラを始祖とする怪獣よりも、鬼や河童といった妖怪の系譜に連なる個性のあり方なんだな!

 

 ここでいよいよ、あらゆる意味で本作の魅力の大半を担っている悪役新怪獣ギャオスについて語っていきたいのですが、まずビジュアル面からして、ギャオスは「100% どこからどう見ても悪役」という、思いきったデザインになっております。

 

 まぁ~ともかく、ギャオスは頭部、目つき、主翼(腕)、尾翼(しっぽ)、そして主力武器となる「超音波メス」と、ほとんどの要素が定規で計ったような「直線」と「鋭角」でデザインされているんですよね。

 あの目……まるで小学生が描いたような、いかにも悪そうな単純明快な描線なのですが、その瞳が明らかに真正面にあるはずの対象となるガメラや人間の町並みを見ておらず、常にやや上の方をにらんでいる位置で固定されているのが、逆に見るべきものを見ていないギャオスの狂気を感じさせるようで怖いんですよね。アップすると微妙に血管が浮き出てるしよう! これ絶対に『 GANTZ』の田中星人幼体(キョロちゃん)に影響を与えてますよね。

 

 ギャオスはなにがすごいって、やっぱり「切断する光線」という当時唯一無二のオリジナルな武器をメインウエポンにしているのがすごいですよね。やっぱナンバーワンよりオンリーワンよ!

 作中での大活躍を観ても分かる通り、あらゆる物質を鋭利に切断するギャオスの超音波メスは、とにかく「視覚効果が面白い」! スパーッと切れて中から乗客が落ちる旅客機とか、屋根がめくれ上がる新幹線とか、真ん中から両断される自動車とか……ギャオスの「人喰い」という性質は前作のバルゴンとカブっているのですが、食べ方のバリエーションにおいては、ただ舌でペロ~ンと巻き取るだけだったバルゴンとは比較にならないパターンの豊富さがあるのが素晴らしい。火炎放射のガメラとはまるで違う魅力がありますね。

 

 また、その超音波メスの影に隠れていますが、この初代ギャオスに限って、ガメラの火炎攻撃とジェット飛行をいっさい無効化してしまう「消火液噴射」という特技があるのも見逃せません。なんで平成以降にこの特技が継承されていないのだ……

 いや~この、ガメラの得意技をキャンセルできる特化技があるの、最高ですね。

 

 思えばガメラシリーズって、東宝のゴジラやキングギドラのように「全面的に相手より強い」という力関係で勝つのではなく、互いに「あれは弱いけどこれなら勝てる」という、相手によって有効な武器の出し合いで勝敗が決まるギリギリのパワーバランスなのがいいんですよね。HP のぶつけ合いではなく相性の差し引きなのです。

 例えば、前作のバルゴンは「近距離向けの超寒波と舌からの冷凍ガス」と「遠距離向けの殺人虹光線」が得意なのですが機動力がなくて肉弾戦になったらガメラの噛みつき攻撃に弱く、今作のギャオスは「中距離向けの超音波メス」と飛行の機動力に長けているのですがやっぱりガメラに間合いに入られると弱いという特徴なわけです。もしバルゴンとギャオスが闘ったらどうなるかと妄想するのも楽しいですね!

 そして、バルゴンは水、ギャオスは日光という、ガメラや人類にとってはどうってことない要素が致命的な弱点になるという意外性もいいんですよ。だから、頭の回らせ方によっては人類でも退治できる可能性もあるという。

 

 

 さて、日本の特撮作品の歴史において、「翼で空を飛ぶ怪獣」といえばなんと言っても東宝の『空の大怪獣ラドン』(1956年)が始祖であるわけなのですが、その登場から、「人間が入っている着ぐるみの怪獣に『空を飛ぶリアリティ』を持たせるにはどうすればいいのか?」という大問題との苦闘の日々は始まりました。

