AKさん73歳

は寿町のマンションタイプの新しい簡易宿泊所に住んでいる。

部屋は三畳タタミの旧式ドヤではなく、引き戸フローリングのバリヤフリー、きれいな廊下にエレベータ。

快適なベッド生活。

この部屋の中でTVをみて一日中紙巻きタバコの「わかば」をすっている。

 

昨年6月にNケアマネさんが寿町内の診療所からの紹介状を持参。

その時からポーラのクリニックからの訪問診療が始まった。

まずは、紹介状に記載されている、

 

「慢性腎不全にて命に限界が来たときに透析を受ける希望があるか?」

の確認を行った。

明確に透析Noの返事。

前医も再三再四確認した記載があったが、再度確認。

本人の希望は

「このまま、行けるとこまで」

と、簡潔明瞭。

 

生活保護、喫煙、食べたいものを食べる、基本「薬はのまない」

コレが人生訓のように一貫している。

 

私はこのような患者さんを診たとき、

「JUDGEしない」

ことにしている。

JUDGE,つまり判断。

コレでこの状態で、方針で、是か非かを判断しない。

人間は判断する時には必ず自分の物差しを持ち出して来る。

「ふつうはこうだろ」

という物差し。

コレに照らし合わせて判断すると、

腹が立ってきたり、期待にそぐわないと落胆したり、

ロクなことがない。

だから、

「そのひとらしく生きてその人らしく亡くなる」

ことを在宅医療、看取りの基本としている。

 

末期癌などだとどうあがいても近々に亡くなるので迷いが少ないが、

腎不全だといろいろと迷いが出る。

 

「もう一回問うてみよう、透析はどうか?」とか、

「透析をみたことがないから、見学してもらってから、最終判断を・・」とか。

特にみまもりチームのメンバーの中で、最も毎日を密に過ごすヘルパーさん達から、

この迷いを問いかけられる。

もう一歩進んだ迷いだと、

「何もしないことで本当に良いのか??」とか、

「これでは見殺しでないのか?」とか、

感じるヘルパーさんもおられる。

 

この感情は家族が抱くものと同じであり、

「見殺し」による罪悪感につながっていく恐れがある。

 

そういう場合もう一度、

本人へ訊く。

「たばこ吸えなくなる、食事も制限される、週4回4時間透析の器械につながれる、お薬もキチンと飲んでいただく」

いわゆる普通の指導を行いつつ、

透析への最終便のムンテラ(説明医療)を行う。

 

これでもなお本人がNOならば、延命ではなく

苦痛の緩和のための医療に切り替える。

苦痛の緩和医療は見殺し医療ではない。

看取りの医療となる。

ここまで来れば腎不全でも癌でも、行う医療にさほどの差はない。

「その人がそのひとらしく・・・」

いつものその路線である。