1984年に香港から入り、個人旅行をした友人のネガからお送りしていますシリーズも

とうとうあと二回となりました・・・

 

香港-深圳(当時は広州の入り口)-桂林-昆明-成都-西蔵(チベット)の拉薩-成都

-重慶-荊州と巡ってきました・・・

 

重慶から長江を下る船で荊州へ着きました

 

荊州市周辺は長江文明が栄えた地で、6000年前の大渓文化や屈家嶺文化の遺跡が

出土してしており春秋戦国時代、楚の首都「郢:えい」はこの周辺にあったとされる。

秦が楚を「荊:けい」と改称したのが地名の始まり だそうです

 

当時の中心都市・江陵は現在荊州市内に「荊州古城」として残っているわけで

荊州城があったわけではありません

 

ややこしいですが、この荊州(荊州城と呼ばれている)は三国文化の発祥地で、

中国史で有名な歴史的な街並みを指す訳です。

魏、蜀、呉の三国時代に、ここは軍事家なら必ず取ろうとした要地でした。

 

湖北省荊州市の城壁から見下ろした街並みになりますが

今はこの向こう側に巨大なビルが林立しています

 

さとうしんさんのX(2020/03/08)より引用させていただきました

これが最近の同じ場所です。40年は風景にも、ものすごい変化をもたらします

 

三義街を北上すると見えてくる荊州城壁の城門・拱極門

ですね(写真を拡大すると文字が読めました)

* 清代順治三(1646)年に再建された城壁が現在まで残されている。

三国時代に荊州城壁の原型が造られ、各王朝・各時代で城壁を補修・補強を行い、

現在に至る。

また 辛亥革命以後「城壁が持つ都市防衛の機能が薄れ」且つ

「街の拡大」により各地の城壁が撤去されていった時を超え

文革時代「破四旧運動」で城壁も文化財も破壊された…。

という歴史を超え荊州城壁は残ったという・・・

とても貴重なものでだそうです

 

拱極門の城壁のをぐるりと歩いているようです

奥に見える朝宗楼は清代光緒十八(1838)年に再建されたもの

 

三国志に思いを馳せます

 

ただこの荊州の街は1940年6月8日

日本軍の侵略行為によって陥落

その時に日本軍人がカタカナで「バンザイ」と彫った石垣の石が残されています

 

観光地の低俗な落書きレベルですが、いまだに恥をさらすというていたらく・・・

これは中国のサイトから引用したものです*本文とは関係ありません

 

いずれにせよ荊州は古来から騒乱の街、であったわけです・・・

 

 

彼が何に興味を持ったかと言うと、水牛がいました

農家の風景ですね

 

荊州から武漢へ移動しています

 

下の写真は武漢で長江を船で渡るときに見える風景です
(武昌側から漢口へ移動)
 

 

船が渡しの艀(はしけ)へ着きます

 

そこからは

漢口租界(かんこうそかい)をめぐっています、

中国の湖北省武漢市にかつて存在した租界。

清朝末期の1861年から第二次世界大戦中の1943年まで、

漢口市に設けられた侵略側各国の租界のことをまとめて漢口租界と呼んでいます

そして武漢から南京へ飛行機で移動・・・かな?

 

飛行機の後に空港側から南京空港を見ていますのでそう推察しました

南京空港です

これはネガのコマ順で類推しています

現在ネットで武漢-南京間の直行便を探しても

見つかりませんでした

350-400Kmほどの移動なので、もう陸路に変わったか?

写真のコマが逆なのか?

*たとえば写ルンですのような「使いきりカメラ」などで写している場合

 フィルムは終端から逆に返ってくるように写しますので

 フィルムのコマナンバーが逆になります

 

ちょっとこの成都で折り返し三峡下りの荊州から後

荊州-武漢と武漢-南京の移動部分だけ謎を残しました

荊州-武漢は船とほぼ決めて?

武漢から南京へ飛行機で移動したのか?

南京から旅の最終都市、上海へ移動したのかが

個人的には7対3で武漢-南京を飛行機

が有利です。本心よく判りません

まあ、友人が夢枕に立ってくれたら聴けますが・・・

それは春の彼岸か夏のお盆迄待たなくてはなりません

 

距離的に武漢-南京が、南京-上海よりも遠いのと

フィルムのコマ順から武漢-南京を飛行機を使ったとさせていただきます

 

次回はいよいよ旅の終わりの上海です・・・