今日は、伝説の人物である聖徳太子についてです。

聖徳太子には、あまりにもアホらしくなるような逸話があります。

例えば聖徳太子は、本当は存在しなかっただの、十人に質問されて同時に答えたと現実離れた話しがあったりします。

でも、実際には質問を一つずつ後から答えてあげただけだと思うんですよね。(笑)

では、この謎じみた聖徳太子の一生がどういうものだったのか書きます。

敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれました。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にありました。

幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説があります。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位しました(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていて、用明天皇2年(587年)、用明天皇は逝去しました。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こしました。厩戸皇子もこの軍に加わりました。討伐軍は渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗しました。討伐軍は三度撃退されて、これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓いました。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は
迹見赤檮(とみのいちい)に射殺されました。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落しました。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけましたが、しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立しました。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させました。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけました(推古天皇)。天皇家史上初の女帝であり、厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐しました。

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立しました。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発しました。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えました。

推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させました。

推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営し、推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こしました。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去しました(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となら、この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もあります。

推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定め、氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的でした。

推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」いわゆる十七条憲法を制定しました。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調しています。

推古天皇13年(605年)、斑鳩宮へ移り住みました。

推古天皇15年(607年)、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送りました。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れました。

日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とあります。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としています。

厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著しました。

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなりました。

「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成, 遣隋使の派遣,天皇記 国記 以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」

「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」

これが、聖徳太子の評価です。

皆さんは、どう思いますか?