 技術的な面でいうのならば、ミニチュアの「飛び人形」や、人間の入った着ぐるみにピアノ線を付けて空中に吊るという撮影法となったわけなのですが、とにかく人間は空を飛ぶには圧倒的に腕が短く筋力も足りない生物なものですから、どうしても「マントみたいにぺらっぺらな翼をヒラヒラはばたかせる」アクションしかできないのです。それなのに、プテラノドンのように高所から飛び降りて滑空するでもなく、地上や海中からはばたいてほぼ垂直に浮揚するというのですから、映像的に説得力が乏しいことはなはだしい! 言うまでもなく『空の大怪獣ラドン』は大傑作なのですが、ことこの「ラドンの飛びはじめ」の演出だけは、いかな天才・円谷英二といえども難しい課題だったのではないでしょうか。飛んだらカッコいい飛び人形に交代できるからいいんですけどね。生身の人間も入ってるし無茶できないしなぁ!

 

 ラドン以降、1967年のギャオス誕生にいたるまでの有名な「翼で飛ぶ怪獣」を例にとってみても、1958年のむささび怪獣バランは「滑空」という理論を取り入れつつも、あんな面積の狭い皮膜でほんとに飛べるのか?という疑問符がつきますし、1961年生まれの守護神モスラにいたっては「人間の入った着ぐるみを想定しない」という極論にいたりました。できないのならやらない。これも、モスラ以降『ウルトラQ 』のリトラやラルゲユウスに継承されてゆく飛行怪獣のひとつの流れですよね。

 人間の入った着ぐるみの飛翔に説得力を持たせるために「思いっきりでかい翼をつける」という発想で作られたのが、あの宇宙超怪獣キングギドラ(1964年生まれ)だったわけなのですが、これはこれで尋常でないピアノ線の本数(動かず立ってるだけで8本必要)とそれを操作するスタッフの人数(約25名)、そして密な連携が必須な撮影の煩雑さと着ぐるみとしての動きの不自由さを伴ってしまったため、ピーキーすぎるお祭り要員みたいな感じで特撮業界のスタンダードとはなりえませんでした。こんなやつポンポン出せないよ! 『怪獣総進撃』(1968年)でのおギドラさまの出番の少なさもうなずけます。

 

 こういった諸先輩怪獣がたの苦労を知ってか知らずか、1965年生まれの我らがガメラは「翼を動力としない」回転ジェットで飛ぶという、非常にクレバーな手段を選んでいたわけだったのですね。飛び人形しょっちゅう焼けてたみたいですが。

 

 さぁ、そして今回『大怪獣空中戦』というタイトルに恥じないメイン敵怪獣として初登場したのがギャオスだったわけなのですが、ギャオスはラドンに連なる伝統の「翼で飛行」タイプを継承しつつも、なんと、

 

 

理屈なんかどうでもいいから「飛びそうなビジュアル」でゴリ押し! 以上!!

 

 

 という、まるで薩摩示現流やクマンバチのような、漢らしいにも程のある気合論で飛ぶスタイルを創始したのです。いや、クマンバチはちゃんと飛べる理屈あるらしいんですけどね。

 

 すなはち、飛べそうなデカい翼とか、もうそんなん、いらん! とにかくジェット戦闘機のように鋭角的な主翼と尾翼を付けて、あとは巨大送風機とクレーンカメラとピアノ線でなんとかせぇ!! という非常手段をとったんですね。ぜ~んぶ、力技!

 例えば、作中の名古屋市街地での戦闘において、ビル街に立つギャオスに対してガメラが回転ジェットで体当たりをかまそうとするカットがあるのですが、ギャオスはすんでのところで「バビューン!!」と何の予備運動もなく垂直に離陸してガメラをかわします。また、名古屋上空で飛行するギャオスの周囲をガメラの回転ジェットが旋回するカットがあるのですが、ギャオスは翼をほとんど動かさずに、まるでピアノ線で吊られているかのように空中で静止してガメラに向かい合ったまま自分も回転するという、航空力学の学者さんが見た瞬間にメガネが割れて失禁しそうな動きを見せているのです。いや、「まるで」っていうかなんちゅうか……

 

