1985年8月12日 123便墜落事故が発生 4名生存 520名が犠牲に

事故発生から墜落現場の特定までに情報が錯綜し

 

捜索隊が現場に到着したのは翌日の朝になりました

 

生存者の証言では、墜落した直後は他にも生存者がいたようです

 

長野のキャベツ農家の方が墜落直前の123便を目撃・・・

 

ジャンボ機とそれを追尾する2機の戦闘機を目撃・・・

 

多数の目撃情報があるにもかかわらず、何故か墜落場所が特定されない

 

戦闘機が追尾していたならば当然、自衛隊は墜落場所もわかっていたはず・・・

 

123便に搭乗し犠牲になった遺族の疑問が綴られた書籍が、のちに何冊も出版されました

 

墜落現場の特定に異常に時間を要したことと

 

墜落原因とされた「圧力隔壁の修理ミス」が不可解だとする指摘もあり

 

本当の事故の原因が隠蔽されているのではないかと・・・

 

機体後部から爆発音がした後、酸素マスクが下りて

 

乗客は気絶することも無かったことから、急減圧は起こっていない・・・

 

圧力隔壁が吹き飛んで垂直尾翼を吹き飛ばしたとは考えにくい・・・

 

ところが、機体の製造、修理を請け負ったボーイング社は

 

大阪伊丹空港で起こした尻餅事故のときの修理ミスが原因であると引責・・・

 

米軍機も墜落現場を特定し、事故現場に降下するか?

 

との要請を日本政府が断った?しかもその通信記録も削除されたとか・・・

 

今なお都市伝説的に語られています

 

  1986年9月2日 日米半導体協定締結

1980年代、日本の半導体は世界市場の70%を占めていたといいます

 

産業用ロボットが半導体の基板をものすごいスピードで製造している映像を見ると

 

スゴイ技術だと正直驚きました

 

その頃の日本は、戦後復興から高度経済成長を成し遂げ、

 

ジャパン アズ ナンバーワン といわれた時代です

 

自民党の政治家の皆さんもアメリカの通商代表部と

 

ガチで論戦していた時代です

 

当時は中曽根総理、レーガン大統領の「ロンヤス」の時代でした

 

アメリカ人が日本車をハンマーでたたき壊す映像は衝撃的で

 

日本の製造業が世界を席巻していた時代です

 

123便墜落事故から1年が過ぎた頃

 

なぜ「日米半導体協定」を日本政府は締結したのか

 

経済評論家の幾人かの方が、

 

日米半導体協定から日本経済はおかしくなった・・・といいます

 

日本にとって不利益な協定をなぜ政府は締結したのか?

 

その後の日本は、外資の規制もなくなり

 

金融機関の株式持ち合いは非関税障壁だとされて

 

銀行や保険会社は日本企業の持ち合い株を売却させられました

 

さまざまな日本の商慣行が参入規制だと指摘されて破壊され

 

終身雇用も崩れ、今では非正規社員で溢れています

 

  中曽根元総理の「墓場まで持って行く秘密」とは何か?

墓場まで持って行った秘密は推測の域を出ませんが・・・

 

事故の当日、伊豆半島沖で演習をしていた〇〇隊が・・・

 

誤って〇〇〇便の垂直尾翼を・・・

 

誤った隊員が良心の呵責に耐えきれず自〇したとか・・・さまざまな噂が流れ

 

垂直尾翼は伊豆半島沖に沈んでいますが、引き揚げも行われませんでした

 

引き揚げてしまうと、事故の痕跡がわかってしまうから・・・とか

 

当たったモノは「オレンジ色」だったとか・・・

 

いろいろな噂が飛び交いました・・・

 

森永卓郎さんのSNS配信によると

 

あの事故原因をかぶってもらったお返しにあの協定が結ばれたのではないか?

 

と、興味深い指摘をされています

 

私は、1985年9月2日の「プラザ合意」から日本はおかしくなった気がしていましたが

 

あれだけ強かった日本の半導体産業が

 

いつのまにか没落していった原因は、それか・・・と思えば

 

なるほど、そうかもしれないと腑に落ちる気がしますが

 

これが本当だとしたら、事故の遺族はやりきれませんし

 

一つの嘘が、今の日本の長期低迷に影響していたとするなら・・・

 

本当に恐ろしいことです

 

森永卓郎さんの勇気ある配信を讃えたいと思います

 

by たんたん号