一寸のニンゲンにも五分のタマシイ。

このおしゃべり男とは数年以上の外来のつきあい。

今日、今、これから往診に行くが、 もう大好きなおしゃべりもできないだろう。

おそらく最期の会話になる。

一つ年下の男のみとり。

裏街道をあるいたまま、卒業式を迎えようとしている。


裏街道をあるく患者さんといえば・・・。

昔、とある大学病院の心臓外科の教授に、裏家業の患者さんを紹介した。

心臓のバイパスをやらなければ死んでしまう状況。

教授は「僕はやらないよ」「社会に役に立たないニンゲンのOPEはしない」

と。

私は、違和感を覚え、他の施設へ転紹介してOPEしてもらった。

違和感とは、「私たち医療者は医療をすればいい。社会の善悪に照らし合わせて医療の質を変えてはいけない」。


先日の「やまゆり園」事件に学ぶように、個人の価値観で他人の善悪や生きてる価値を判断すると、とても危険なこととなる。


以下に紹介する文章は、当院のナースが聞き取って書いてくれた裏街道ゴール直前の患者さんの話。


ニンゲンとしては一寸であるが、それなりの五分のタマシイがあるように思えてならない。


ちなみに、初診のときから、「先生! 俺は防衛医大で学生のために、解剖の登録してるから、ヨロシク」 と言い続けた男であることを書き添えておく。


  末期の肝臓癌Iさん(61)は、腹水でポンポコリンのお腹と、浅黒い皮膚色、落ちくぼんだ目をしてベットに横たわっている。

 

毎日、訪問診療と訪問看護が入り、利尿剤などを点滴に行くと、Iさんは掠れた声で

 

「もうここ5日食べていない」と言う。「食べられなくなったら、終わりよ」

 

「大体、俺はこうやって死んでいく人間を何人も見てきているんだから」 とこぼしつつ、

 

いったん話始めると、Iさんの瞳がキラキラし始める。「この間の、連続殺人知ってる?」

 

ドヤの比較的広くて新しい部屋の一室には、Iさんのお気に入りの歌謡曲が流れている。

 

ふと見ると、足下のゴミ箱に、菓子パンの袋が捨ててある時もある。そんな時は、嬉しい。

 

 

 Iさんは、九州に生まれた。両親と兄の三人兄弟家族。幼い頃は柔道少年だったという。勉強が嫌いで、中学を卒業すると陸上自衛隊に入った。

 

しかし、男ばかりの寮生活に嫌気がさし辞表を提出。

 

なんでも、駐屯地の海岸で水着の女の子をナンパし、夜中こっそり抜け出して密会しているところを3回も見つかり、その度に上官から注意されたのが辞める決定打になったらしい。「やっぱり……。外の世界がよく見えた訳よ。あんな閉鎖的なところはないからな。でもまあ、今にして思えば、多少後悔するよな」

 

 それからは、ヤクザの道に一直線。「頭悪かったからな。今更、雇ってくれるところなんてないと思って。当地では、ちょっと名の知れた組に行ってみたわけ。陸自いたって言ったら、すーぐ入れてくれてよ。若頭補佐までいったんよ。」

 

組に入ったばかりの頃、当たり屋のつもりがガッツリ事故に遭う。仕事内容は、詐欺の受け子から、ヤミ金の取り立て、潰れそうな病院の闇ブローカーから注射器や針を高額な値段で横流ししてもらう、闇金の取り立て、覚醒剤の密輸・売買・販売ルート管理など。

 

「指を詰めたのは、勢いっていうかイキがってやったの。組の姐さんにお中元持って行かなきゃ行けなかったんだけど、後輩に行かせて、自分は女と旅行に行っとったの。そしたら姐さんに「Iも随分偉くなったもんだね」と言われて、カチンときて落としたんよ。そのあと姐さんには、100万の羽毛布団送りつけてやった」

 