 き、気持ちいいくらいに理論がない!! 時にはジェット戦闘機のように、また時にはヘリコプターのように自由自在に空を飛びまわるギャオスの勇姿。そこにはもはや、ラドンやバラン、キングギドラのような先輩飛行怪獣のみなさまの苦心や悲哀の表情は微塵も存在していません。

 

 カッコいいから飛ぶ! 子どもが喜ぶから飛ぶ!! もはや迷いなどあろうはずもありません。そういう意味で、ギャオスは日本特撮史上初の「人間の理論の重力から解き放たれた飛行怪獣」だったのかも知れません。そしてそれはとりもなおさず、現代科学への信仰をいったんナシにして、あの天狗や天女が、あってもなくてもいいような羽根や羽衣で自由に空を飛んでいた世界の復興を高らかに昭和の御世に宣言するものだったのです! 嗚呼、あの柳田國男先生(1962年没)がもしこの『ガメラ対ギャオス』を観ておられたら、果たしてどうお思ひになられたであらうか。

 

 まぁいろいろ言いましたけどね、とにかく本作におけるギャオスの飛ぶ姿は、観ていて実に気持ちがいいのです。こういう点から観ても、本作における「子ども向けに徹した」という湯浅憲明監督のスタンスは徹底しているのですね。

 

 ただ、この「理屈はどうでもいいから申し訳程度の翼をつけて飛べることにする」というギャオスの方向性は、のちに TV特撮の世界での円谷プロのウルトラシリーズでさらに開き直……いやさ先鋭化されていくこととなり、例をあげれば『ウルトラマン』の高原竜ヒドラや宇宙怪獣ドラコ、『帰ってきたウルトラマン』の始祖怪鳥テロチルスや『ウルトラマンタロウ』の火山怪鳥バードンなど、「なんでその翼で飛べんねん」と天を仰いでしまうデザインの飛行怪獣は枚挙にいとまがない大繁栄ぶりを見せていきます。そもそも、ウルトラ怪獣の中ではギャオス登場の約1年も前の1966年1月に『ウルトラQ 』において、「しっぽか足の辺りから猛烈な勢いで黒煙を噴出する」謎のエネルギー理論で空を飛ぶ冷凍怪獣ペギラという、ある意味でギャオス以上におかしな先達がいたので、「理屈なんかどうでもいい」という発想の素地はギャオス以前からあったのかもしれません。にしたって、映画館の大スクリーンでそれを初めて披露したのはギャオスが最初よぉ!

 

 余談ですが、こういった感じで初代ギャオスが創始したトンデモ理論に後世になって異を唱えたのが、「翼の骨格的構造」にリアリティを持たせて空を飛ぶ説得力を備えることに成功した平成ギャオス(1995年)だったことは、歴史の皮肉と言えますでしょうか。やはりギャオスに対抗できるのはギャオスだけか!

 

 さて話を昭和ギャオスに戻しまして、ここまでの時点ならば、いわば生真面目に「人間の入った着ぐるみが空を飛ぶためにはどうすればいいのか」を考えていた東宝特撮陣営にとっては「それはないだろ……」と呆れ果てる邪道的選択であったのかも知れませんが、本作はそれだけでは終わらず、緊迫感とスピード感覚あふれる名古屋市街地上空での戦闘を経た後に、日本特撮史上、いや日本映画史上、いやいや世界映画史上に残る、美しすぎるバトルシーンが現出されるのです。これにはさすがの東宝特撮スタッフ陣も「やられた!」と感じたことでしょう。

 

 

それこそがまさしく、夜明けの伊勢湾沖での「海面のガメラが空中のギャオスの片脚に噛みつき離さない」白熱のシーンなのです!! うをを!!

 

 

 これ、本当にきれいなんですよ。画としてまず美しく、観客のテンションがめっちゃ上がる! 昇る太陽でオレンジ色に染まる空、異様に慌てるギャオスの羽ばたきで荒れに荒れる波間、頭を超音波メスでかち割られながらも絶対に脚を離さないガメラのド根性、そして暁の中に浮かび上がるギャオスの鋭角的なシルエット……

 

 このカット、どこからどう見ても完璧。

 日本の特撮史上において、「夜の国会議事堂と初代ゴジラ」をはじめとして、このカットは静止しても素晴らしいという構図はあまたあるのですが、私はもし自宅の居間にどの怪獣の絵を飾りますか?と聞かれたら、迷わずこの「伊勢湾のギャオスとガメラ」を選びたいと思いま……いや、「富士山麓の村の鎮守の鳥居ごしに見える初代キングギドラ」も捨て難いわ!!

