漂着した船の船尾像が何故? | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

もう30年以上前に、日米の俳優が主演・出演した合作ドラマがあった。 「将軍 SHOGUN」 これはアメリカで、当時日本ブームを巻き起こし。日本ではその後で、編集版としての映画が公開された。

 

そして、テレビ朝日でも・・・・全8話としてドラマ放送。 私も、高知の田舎だったので、都会よりは遅れての放送というか、昼間の時間帯に見たような気がする。 

 

 

                ドラマも映画もちゃんとカラー作品ですよ。

 

このストーリーを、簡単に説明すると・・・・・

 

17世紀初頭に、今の大分県臼杵市佐志生 (さしう) 沖にある 

黒島 という場所に、英国人航海士 ウィリアム・アダムス という人間が、オランダからの5隻の大型船で航海中に、唯一リーフデ号だけが漂着してしまい。

 

時の将軍であった 徳川家康 に謁見して、家康の天下取りの中に、巻き込まれていくというお話し。 彼は家康が生存していた間には、とても大切にもてなされて、現在の静岡県伊東市では、洋式船の建造地で船を造る作業に携わったり。 異国の民としては珍しく、帯刀を許されて、神奈川県横須賀の地には、領地も持っていた。

 

これらの地域などでは、今でも彼にちなんだ祭りや公園もあるという。

 

だが、家康死後は・・・・、その子秀忠や家光などに監視されるような生活を送り。鎖国が起こると、長崎県の平戸に追いやられるようにして移り住み。 その地で、55歳にて亡くなっている。 墓もそこにあるというが、アダムスは日本にて日本女性と結婚して、娘息子の2人の子を残したとか・・・・・。 その子孫が今も続いているという。

 

多分昭和生まれの人なら、歴史の教科書で・・・・1度は習ったことがあると思うが、ウィリアム・アダムスこと 三浦按針 とも言われていた人だ。 按針とは、水先案内人でもあった彼の使う 羅針盤 にちなんだ名前でもある。船で航海する時には、とても重要な役割を果たすもの

 

このお話しのブログも、以前過去に書いているけれど、何故今回この話しを、またしたかというとね。

 

 

 

現在九州国立博物館にて公開中の 桃山展 のチラシに、とても謎の残る像を発見したからなの・・・・・・・。

 

 

  それがこちらの エラスムス像 なのです。

 

船尾とは、その名の通り・・・・船の後ろの事。 そこについていた像なのです。 しかしこれの何が不思議かって・・・・・・。 よく見てみて、

海のある臼杵に漂着したのに、海の無い栃木県に、この像はあったのです。 もちろん現在は、国立博物館蔵となってますが、ね・・・・・どうしてって思いませんか? そうゆう思いが、実は歴史を好きになる一歩にもなるんだけどね。 ( *^艸^)

 

栃木県佐野市の龍江院の小さな観音堂に安置されて、当時は・・・・

カテキ様 と呼ばれていたんだってよ。 カテキ? どうゆう意味かは、私も知らないんだけどね。 調べてみると、これは ロッテルダム 生まれの神学者で哲学者であった エラスムス の像だと判明した。

 

家康の命で、大阪の堺に漂着した船を回航していく事になった時に、臼杵にて船体修理が行われて、その時にこの像が取り外されて、世話になった臼杵の城主 太田飛騨守一吉 に渡ったもの。それからは、城の櫓に保管されたらしい・・・・・。 臼杵城は、あの戦国武将であった大友宗麟 がいた城だったんだが、その後この城を任されていたのが、太田一吉・・・・、だけど彼は石田三成派で、西軍だった為に、東軍方の豊後竹田市の岡城主 中川秀成 に攻められて、関ヶ原での西軍敗退を聞き、城を開いて身を引いた。 

 

その時も、このエラスムス像は、櫓に保管されたままだった。

 

慶長5年12月 稲葉貞通 が、岐阜より臼杵に移封・・・・・。その後・・・寛永14年 (1637年) 10月・・・・島原で一揆が起こる。 その時たまたま臼杵藩のある庄屋が、旅の途中でその様子を見聞きして、急いで自国へその事を知らせることとなった。 臼杵藩では、その情報を直ちに幕府の府内目付役であった 牧野蔵伝 に報じた。

 

 

牧野はこれを幕府に急報し、稲葉一通 は大いににその面目を施した。 この一通という人は、臼杵藩稲葉家3代目城主で、正室には・・・細川忠興の娘・・・・つまりあのガラシャの娘が、嫁いでいたんですよ。

 

ガラシャには2人の女子がいたけど、死の間際に11歳と3歳だった娘達を、オルガンチノ神父の元へ避難させていたのね。 彼女は小倉から臼杵へと嫁いできていた。 で・・・・話しは元へ戻してと、

 

府内目付だった牧野伝蔵は、軍監となって島原に赴いていたが、この方は島原での乱を平定後、目付の役を解かれてしまう。 そこで、現大分市の府内城主 日根野吉明 や一通により、牧野の身の上を気の毒に思い・・・・きっと、島原まで出かけたのに、思ったような恩賞も何もなかったんだと思う。 この2人の城主から、日根野は「府内円寿寺寛佐法印の連歌一巻」を、一通はこの時に黒島に漂着していた 。

 

「リーフデ号の船尾像」を牧野に贈ったと伝わっています。

 

 

牧野は、どうやらこの時豊後国を去って、本当の故郷へ戻る事となったようでした。その豊後在任の記念として、また餞別としての土産としたようでした。 下野 (しもつけ) 現在の栃木県から豊後国入りをしていた日根野氏に従って、牧野はやって来ていた。 それ故彼が帰る事となった故郷とは、現在の栃木県となったわけだ。そして、このエラスムス像が安置されていた龍江院に辿り着いたわけだ。

 

ここは牧野伝蔵にとっては、下野国染田 (にやなだ) 郡羽田村 という故郷であり。龍江院は、牧野家の菩提寺だったらしい。そこにこの藩主方々から贈られた2点を、寄贈したという事だ。  

 

調べてみれば、牧野伝蔵さんとは・・・島原城落城後に、1番に先へ進み出たくらいの有名な方だったらしい。武勇伝がいろいろある中で、任を解かれたまま何も、恩賞がなかったのか・・・・。そりゃ同情もするよね・・・・・。( ´∀`)

 

    これで謎が解けたわけだ!(・ω・)b 

 

そんなこんなな知識をちょっと頭に入れて、只今公開されている九州国立博物館略して、 九博 に出かけてみませんか?

 

今回日本初公開となる 大洪水図屏風 なる日本の屏風絵にそっくりとも言われる。 ノアの箱舟屏風 ・・・・・

 

中国マカオにて、17世紀~18世紀前半とされた作品は、現在メキシコ・ソウヤマ美術館にあるんだそうですよ。その作品の初公開です!

他にも、家康お抱えの名工による 南蛮鉄使用の刀とか・・・・・様々な講座やイベントもある中で、秀吉の黄金の茶室も復元品ではありますが、九博に登場しています。(*^^)v

 

新 桃山展 大航海時代の日本美術展は、10月14日~11月26日まで公開中です。毎週月曜日は休館 午前9時30分~午後5時

一般 1,600円 高大生 1,000円 小中生 600円

尚、毎週金・土曜日は、午後8時まで夜間開館中です。

入館は、最終時間の30分前までにお願いします。

 

そう言えば、ネットで検索していたら、私が見た将軍のドラマが、2014年にリメイクされて、アメリカで放送とありましたが、その後どうなったんでしょうか?( 'ω')?