この姐さんという人と組長がラブホテルにいる時、I さんは毎回、ドアの前で見張り役をしていた。若頭補佐までいってこの仕事かと思うと情けなくて、自らも覚醒剤をはじめた。そして、逮捕。そのままフェードアウトして足を洗おうと、出所後は九州の外へ逃げた。

 

Iさん、30代半ばのことである。

 

 「3人の女と所帯をもった。って言っても、内縁だけど。1人は寝取られ、1人は俺の服役中帰りを待っていてくれなかった。1人は、俺に金がなくなると逃げていった。女って嫌だね。金の切れ目が縁の切れ目よ。真心がない生き物なのよ。だから俺も懲りて、ホストから逃げてきた女をかくまってやった時、ちゃんと謝礼30万、ソープで働いて払ってもらった。結局、俺を心底惚れさせてくれる女に出会えなかったんだろうな」

 

 流れついた地でなんとかカタギに戻ろうと店を出した。しかし、店の客であるチンピラと喧嘩し、ついには組どうしの抗争にまで発展。

 

「銃で3発撃った。やらなきゃ、やられると思った。20年位懲役入った。長く刑務所に入ったのはこの時と、傷害事件の時と2回だけ。俺は絶対に、強姦・強盗と、強のつくことはやってない。これだけは唯一、誇れる」

 

ちなみに、入所中に糖尿病が発覚している。

 

 

 出所後は50代半ばになっていた。もとの組の構成も変わっており、浦島太郎状態。

Iさんは組に迷惑をかけた人としてうっとおしがられた。仕方なく、昔のツテを頼りに地上げ屋の仕事があると聞き、横浜へ。それからは、ラブホにカメラを仕掛けてAV業界に闇ルートで売ったり、アイドルのコンサートの設営を手伝って手に入れたチケットを高く売ったり、寿のおじさんに肉体労働を斡旋してその上前をはねたり、ポーカー屋で稼いだり、時々覚醒剤をやったりして暮らしていた。

 

 

 そして、2005年の1月からポーラに通院開始。

 

うちに来た理由は、「今だから言えるけど、最初、うらぶれたあやしい病院だと思ってよ~。こんなとこなら俺みたいのにちょうどいいかと思った」とのこと。 下ネタ、芸能人のゴシップ(主に覚醒剤ネタ)、殺人事件、病院や警察の不正、薬の話題が大好きで、けっこうグルメなIさんは、癌ができていないか怖くて、何度もエコー検査をすっぽかしたりしていた。肝臓癌、見つかった頃には既に末期の状態で、最初はそれを受け止められずに再度覚醒剤に手を出してしまった。

 

しかしだんだんと彼なりに、実家の墓参りや人妻キャバクラ通いをして、少しづつ「死」にむかい、気持ちを整理しようとしていた。「家にあったヤバイもんは全部始末したんよ」 

 

 

 2016年7月を過ぎた頃から、状態は急激に悪くなる。一旦は入院するものの、そこで医療者とオリが合わなくて出てきてしまう。「俺は、患者になってルーチンでおしめ変えられながら死にたくないんよ。俺は俺のまま逝きたい」そう言って、立てなくなるギリギリまで毎日外来受診していた。「人の世話になりたくない」と、ヘルパーもギリギリまでつけなかった。そんな彼は現在、食事も喉を通らなくなってきている。

 

「今まで俺は、自分の為にだけ生きてきた。すこしでも、誰かの為に生きてたら、今、違っていたのかもしれないな。先生に今までありがとうと伝えておいてくれ」 

 

なんてことを言った翌日も、Iさんは生きていた。「どうせだったら、裏社会のこと全部お前に喋ってから逝くから。誰にも言うなよ」と、笑っていた。

 

往診時、過去の事件で警察が来ていると「今日は、神奈川県警2人来てくれた」と、嬉しそうにしている。

 

 

犯罪は決して許されることではなく、Iさんと犯罪は切り離せない。

 

でも、それがIさんなのだ。

 

私たちにできることは、そんなIさんの最期に寄り添って、見守ることだけである。

 

Iさん、あと少しだから、好きなだけおしゃべりしていいよ。