 

 いや~、このシーンはもう私、小学生だった頃から30年以上、ベータビデオ、VHSビデオ、DVD と媒体を変えて何百回となく観てきたシーンなのですが、今回「4K デジタル修復版を映画館のスクリーンで観る」という究極の鑑賞環境で観ることができて、本当に感謝感激しております。ほんと、今年2026年まで生きてきてよかった……長生きはするもんじゃのう(40代男性)。

 

 それはともかく、このシーンは何がすごいって、ただ画として美しいというだけでなく、その時点では明らかになりませんが、「太陽が昇る伊勢湾にギャオスを引き留める」というガメラの狙いが100% 大正解であるという、ストーリー上のカタルシスも乗っかっているという脚本上の完成度の高さなのです。うまいなぁ~高橋先生!

 

 すなはち、ギャオスは企画当初から「吸血鬼ドラキュラの怪獣」というコンセプトがあるため、「太陽光にめっぽう弱い」という特質があるわけで、フィクション作品でよく出てくる吸血鬼の退治法として中世ヨーロッパの昔から定番なのが、「朝まで吸血鬼を引き留める」というパターンなのです。これはもう、世界ホラー映画史上の古典『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年 ドイツ)を例に挙げるまでもありません。

 

 そして、もしこの『ガメラ対ギャオス』を不幸にして観たことがまだないという方がいらしたとしても、この「日光が出てくるまで引き留める」という展開に既視感のある方は、この2020年代の日本においてはめっちゃ多いのではないでしょうか。

 

 そうなの! この伊勢湾でのギャオスとガメラの「どけぇえええ!」「絶っ対に放さん!!」という命のやり取りって、まんま、あの『鬼滅の刃』の『無限列車編』クライマックスでの、あかざと煉獄さんの死闘といっしょなんですよね。もちろん、あかざが自分の身体の一部を切り離して逃げるというオチも同じです。

 

 いや~、そりゃ熱くもなる名シーンですわ。繰り返しますがこの展開は吸血鬼退治の定法として昔からある超有名なパターンですので、これをもって『鬼滅の刃』が『ガメラ対ギャオス』のパクリと申すつもりなど毛頭ないのですが、アニメ映画『無限列車編』が大うけして国内興行収入400億円超えを記録したのも、約半世紀前の『ガメラ対ギャオス』の熱戦の記憶が日本人の脳裏に残っていたから……なわけねぇか。でも、親が子どもの頃に『ガメラ対ギャオス』を観てアツくなり、その子や孫の世代が『鬼滅の刃』を観てアツくなるというのも、当然のことなんでしょうかね。

 

 あと余談ですが、本作で新造されたガメラの着ぐるみは、「子どもに優しい正義のヒーロー」というイメージを重視して、目が大きくクリっと丸っこくなった、かなり柔和な表情になっているのですが、この伊勢湾バトルのシーンに限っては、ガメラが過酷な水中撮影にさらされるので、特撮業界の伝統として前作『対バルゴン』で使用された旧スーツが再利用されたため、この名シーンでだけガメラの顔つきがやたら戦闘的でいかついというラッキーも生じています。特撮の神に愛されたな!

 にしても、2体の怪獣のどちらも着ぐるみに人間が入っているのに、かたや水中に入れてかたやピアノ線で吊って戦わせるという危険&煩雑極まりない撮影を敢行したのには、本当に恐れ入ります。こんなん、天下の東宝でもなかなか見られない。

 

 

 や、やばい。ギャオスの話をしてるだけで記事が7千字超えちゃった!

