京極の表情に感情の動きはない。ユックリ動いて、最初に殴りつけた若い方を髪を掴んで引き起こす。打撃がまともに鼻に入ったのだろう。ヒン剥かれた目の下は鮮血でドロリと濡れていた。

 「先輩、もう止めて」

 向井が叫んだ時は遅かった。京極の拳が唸っていた。グシャッという気味の悪い音がした。押えておいてからの容赦のない打撃がまともに入った。京極が手を離すと、女はユックリと崩れ落ちた。死んだかもしれない。向井は背筋がゾクリと寒くなった。その時、廊下の方でパタパタいう物音が聞こえた。そちらへ神経を集中させると、電話もやかましく鳴っているようだ。

 「いけない。だれかきた」

 向井は声を殺して廊下をのぞいた。男がふたり各部屋を点検しながら、コチラに向かってくる。口々に、女の名前を呼んでいる。

 「電気を消せ。奴らが来たら突っ走って逃げる」

 そういった時は、京極も廊下をのぞいていた。向井は電気を消した。真っ暗になった。女たちが動く気配は全くない。この部屋はドンずまりになっている。逃げ場はない。京極のいうとおり障害を蹴散らして廊下を突っ走り、階段を駆け上って外に出るしか方法がない。幸い、足には自信がある。日頃、鍛錬しているからだ。

 男たちがアッという間に近づいてきた。ドアの取っ手を持って開けようとするところを京極が待ち受けていて激しく突いた。男ふたりは悲鳴と共に、廊下の壁まで吹っ飛んで崩れた。

 向井は京極のあとに続いて、野兎のようにすっ飛び出た。

 「待て、このヤロウ!」

 背後で怒鳴る音がし追ってくるようだったが押えられる心配はしなかった。彼らは不意を突かれ体勢を崩している。それでなくても、元々の脚力に差があるだろう。しかも、自分は商売柄、革靴で走ることに馴れている。京極はもっと速い。大股で階段を飛び飛びしていく。ビルを出て雑踏に紛れ込むのにたいして時間はかからなかった。

 

 ワンブロック離れたビルの谷間に、ふたりは身を潜めた。追っ手の来る様子は皆無である。向井は冷たい飲料をどっかの自販機から買ってきていた。一本京極に渡すと一気に煽る。京極もそうした。座るのに適当な階段がすぐ側にあったので、ふたりは並んで腰かけた。頭の上に、社員通用口のネームが入った蛍光灯が光っている。

 「なぜ、女をたたいたりしたんです?」

 向井は腹を立てていた。いかなる理由があろうとも、急に女を殴りつけるなど警官にあるまじき行為である。京極を糾弾するつもりだった。

 「わからない。カッとなったら手が出ていた」京極は長い頭髪をかきむしった。

 「どうすんです?女は死んだかもしれませんよ?」

 向井の正直な気持ちだった。荒くれ男を一撃で昏倒させる京極の正拳がまともに入ったのだ。ひ弱な女が絶命してもおかしくもなんともない。

 「まさか、あればあのことで死ぬなんてたまがすなよ」

 とっさに方言がでた。京極は山陰地方の出身である。内部的に混乱している証拠だった。

 「オレには死んだように見えた」

 向井は外していた黒眼鏡をかけて京極を見つめながらいった。腹いせに、もう少しいじめるつもりである。

 

                         続く