2025年度の
年間テーマ
「お言葉どおりこの身になりますように
~われ弱くとも恐れはあらじ~」
年間聖句
「恐れるな…神には、
何でもできないことはありません。」
(ルカによる福音書1章30.37節)
16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。
主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
1.はじめに―平和を求める心―
8月は、特に「平和」を思い巡らす時として過ごしています。
先週は、平和を実現するためには人間の知恵や力ではなく、全能の神さまのご支配である「神の国」と、神さまの御心である「義」を求めることが大前提であることを覚えました。
しかし、果たして自分の考えている「義」(正しさ)が、果たして神さまの「義」と一致しているのか、それをどのようにして知ることができるのか、今日はそれを考えてみたいと思います。
2.「確信」と「信仰」
映画『教皇選挙』をネットで観たのですが、このような台詞が出てきます。
「“確信”は寛容の敵、罪である。疑念を失った信仰には意味がない。“神秘”を受け入れる余地がなくなる」
―字幕のニュアンスで表現は違うかもしれませんが、だいたい、このような内容の会話でした。
つまり、自分の「確信」が、かえって神さまの小さな声の語りかけや神秘を受け入れる余地がなくなってしまう、という意味ではないかと受け取りました。
一般的に「信仰」とは、「確信」を持つことだと理解されています。
そして私たちは「自分の確信」(自分の信じるところ)に基づいて行動します。
しかし、その「確信」が他者への批判や排除につながるならどうでしょうか。
互いに「自分の正しさ」を主張し合えば、やがて争いや分裂を生み出します。
果たしてそのような「確信」が、本当に神の義に沿っていると言えるのでしょうか。
ですから、自分の考えを「吟味する」ことが必要になってきます。
3.神の義とは?
神さまの義は、人間の単純な「勧善懲悪」的な正義とは異なります。
エゼキエル書33章11節に、こう記されています。
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道を離れて生きるのを喜ぶ。」
私たちは、悪いヤツは滅びても当然、神が罰を与えるのは当然と、自分のことは棚に上げて考えます。
けれども、神さまは悪人に罰を与えて滅ぼすことよりも、罪人が本心に立ち返って、神さまのみ心に従がって生きることを望んでおられるのです。
この神さまの御心を、イエスさまはナザレの会堂で宣言されました。
ユダヤ人の成人男性は、安息日には会堂で聖書を朗読し、聖書の勧めを語っていました。
この日、たまたまイエスさまに渡された聖書は、イザヤの預言書(61:1.2)でした。
「囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである。」
そして、この預言は「あなたたちがこのみ言葉の朗読を聞いたこの時に成就した」と告げました。
「主のめぐみの年」とは、「神さまが最もお喜びになる時」「神さまが適切(ちょうどよい時)」と思われる時のことです。
先週お話したように、神さまは私たちの生きている世界の現実をちゃんとご覧になっています。
争い、憎しみが後を絶たず、弱い者が虐げられています。何も悪い事をしたわけではないのに、戦争に巻き込まれて子供たちが殺されています。
富める者が富を独占し、貧しい者が飢えて死んでいます。権力を持つ者が、民の人権を無視して暴力的に支配しています。
「打ちひしがれている」という言葉は、そのような「神の義」を知らない人々によって「ぺしゃんこ」にされている状態、「粉々に打ち砕かれている」状態、精神的に「ボロボロにされている」立ち直れないほどになっている状態を現わす言葉です。
しかし、イエスさまは「神の義」をもって、この世に来てくださいました。私たちの住むこの世界に、神さまが「ちょどよいタイミング」で介入してくださったのです。
この世に起きている不幸の原因は、人間が正しい判断ができず「罪の奴隷」となっているからです。
私たちを縛りつけているものは、神さまの御心に反するということも気づかずに、「自分の考え・判断」を絶対としている『罪』です。
神さまの「真理」を伝えるために来られたイエスさまには、神の霊が宿っていました。イエスさまが教えられたこと、なさったこと、すべてが神さまの「真理」を現わすものでした。
そして、私たちにもその真理がわかるように、「真理の御霊」と呼ばれる聖霊を送ってくださったのです。
イエスさまは、自分の義に囚われていた私たちをその束縛から解放し、真理に盲目であった目を開き、自由な「いのちの道」に導いてくださるのです。
4.自分の「確信」ではなく「神の義」を求めて
私たちは、「自分の確信」を振りかざすのではなく、イエスさまの教えと歩みに従いたいと思います。実は、イエスさまの弟子たちや、多くの群衆はイエスさまにつまずきました。「自分の義」と相容れないからでした。
イエスさまが地上に来られた時、誰一人神さまのみ心である「義」を理解できず、むしろ十字架で処刑されたイエスさまをバカにしました。
この世の常識では、力を持つ者が強いのです。だから、富と武力を増やそうとします。
しかし、神さまの義は、敵を憎むことよりも赦すこと、奪うよりも与えること、争うよりも和解すること―それをイエスさまが教えてくださいました。
このことを、私たちは「自分の義」の基準で「馬鹿らしい」と思うでしょうか。
ルカは、イエスさまの宣教の第一声が「今日成就した」と伝えます。
「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」
今日聞いたイエスさまのお言葉が、私たち一人ひとりの心の光となりますように。そして、私たちが、平和を造り出す神の子をして自由に、平安に歩んでいけますように祈ります。
【黙想・祈り】
父なる神さま、どうか私たちが「自分の確信」ではなく、イエスさまが示されたあなたの義に従って歩むことができますように。今、この世の力によって虐げれている方々を解放してください。迷っている者には、あなたの真理の道をお示しください。イエスさまによって伝えられたあなたの福音によって、この世界に、自由と平和がもたらされますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
長いメッセージを読んでくださり、ありがとうございました。
「最近、自分の新たな「罪」を自覚している。それは『確信』だ。『確信』は寛容の敵、罪である。疑念を失った信仰には意味がない。…」
映画「教皇選挙」の中で、「教皇選挙」を仕切ることになったローレンス首席枢機卿の台詞です。
教皇選挙に臨むにあたり、親しいベリーニ枢機卿と対話していた場面だったと思います。
吹き替えと字幕でこの場面を見て、私はハッとしました。
『神の義(ただしさ)』よりも、自分の『正しさ』に固執してはいないか…と。
「神の義」を求めるということを頭ではわかっていても、「神さま、ザンコクやん」「神さま、なんでやねん!」と思うことがたくさんあります。
そもそも、神さまはなぜ、罪を犯していないイエスさまを十字架にかけてしなせたのか?とか…
この日の愛餐会後は、「聖書を読む会」でした。「神の義と自分の義」について、語り合いました。
イエスさまの「神の国(天国)」の譬え話には、「神さまは不公平やん!」と思う話がたくさん出て来るね‥と。
だけど、それが「神さまのみ心なんだよね…」という思いにたどり着きました。
自分の『正しさ』が果たして本当に正しいのか…。
イエスさまにお示しいただきながら、皆といっしょに歩んでいきたいと思います![]()
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