 

 

 あの、その他にも本作が大傑作となった要因は山ほどあるのですが、次に見逃せない点としては、怪獣映画としてだけでなく、「カラー映画」としても前作『対バルゴン』から格段の進化を遂げているというポイントがあります。

 

 白黒映画だった第1作『大怪獣ガメラ』から始まり、初のカラー映画となった第2作『対バルゴン』は、オープニングタイトルや序盤こそカラフルでニューギニア島の現地民族の衣装や踊りなどによって彩られてはいたのですが、物語の大半は夜や雨の降る曇天で、バルゴンもごくまれに出す殺人虹光線以外は体色も茶色いし血の色も暗めの紫色ということで、カラー映画としての面白みには欠けるといわざるを得ない地味さがありました。

 

 ところが、本作ではそういった前作の反省が大いに活かされ、ギャオスの状態を「腹が減ったら緑色」「命の危険を感じたら赤色」に頭部が発光するという演出を加えて、かなり明解に鮮やかな色味の変化を楽しめる設定にしているのです。これ、カラー作品が当たり前となっている今現在の観点からみるとちょっとした要素なのですが、性質上ナイトシーンが多くなってしまうギャオスのビジュアル面での地味さを大いにカバーしてくれる気づかいだと思います。こういうの大事!

 これによって、先ほど触れた払暁に苦しむギャオスの赤い姿もさることながら、「ちっきしょ~あのカメ野郎……」と、復讐心をたぎらせながら失った脚を再生させるギャオスのいる洞窟の大空洞が不気味なグリーンに染まっているという演出も生んで、非常に印象的なカットになっていました。これ、時代もジャンルも違いますが、のちのち『仮面ライダー』(1971)のショッカー秘密基地に始まる「異様に薄暗く気味が悪いアジト」感を先取りしていていいんですよね! 余談ですが、『ガメラ対ギャオス』と同時期に放送された『ウルトラマン』の宇宙人の基地(宇宙船)セットって逆に先進的というか、妙に白っぽくてだだっ広くて明るいこと、多くありません? こういうとこでも、円谷プロと東映特撮とでスタンスの違いがあるのがおもしろい。

 

 ギャオスの体色の他にも、本作は真っ赤に噴火する富士山火口はもちろんのこと、ギャオスの噴射する黄色い消火液だとか、人類側の最終作戦である「回転作戦」によって、町の上空にブシャーと噴霧される疑似血液だとか、まさに子どもの興味をひく色的なアクセントが間断なく配置されています。それ以外に手段がないからしょうがないのですが、町中に大量の血みたいな液体をまき散らすって、けっこうヤバいですよね……『エヴァンゲリオン』じゃないんだから。

 

 

 いや~ほんと、この『ガメラ対ギャオス』について語りたいことは尽きないのですが、まぁここまで怪獣パートのことを話してしまったら、やっぱりその一方の人間ドラマパートについても触れなければなりません。

 

 実は、カラーの彩りでいうのならば、本作の人間ドラマパートは異様に地味といいますか、まだ寒い3月に公開された作品にふさわしく、主人公から脇役まで老若男女みんなが洒落っ気もへったくれもない冬着を着ているのが気になりますよね。

 だって、お話の舞台がそもそも富士山麓の山梨か静岡の山村なので(実際のロケ地は山梨・神奈川県境の丹沢山地)、出てくる登場人物がのきなみ工事現場のおっちゃんか村人か自衛隊関係者くらいなので、おしゃれをする余裕など誰にもないのです。ほんとみんなベージュか茶色い服ばっか……強いて挙げれば開発反対派の牧場主(演・北城寿太郎)の黒い革ジャンが印象に残るくらいでしょうか。

 

 ただ、これもまた怪獣対決にインパクトを全振りするための意図的な「地味化」だったことは間違いなく、前作『対バルゴン』が、怪獣の地味さをニューギニア島のエキゾチックな衣装とかヒロイン女優さんの顔のハデさ(無論褒めて言ってます)で補っていたことへのカウンターパンチであったような気がします。

 ほんと、本作は縦横無尽の大活躍をする「実質的主人公」の金丸英一少年以外は、男女ヒロインペアすらもド地味ですからね……余談ながら、今回大スクリーンで観て初めて気づいたのですが、ヒロインのすみ子(名前も地味!)を演じておられた女優の笠原玲子さんって、同じく女優の木村文乃さんに異様に似てません!? 美人なのにほんとに目立たない……

