当院では週1~2回、麺類や丼物を提供する『変わりメニュー』の日を設けております。嗜好調査でも大人気のカレーライスやラーメンをはじめ、夏には冷やし中華、冬には海鮮散らし寿司、また、ご当地メニューのハントンライス(金沢)や太平燕(熊本)など県外出身の栄養士ならではのメニューも取り入れております。

 

今回は4月に提供したメニューの一部をご紹介いたします。

 ① 肉うどん:茹で上げた後も伸びにくい特別な麺を使用しています。

 ② 竹の子ごはん:春の訪れを感じる1品です。

 ③ チーズタッカルビ丼:海外メニューもお楽しみいただけます。

 

 栄養管理室一同、今後も入院患者さまにワクワク音譜していただけるメニュー作りに励んで参りたいと思います。

 その後、北陸に戻って来てから、「レビー小体型認知症診断における心筋MIBGシンチの有用性に関する臨床研究」をしていたら、東京医科歯科大学から山田正仁先生が第二代教授として、金沢大学に着任され、認知症の研究が盛んになり、金沢大学に助手で採用された。安い給料で雑務の多い大学病院に長居するつもりはなかったが、なぜか40歳を超えてから留学する機会に恵まれてしまい、この年齢では奨学金募集もなく、有給留学ポストを探すのが大変だった。ウェブで見つけたカリフォルニア大学デービス校神経内科へ応募し、2005年からチャールズ・デカリ教授の元でNorthern Manhattan Study、CABL study、Framingham Offspring Study等における脳MRI画像解析を行いながら、大脳白質の画像研究を行った。手取り収入が金沢大学勤務時の半分になり、論文の一つも書いて帰国しないことには元が取れないと思い、データ収集や研究企画などで拙い英語で議論を交わし、信頼関係を築くまで大変であった気がする。それでも2年目には一割昇給し、コロンビア大学の律義な共同研究者たちは、その後も私の名前を共著者に入れてくれていた。完全な遊学というにはほど遠く、日本の方が祭日は多いが、仕事は午後5時に終わり、週末や長期休暇は旅行に出かけ、家族にとっても日本よりゆったりとプライベートも充実した生活であった。

 留学中のイベントとして、妻がサクラメント市にある大学病院で出産したことがある。そこでは、陣痛が5分間隔になってから病院へ電話連絡後に受診して出産し、翌日には退院するシステムとなっており、産気づいた妻をデービス市からサクラメント市まで車で輸送した。途中で燃料計のエンプティーランプが点灯し、肝を冷やしたことが思い出される。翌日は、当時小学生の息子2人を車に乗せて、退院する妻を迎えに行き、生まれた娘は未熟児で黄疸があり、NICUで1週間経過観察となった。医療費は100万円超で、ギョッとしたが、保険で賄われて事なきを得た。

 また、当時の日本は狂牛病で大騒ぎし、焼肉屋・牛丼屋が大変な目に合っていたが、カリフォルニアでは、皆が普通に吉野家の牛丼を食べており、ヒステリックな日本の反応をネッニュースで眺めていた。日本では、北朝鮮が洗脳国家に見えるが、米国からみた当時の日本は(現在も似たようなものだが)、違う意味で息苦しい洗脳社会で高い自殺率もさもありなんと感じたものだ。

 2007年に帰国後、金沢大学神経内科医局長として4年間修行させていただいた。論文を書くと大学病院勤務継続希望と誤解されて在任期間が延びる可能性が高くなるため、雑務に専念し、2011年から富山県南砺市にある国立病院機構北陸病院に勤務している。精神科と一般(重心・ 神経難病)病床があり、富山県認知症疾患医療センターを担当している。この地域は、1972年にポルトガルのアゾレス諸島で初めて報告された遺伝性脊髄小脳変性症マシャド・ジョセフ病(SCA3)の本邦における一大集積地で有名である。

 2016年7月15日に第27回長崎認知症研究会で佐藤克也教授に「認知症診療のピットフォール」というテーマで講演に招待いただき、25年ぶりに長崎に来ることができた。西浦先輩、阿比留君、馬場君、宮村君らに歓待していただいた翌日、小銭がなかったので、ホテルニュー長崎から濵かつ本店まで、電車に乗らず歩いて行ったら、これが大きな間違いだった。亜熱帯の湿度と暑さとスーツ姿で全身汗だくとなり、Google mapが指示する上り坂で何度か迷い、眼鏡橋あたりで気が遠くなり、涼しげな川に誘われ橋から落ちる寸前だった。何とかたどり着いた濵かつのトイレで滴る汗を拭き、濵かつランチを懐かしむ余裕もなく、珈琲冨士男で全身冷却し、近くにあった現川焼のショップで陶器を買って帰った。「桃太呂のぶたまん」をお土産にしたら好評であり、ネット通販でリピートし、ふるさと納税もして長崎県の経済発展に貢献している。

