第一に、僕は他人と舌戦をして勝てる見込みや胆力などは備わっていない。脆弱な人間である。しかしそれでも人の事は気になる。自意識過剰になっていた節がこの半生で多かった。おびただしい情報の奔流に促され、僕の自意識過剰はさらに際限なく膨張し続けた。自分が低能だと思う時も、他人を低能だと罵詈雑言を言う際も、いつも僕の中には人間の存在が屹立していた。自己嫌悪をする習慣は廃したつもりだ。今はそんな自意識過剰だった頃の自分を受け入れ、許している。決して打擲しようだなんて考えていない。日本人は自虐や悲観論が好きな国民性だから僕も彼らの大多数の潮流に飲み込まれそうになるのだが、それでも自分の個性をしっかり持って生きている。僕は偉い存在だ、尊い命だ。人に対して不利益を被らせようなんて意識は微塵も持ち合わせていない。僕は正しい事をしている。無論その正しさは絶対ではない。年齢の変化に伴って流動的に比例するように変わっていくものだと思う。僕はこれから週五回で仕事に通うつもりだ。絶対に人間らしく生きるんだ。今は多くの人の力を借りて、何とか生きている。人間はか弱い、それは全員に共通の理である。力強く生きているように見えても、どんな豪傑であれ、聖人君子であれ、天才であれ、皆人間としての限界に包まれている。そうでないと感じるのは上手く隠蔽しているからだ。その本質を。ポジティブに生きようと決めてから僕は自分に都合の良い情報を得て、恣意的に生きている感は否めないが、それもまた一興。政府に搾取されようが、暴力的な一団の手練手管に巻き込まれようが、自分自身がカリスマ的な教祖になろうが、構わない。僕は生きる上で重要なものを得た。このブログも読みやすさ重視で、耽美的、絢爛豪華な文体を擲ってまでスタイルを変更した。どうか読んでくれれば恐悦である。

 

 僕は病気の症状の為か、陰性症状の為か、よくゴロゴロしている。前はその事に罪悪感を感じていたが今はそれを甘受している。別に良いじゃないか、それでも生きて、こうやって文章を通して社会に波紋を広げようと孤軍奮闘している。中には物議を醸すような罵倒、難詰、糾弾、言語遊戯もあったとは思うがそれもひっくるめて僕は自分を受け入れる。これから僕の命運は僕自身の習慣ないしは言葉に委ねられている。我が強いとはたまに言われるがそれも良し。また僕は二度目の高校に入学し周囲からちやほやされたが、そこに白けてしまいその後突如統合失調症が我が眼前に踊り出た。僕は身震いした、突拍子もない人非人に邂逅し、とんでもないヤンデレとの逢瀬を過ごしているようでもあった。まあ過去の話は何度もしたのでこれからは割愛する。僕は今日の僕を褒めたい。偉いぞー、僕、大丈夫だよ、君なら。この先きっと明るい未来が待っている。僕には彼が佇立しているのが見える。