 

 そして、本作の人間パートを語る上で絶対に外せない存在なのが英一少年であるわけで、その後の「ガメラは子どもの味方」というシリーズの方向性を決定づけた超重要なキーパーソンとなるんですよね。

 当然、「ガメラと子ども」という関係性は第1作『大怪獣ガメラ』から提示されていましたが、あの時はあくまでも「あれ? ガメラが子どもを助けた……?」くらいのにおわせで留まっていたので、今回ついに「ギャオスに喰われかけた英一少年をガメラが助け、さらに甲羅に乗せて空を飛ぶ(無回転という気づかいあり)」という明確なヒーロー的行為を見せてくれたのは、日本全国の少年たちをうれション寸前に追い込む演出だったと思います。

 

 また、英一少年がガメラに乗って空を飛ぶときに流れる山内正先生作曲の BGMが、「怪獣に乗ってるぞヤッター!」みたいなハイテンションな曲調では全然なくて、本作のために作られたサントラ全曲中もっとも抒情的で美しい、ちょっと儚ささえもにおわせるメロディになっているのが最高に素晴らしいんですよね。ただ英一少年とガメラの親交を描くだけでなく、この交流があくまでも「つかの間の奇跡」であり、英一少年が成長して大人になったら、きっとガメラは去ってゆくだろうという哀しい予感を強く誘う調べとなっているのです。う~ん、いい仕事!

 この曲以外にも、本作における山内サウンドは全面的に迫力満点で気力充実した名曲の数々で魅了してくれます。さすがに伊福部サウンドほどの個性はないのですが、まるでショスタコーヴィチの交響曲第5番のように重厚で手堅い、巨大怪獣同士の激突にふさわしい音楽世界を添えてくれていると思います。

 そうそう、前作『対バルゴン』の木下忠司サウンドもそれはそれで良かったんですが、やっぱり「怪獣の重量感」を生み出すのにはそうとう苦労されていたのではないでしょうか。ただそのサイズ感が、人間ドラマを重視した『対バルゴン』にはぴったりだったとも言えるでしょう。適材適所ねぇ!

 

 英一少年が、おそらくは大空に憧れた円谷英二への経緯に満ちたキャラクターであるという説は非常に有名なのですが、2020年代の今観てもついつい笑ってしまう、

 

「特ダネかぁ……そう言われると弱っちゃうなァ」

 

 の名言に代表される新聞記者との会話など、かなりこまっしゃくれたガ……お子さまに描かれているのが素晴らしいですね。生意気な口ぶりではあるのですが、ちゃんと最後までギャオス退治チームの中核にいてくれているのが実に頼もしいです。かと言って自衛隊のメンツが丸つぶれになるほど不自然に前に出るわけでもないし、絶妙なさじ加減なんですよね。演じる子役の阿部尚之さんも、『大怪獣ガメラ』の俊夫少年のまとっていた哀愁なぞとは無縁の屈託のなさがいい! 演技が上手とか関係なく、ついつい見守りたくなる愛嬌に満ちているのです。

 

 

 さて、そんなわけで今回、この作品を4K デジタル修復版の形で映画館で観ていろいろ新鮮な発見はありましたが、わけても一番、しみじみ「私も歳をとったな……」と感じ入ってしまったのは、

 

 

昔あんなに憎たらしかった「英一少年を見捨てて逃げる新聞記者・岡部(演じるのは座頭市のダブル俳優としても有名な三夏伸さん!)」に、ついつい同情しちゃう。

 

 

 という、自分の心境の変化でした。もう、まごうことなきおじさんじゃ~ん!!

 

 いやいや、そりゃ子どもを好きかどうか関係なく一人で逃げるってぇ! だって落石もひどいし、土地勘のない洞窟の中で助けられるかどうかわかんないんだから。

 

 ああ~私も、そんな言い訳をして逃げる中年になっちゃった。ギャオスに喰われないように気をつけよっと。