療養〈17〉

 「縁の下の力持ち」とは、人の目につかないところで他人のために苦労や努力をする人の事である。僕は他人の為と言うより自分の為に努力している。療養生活とはそういうものだ。縁の下の力持ちから逸脱した人間だ。本来なら僕も他人の為に尽くすべきなのだろう。僕はきちんと一人暮らしが出来ている。放埓な事も控えている。懈怠の時間もあるが、基本的に自分に出来る事はやっている。この小説こそが文化的な、思想的な側面で他人の役に立っていると嬉しい。まあ巧拙はあれど僕は沢山の事柄を通して生きてきた。僕は鋭意努力している。軋轢も今はない。一見泰平無事な時を僕は過ごしている。しょうじさんは昨日僕のゴミを持って帰ってもらった。僕は午前に起きる事が出来ないのでいつもゴミはヘルパーの方に持って行ってもらっている。そうでなければ僕はゴミ出しのルールに即した行動がとれない。

 僕は頗る元気である。実は僕は文学を通して社会貢献を無意識の内にしているのかも知れないと思えば嬉しい。読者の皆、生きていてくれてありがとう。このコンテンツにたどり着いてくれてありがとう。また僕の固陋なスタイルは漸進的に変わっていっている。また僕の半生を振り返ってみて、僕は本当に今までよく生きてこられたなと思う。しかし僕は統合失調症がなくても苦悶したと思う。人生とは、現代社会とはそういう風になりやすく出来ている。したがって僕の統合失調症の経験にも人間としての教訓や剛毅さが多分に含まれていると思う。

 ヘルパーのしょうじさんは言っていた。「赤川さん、話が上手で、コミュ力が高い、恋愛に対して臆病になっているみたいだけど赤川さんにはアドバンテージがあるよ」と。僕は風采でも恵まれている方だ。僕は今後恋愛に乾坤一擲、飛び込んでいきたい。社会に妄りに阿諛するのではなく、瞭然たる事実を自分で咀嚼し、新たなものを生み出すのだ。そもそも僕がこうして私小説を散文で書いているのだって統合失調症の病的な力動がなければ不可能だったことだ。僕は個人として奮迅していく。世の中には気に食わない連中が跳梁し、僕には出来ないような愚行、凶行に走るケースだってある。スパルタ教育が時代錯誤であっても、まだその残滓はある。全く困ったものだ。

 しょうじさんは僕の母の話を聞いた。「そんなにお母さんに来てもらえるのはすごく愛されていますね。帰りに抱擁したのも、それで大きくなったと言われたのも良いじゃないですか」そう彼女は僕に言った。また僕は自分の魅力を臆することなく表現し、長身美人を、意中の相手を魅了したいのだ。その為に繁多な行動力を活かしていかないと。僕の行動力は夏草のように繁茂し、周囲の人々に褒められている程だ。僕は毅然と未来を見据えている。今までの死屍累々を無駄にしない為にも、生きなければいけない。また僕の相貌は変わっただろうか、僕の姉からは大人になったねと顔を見て言われた事があるが。また誰もが歳をとる、これは自明な事だ。ああ、僕の少年時代よ、その高邁、誤った教唆や軽蔑。まあそんな事はどうでも良い。また訳の分からぬ下手くそな文章で申し訳ない。せっかく時間を割いて読んでくれているのにこれではいけないな。読者には心より謝罪する。しばらくまともな文章が書けるように休もうと思う。