 思いつくままの内容がどこまで正しいかわからないが、脳内?データベースに記録が残されていることが確認できた。この随想体験は、あたかもマリオカートのマリオが、色即是空な世渡りゲームを日々クリアしている場面をマリオ視点で書き出している様で、その時間を共有した人たちの意見やドローン視点、プレイヤー視点でどの様に見えているかを興味深く思う。医者は患者の健康長寿に貢献すべくカートを整備し、あるマリオはより難しいステージに挑戦し、またあるマリオはリプレイし、冗談の様なゲームに気付いたマリオは自動運転モードに入るが、ゲームの外の世界をマリオは知ることはない。人生100年時代だそうで、AIやVRが飛躍的に進歩し、人の在り方や価値観が大きく変わっているであろう30年後(卒後60年)の随想を誰がどこで書いているか楽しみだが、その頃には、冊子形態の「朋百」はなくなっているだろうから、皆さんには動画資料を残しておくことをお勧めする。

 

             2025年4月  

 北陸病院 院長

吉田 光宏

 

 

 

 

 私が住む金沢市は、長崎県より二足早く新幹線が開通し、ここ数年新幹線バブルで、新しいホテルや飲食店が乱立し、インバウンド中心に活況を呈しています。この度、長崎医学同窓会から長崎大学医学部卒業後30年経つので随筆を書いてくださいと依頼があり、よい機会なので脳トレを兼ねて振り返ってみようと思います。

 記録によれば、私が長崎大学に入学したのは、1983年で、1990年に卒業している。教養部から学部に上がる際に、大量に留年者が出た学年で、私もその巻き添えを喰った三十数名と仲良く留年し、一浪一留の身のこなしを身に着け、吉村君らと諸行無常な学生生活を送ることになったと記憶している。記憶といえば、音楽は当時を振り返るよい素材である。私が医学生の頃、家庭教師先の中学生は、尾崎豊やバービーボーイズを聞いていた。同期の田口君のホンダ・プレリュードのカーステレオからは、ブライアン・アダムスやボン・ジョヴィの曲が流れていた。2019年日本で開催されているラグビーワールドカップで米津玄師というアーティストの「馬と鹿」という曲が流れていて、これはテレビドラマ「ノーサイドゲーム」の主題歌だったそうで、将来この曲を聴くと卒後30年の随筆を書いていたことと30年前には想像だにしなかっ

た日本ラグビーの大躍進を思い出すだろう。

 卒業後は、外科に行こうと思っていたが、勉学に励んでいたら腰が痛くなり、長時間の立位保持が苦痛で、内科系を志望することにした。 高守正治先生が、長崎大学第一内科助教授から金沢大学神経内科の初代教授に就任され、毎年長崎大学で講義をされていた縁で、私の出身地石川県にある金沢大学神経内科に入局させていただき、研鑽を積むことになった。当時の医局長は、長崎大学出身の井手芳彦先生で大変お世話になり、現在は佐世保中央病院で診療され、 学会で講演もされている。55歳頃でセミリタイ アを予定していた私と違い、高守先生、井手先生  ともに現役で活躍されていて、この時代の先輩方の    【 最近釣った鱸 】   熱量はすごいと驚嘆する次第である。金沢大学神経

内科学教室は、重症筋無力症(MG)の診療・研究中心であった。当時思い出深い患者さんの一人は、卒後4年目で国立金沢病院(現金沢医療センター)に一人神経内科医として勤務している頃、外科で胸腺摘出後にクリーゼとなった60代後半の女性MG患者さんである。呼吸器科から紹介された時は、気管切開されて人工的に呼吸管理されており、MGと診断後、ステロイドや血漿交換などで治療した。回診に行くと涙を流されて「治して助けてください」と声にならない音で訴えられ、「神様じゃないのですぐには治せませんが必ずよくなりますよ」と約束する日々でした。私は 2か月後に都立神経病院へ転勤することになり、経口ステロイド治療で回復傾向にあったので、元の主治医である呼吸器科の医師にステロイド漸減をお願いして患者さんを引き継いでいただいた。それから半年ほど経ち、私が都立神経病院の病棟を回診していると、その患者さんがご夫婦で廊下に立って、驚く私の姿を微笑んで見ておられた。歩けて話せるようになったところを見せたくて金沢市から神経病院のある府中市まで来て下さったのだった。それから20年以上月日が流れ、ご主人は昨年亡くなられ、ご本人は、趣味のパッチワークで毎年見事な作品を発表され、米寿を迎えて一人暮らしされている

 

                              後半へつづく。